窓ガラスを突き破った先。
教室の中央では、水びたしのザラメが茫然自失で俺を見ていた。
その顔に、全身が強張る。
理由は明白。俺を両目に捉えるザラメの表情は、見たことのないものだったから。
例えば。
救世主に縋った挙げ句、望まぬ形で喪うような。
あるいは。
夢を見つけた挙げ句、粉々に砕かれるような。
失望……と言えばそれまでだが、それだけで片付けて良いのか迷っちまう。
てっきり、「怖かったですぅ」とマヌケ面を晒していると思っていた。そうであってほしかった。
頭にこびりついて、忘れられそうにない。
どう声をかければ良いものか。
悩んでいると、ザラメの方から徐ろに口を開く。
水に濡れた口元が、やたら色っぽく艶めき……。
「ふぇ……」
「ふぇ……?」
「ふぇええええんこおりざあああああん!!!!」
「うおい?!」
思いっきり抱きついてきた。
弾みで後ろに倒れ込む。
「ごっふぁ! いきなり飛びつくなよ!!」
「だっでえ、こわがったでずもおおおおん!! 」
前言撤回!
さっきのは俺の見間違いみたいだ。
こいつがアンニュイになるわけなかったわ。
火災警報器から降り注いでいた雨が止む。
教室中は水浸し。
倒れている俺の背面も、服ごとびちゃびちゃだ。
その水気も気にせず、ザラメは俺の背に手を回し、力いっぱいに抱き締めて……。
「いだだだだだ!! くるっ、苦じいって!」
デカい胸がぐいぐい当たる。
手でザラメを押しのけようとするも、抱き締める力は変わらない。
助骨と背骨から、断末魔の叫びがするんだが?!
「こら、どけっての!」
「……」
「ザラメ!!」
「……」
「いい加減に……!」
「…………」
急に、自分を締め付ける力が抜けるのを感じた。
「ザ、ザラメ……?」
ザラメは返事をしない。
ぴくりとも動かない。
「おい、ちょっ大丈夫か? しっかりして……」
「そっとしておきたまえ、青年」
後方から声がかかる。
振り返ると、デウスとコスズが立っていた。
「眠っているだけだ」
「あっ」
確かに、耳を澄ますとザラメの寝息が聞こえる。
デウスは優しく微笑みながら、俺とザラメの傍でしゃがみ込んだ。
愛おしげにザラメを撫でながら、デウスは言う。
「急激な力の濫用で、体力を消耗したのだろう。今はゆっくり、寝かせてあげようではないか」
「あげようではないか……」
色々と力が抜ける。
と同時に、全身がジンジンと悲鳴をあげ始めた。今まで抑えていた痛みが、思い出したかのように襲い来る。
「はぁああああ、なーんでこう今日は骨折り損なんだよぉ」
「ザラメに抱きつかれて、骨折り損だとぉ?! なんとずるい!!!! けしからもごがっ?!」
「デウス様……ザラメ、起きちゃう……」
デウスの口に、お手製の氷塊をぶち込むコスズ。
デウスはなんかもごもご言ってる。
そんなデウスに構わず、コスズは俺に尋ねる。
「郡……ツカイマ、どこ……?」
「あいつなら、校舎の入口にいると思うぞ」
目を回していたミドウを思い出す。そんでもって、俺をホールドして眠るザラメを一瞥する。
能天気にはしゃぎ回るあいつと、泣きそうになっていたこいつ。腹の中で、何かがゴポゴポ煮えているのを、否が応でも自覚した。
俺の答えを聞いたコスズは、不審げに首を傾げていた。
「いなかった……」
「は?」
「ツカイマ……いなかった。ね、デウス様……」
「ふが」
「壁……壊れてただけだった。ね、デウス様……」
「ふが」
確かめるようなコスズの問いに、氷をガリガリ噛みながら、頷くデウス。
「逃げたってことかよ」
「もがっ、んぅ……いや、それはないだろう。あのツカイマ……ミドウは、この場所に依存している。無条件に、学校から出ることはできない」
氷水で濡れた唇をハンカチで拭きながら、デウスは答えた。
「いずれにせよ、もう一度捜索する必要がある」
「今から……?」
コスズの問いに、デウスは窓の外に視線を向けて言う。
「いや、今からは厳しいだろう」
つられて俺も外を見ると、紺色の空の足元……地平線が赤らんでいた。雲は紫がかっており、夜が明けたんだと思い至る。
「ここを“再起”する時間も必要だからな」
続いてデウスは、俺がぶち抜いた窓に目をやる。
「再起?」
「欠陥前の状態に戻す、ということだ」
「そんなことできるのか?」
「できるとも。私は神だぞ?」
「あ、そうだったな」
「忘れてたの?!」
すっかりさっぱり忘れてた。
「でもお前、力を失ったんじゃなかったか?」
「そうとも。だが、この程度の小規模な“再起”なら、今の私にも可能だ」
腐っても神ってことか。
そう思っていると、徐にデウスが立ち上がる。
「では、始めるとしようか。ザラメと先にここを出ておいてくれ。少し時間がかかるのでな」
「分かった」
俺はザラメを負ぶる。
いくらこいつが軽いとは言え、疲弊した足にはなかなかの負荷だ。小刻みに震えている。
「わーい、こんぺーとうがいっぱいでしゅぅ……」
呑気に寝言とかマジでこいつ……。
起きたらボーナスせがんでやろう。とびっきりの労働費だ。
「コスズも疲れただろう? 一緒に帰りたまえ」
コスズは素直に頷く。
「じゃ、後は任せた」
教室のドアを開けた俺に、デウスは爽やかな笑顔で答える。
だが、扉を閉め切る間際――。
「…………これも、捧げられなかった弊害か?」
眉間に皺を寄せ、デウスは呟いた。
いつもの残念っぷりからかけ離れた、この世界の“先”を見るような目つき。自分に向けられたわけじゃないのに、身体が引き攣る。
「であるならば、私の為すべきことは……」
魂を圧迫するような重苦しい息吹に、一瞬呼吸を忘れる。冷たい声音に、心臓を鷲掴みにされたような心地がした。
————ただ、“瑕疵”を消し去るのみ。