数日後の夕暮れ時、親分が佐々木家へとやってきた。壊れかけている枝折戸が危なっかしく揺れる。
「まさか壊れたか……?」
太一郎は思わず息を詰めるが、それはなんとかよろよろと大人しく、元の場所へ戻ってくれた。
「やれやれ……」
いつものように裏庭へ回って声を掛けると、すぐに英次郎とお絹が姿を見せた。英次郎は内職の道具を片付けていたらしい。
「親分、さぁさぁ、こちらへ」
夕餉の支度をしていたのであろう、前掛けをしたままのお絹が、親分を屋敷の中へ案内した。すぐに帰るからと遠慮する親分に向かって、
「親分! もし夕餉がまだだったら、一緒にどうだ? 今宵はそれがしと母上、ふたりだけなのだ」
と、にこにこと英次郎が笑いかける。ぐぅ、と、太一郎の腹が鳴った。
「親分、今日は鮎がたくさん手に入ったのですよ」
お絹が手早く太一郎のぶんの膳を用意する。口では遠慮の言葉を述べている太一郎だが、目はもう夕餉に釘付けである。
「なんと美味そうな……! しかしこちらのご亭主やご隠居よりも先に頂いては申し訳がない」
「親分、気遣いは無用。我々が最後なのだ」
英次郎が寂しそうに言う。
つまりは、腹ごなしをしてどこぞへ――おおかた、夜開く賭場へ出かけたのだろう。お絹や英次郎が必死にやりくりした
「さぁさぁ、親分、英次郎、頂きましょう」
お絹がつとめて明るく言う。行儀よく母子が手をあわせ、親分もそれに倣う。
膳の前に座るや否や、くん、と親分の丸い鼻が動き、目が童子のように輝く。
「なんとも美味そうな」
鮎の塩焼きが置いてある。
冷ややっこに大根おろしをのせたもの、胡麻をさっとふったきんぴらごぼう、庭でとれた菜を塩漬けにした自家製漬物、そして白米に味噌汁。取り立てて珍しい膳ではないが、
「美味い! すばらしい味付けじゃ」
と、一口食べるごとに親分が絶賛するため、お絹も嬉しそうである。
親分の腹が膨れたころ、お絹が冷酒を運んできた。肴にはなんと、南蛮菓子のぼうろが添えてある。ころん、と可愛らしい。
それらを楽しげに摘まみながら、親分が上機嫌に告げた。
「英次郎、件の道場は間違いなく天然理心流の道場じゃそうな。師範が近藤何某。とにかく今どき珍しいほど剣術熱心な一派で、生粋の門弟よりも客分の方が多いそうじゃ」
「近藤というと、親分と話していたお人かな」
うむ、と、太一郎が頷く。
「次に、英次郎が手合わせした剣士のうち、色白の小柄な青年は北辰一刀流の藤堂何某、なんでもどこぞの大名の御落胤らしい。それの真偽は不明じゃが、藤堂というなら伊勢であろうか。そしてあの道場の台所事情は御多分に漏れず火の車、師匠と塾頭が多摩への出稽古でなんとか凌いでいるようじゃな。そしてこの塾頭というのが、若いが滅法強いそうな」
太一郎が一気にしゃべった。お絹が労わる様に酌をすると、太一郎が心底嬉しそうな顔になった。
「多摩ですか。お上の直轄地でしたね、天領ゆえ村人たちの徳川家への忠誠はそこいらの侍よりも、はるかに強いのだと聞いていますよ」
「母上、詳しいのですね」
お絹が小さく笑い「英次郎、我が家は御家人ですよ」と言う。
「さらにじゃな、門弟衆の中に薬売りがいることも判明した。『石田散薬』なる薬でな、これは酒と一緒に飲むと効くそうじゃ」
「石田……? 聞いたことのない薬ですね、母上」
「そうですねぇ。そもそも、酒で飲む薬とは珍しい気もしますね」
「それを売っている男が、どうも……いや、氏素性は知れているのじゃ。いかんせん、素行が……」
「手癖が悪いのか? それとも凶状持ちや島帰りか」
「いや、女で幾度もしくじっておる。どうやらちょっとした色男であるらしい。女が放ってはおくまいな」
「その色男が、おじじの道場破りをしたのか」
「……ということになっておるな」
親分の不思議な言い回しに、お絹と英次郎は顔を見合わせる。親分はぼうろの味を堪能しているようで――何か思案している。
「親分?」
「英次郎、再度あの道場を訪ねてな、その色男と手合わせしてみればわかる」
ぽん、とお絹が手を打った。
「親分は、その色男が道場破りではない、何者かが色男を騙って道場破りを行った、と考えているのですね?」
「さすがお絹さま!」
お絹がころころと、楽しそうに笑った。
「色男はーーいろいろ恨みも買っているようであったな」
その数日後、英次郎と太一郎は再び試衛館を訪ねていた。
「親分、ちと、ここで待っていてくれ」
と、英次郎はそう言い残してすたすたと道場の門をくぐり、門弟に声を掛けて稽古に参加する了承をとってしまった。どうやら英次郎はあれ以降、たびたびここを訪ねているようだった。
鋭い気合が飛び交い、英次郎が次々と相手を変えて激しく打ち合う。
「ああ、英次郎がふっとんだ……! おお、さすが屈強な男……にしても大きな口じゃ!」
その男が、師範の近藤であるらしい。稽古にやってきた通いの門人に稽古をつけはじめた。
「お、優男……あれか。荒っぽいが、腕前はそこそこじゃな……鍛錬が足らぬ。英次郎の相手ではない。む? あちらの青年はいい太刀筋じゃ」
英次郎と同い年くらいだろうか。にこにことやたら愛想がいいが、ひとたび木太刀を構えるとがらりと雰囲気が変わる。体で切れ、と物騒なことを叫んでいるが、その意味が理解できている門人は見当たらない。
「ほう、あれは……天才というやつじゃな。将来が楽しみじゃ」
「親分は見る目が素晴らしいな」
師範が声を掛けてきた。四角い顔だがぽつんと笑窪がある。純朴な男だ、と、太一郎は思った。
「ときに……誰をお探しかな?」
「む?」
「いや、名の知れた衣笠組の親分が道場に乗り込んできたとなれば……道場破りか人探しかくらいしか思いつかぬ」
言いながら、あっはっは、と豪快に笑う。
「相済まぬ。確かに人探しであるが……連れの者、英次郎が見つけるであろう」
「なるほど」
どっかりと、ふたりは道場の端に座った。