三喜雄はその日、きちんとネクタイをして、堅すぎないとは言えスーツで出勤したので、笹森や体育担当の兼松からあらぬ疑いをかけられた。授業が終わってから、何処かに採用面接に行くのではないかと問われたのである。
「違います、夜にちょっと食事に行くことになってて、ドレスコードがあったらいけないと思って」
「えーっ、高級ホテルの高級レストランですか?」
兼松は半笑いで言った。珍しく笹森が、彼に同調する。
「ジーンズを嫌がるとかはありそうだけど、スーツでないと入れてくれない店なんか今時あるの?」
フォーゲルベッカーの偉い人に肉をご馳走になると、正直に話すのは躊躇われた。別に隠すこともないだろうけれど、変な自慢だと受け取られるのが嫌だった。三喜雄は半分本気で答える。
「中流市民だからわからないんですって」
「そりゃまあよく知らない店には、ちゃんとした恰好で行っておくに越したことないですよ」
兼松は、ドレスコードで何かやらかしたことがありそうな口ぶりだが、突っ込むと長くなりそうなのでやめておく。
「何処に何食べに行くんだ?」
笹森は興味津々だが、これはどうも、三喜雄がデートに行くと考えている様子である。
「恵比寿で、目の前で焼いてくれるステーキを……」
三喜雄の答えに、おおっ、という声が同時に上がる。笹森と兼松が、何故か楽しそうにコメントした。
「いいな、そんなの10年は食ってない」
「僕は昔も今も質より量ですからね、羨ましい」
「俺はたぶん人生において初めてかと……」
つい三喜雄が口にすると、2人は目を丸くした。笹森が信じられないように言う。
「片山くんって、ドイツに3年いたんだよな?」
三喜雄を助けるような口ぶりになったのは、兼松だった。
「焼いた牛肉ガツガツ食べるのってアメリカだけじゃないすか? 僕ドイツは知りませんけど、イタリアとか意外と肉肉しくなかったすよ」
「俺ヨーロッパ知らないけど、アメリカは確かに肉肉しいわ」
話題よりも、笹森と兼松が意見をまともに交換しているのを初めて見て、三喜雄は密かに驚いていた。いい話題を提供したかもしれないと、控え室の平和な空気に三喜雄はほっとしていた。
カレンバウアーが指示してきた店は、恵比寿の駅に近いレストランビルの中だった。どの店も高級そうで、その建物に足を踏み入れることにさえ三喜雄は怯んだが、スポンサーのお呼び出しだ。これがいわゆる営業だろうかと思いつつ、エレベーターに乗りこむ。
三喜雄の知る限り、ドイツ人は概して健康志向なので、ビールはがぶがぶ飲むが野菜もきちんと食べる。そのステーキハウスのホームページに、契約農家から新鮮な野菜を仕入れ、サラダや肉と一緒に焼くメニューがあると書いてあった辺り、カレンバウアーはドイツ人らしいチョイスをしているらしい。
腕時計を確認すると、約束の時間の3分前だった。ばっちりだと三喜雄は自画自賛し、ステーキハウスのドアを開けた。ドイツ人は時間に遅れることを嫌うが、早くても嫌な顔をする。しかも前後10分以内と、許容範囲は何げに日本人より狭いのだ。
三喜雄がカレンバウアーと自分の名を告げると、店員は直ぐに窓際の席に案内してくれた。窓の外を見ていたカレンバウアーがこちらを見たので、三喜雄は深めに会釈する。仕事帰りだからだろうが、先方もスーツだったのでほっとした。
カレンバウアーはにっこり笑った。
「こんばんは片山さん、来てくださってありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、お気遣いいただいてすみません」
三喜雄は緊張しつつ、ホストの向かいの席に座った。ちらっと周囲を見ると、客は大人ばかりで、皆ナイフとフォークを動かしつつ、静かに語らっている。客層が良いのだなと、至極当然のことに感心した。カウンター席の前の鉄板でステーキを焼いているが、店中に肉の匂いが充満している訳でもなく、照明が暗めのこともあり、落ち着いた空間だった。
すぐにビールが来たので、まずは乾杯した。社会人になってからは自重しているが、基本的に大酒飲みの三喜雄は、仕事の後の一杯が染み渡る快感に密かに打ち震える。
「美味しいですか?」
顔に出ていたらしい。笑顔のカレンバウアーに訊かれて、三喜雄はやや羞恥心を持て余しつつ頷いた。
「はい、美味しいです」
「日本のビールは繊細で美味しいですね、缶ビールも結構いけるので驚きました」
三喜雄に言わせてみれば、ドイツの缶ビールも美味である。ケルンで暮らし始めた頃は、どのビールを買って帰ろうかと迷うことが毎日楽しかった。