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第33話 甘味の鬼4

 まさか太一郎親分が途方もないことを考えているとは夢にも思わぬ御家人の次男坊は、妖について書かれた書物を次々と読む。どうあっても、倒すつもりでいるらしい。

「お、そうじゃ、英次郎。クルチウス商館長たちの具合はどうなのじゃ」

「それがな、昼も夜もウンウン唸っているらしいぞ。水を少し口に含むだけで痛むとかで、宿を抜け出すどころか布団を抜け出すこともままならず、大名家の使いも蘭学者も、誰一人として面会できてないそうだ」

 実に気の毒なやつれ具合だった、と、英次郎が心底気の毒そうに言う。

「左様か……なんとかせねばならんな」

 どっこいしょ、と、親分がいかにも重たそうな腰をあげた。畳がぎしぎしと鳴った気がして、英次郎は思わず畳を凝視してしまった。佐々木家でこのような音がしようものなら、大工道具を取りに行かねばならない。

「よし、英次郎、ちと出かける」

 太一郎が廊下を歩くと、外出を察した若い衆が長刀を差し出す。それを一本落とし差しにし、親分は庭へ下りて行く。

「親分? どこへ行くのだ」

「決まっておる。クルチウス商館長たちの見舞いじゃ! 英次郎、長崎屋に医者はおったか?」

「いや。長崎屋の娘御がいうには、いつもの医師がぎっくり腰で動けぬとかで、商館長らが苦しむと手の空いた長崎屋の者が医者のところへ走る。ゆえに手当てが遅れ遅れになっているとか」

 それはいかぬな、と、呟いた太一郎は、通りがかった若い衆を掴まえて「了蘭先生を長崎屋へ連れて来てくれ」と言った。

 言いながら懐から取り出した小判を、素早く懐紙に包む。その額の多さに、英次郎は思わず苦笑を漏らした。

「蘭医とは……かくも儲かるものなのか……」

「類まれなる名医で諸外国に通じておる貴重な御仁でな。腕は間違いない御仁ではあるのだが……なんというか、それ以上に業突く張りの臍曲がり爺で有名でな……出し渋って臍を曲げられるとちと、困るのじゃ」

 やくざの親分を困らせるとは、相当な「大物」である。いろんな人が、親分の周りには集まっているものである。

 と、ふいに英次郎は己がなんのためにここに来たのかを、思い出した。

「親分、見舞いが大事なのはわかる。が、鬼退治はいつしてくれるのだ? あれは異人ではない。絶対に鬼だ」

「よし。そこまでいうのなら……長崎屋からの帰りに、見に行ってみようかの。その現場にまた現れるかもしれん。じゃが先に……背に負った傘を納めねばなるまい」

 しまったぞ、と英次郎が飛び上がった。

「お、親分、相済まぬ。先に長崎屋へ行ってくれ。すぐ追いかける!」

「相解った」

 こうして太一郎と英次郎は、それぞれ衣笠組を後にした。


 長崎屋へふらふらと向かいながら太一郎は、今現在、江戸に密かに滞在している異人たちの顔をざっと思い浮かべた。

(ふーむ……)

「通りすがりの侍を蹴り飛ばすような者はおらぬ!」

 それは断言できる。

 日本人と諍いを起こせば外交問題に発展しかねないことを、彼らはよくよくわかっているからだ。

「ならば、無断で宿を抜け出すものは――」

 残念ながら、いる。

 しかし彼らは地理に不案内である。江戸の切絵図が彼らの手元にあるにはあるが、漢字と片仮名と家紋が主たる要素である絵図を見て彼らは一様に顔をしかめる。「これを見ながら移動できるとは思えない」というのだ。そのために、どこぞへ出かける時には案内のものを頼むことになる。この時点で隠密行動はほぼ不可能だ。

 夜は夜で、提灯でうまく夜道が照らせないため、必ずといって良いほど太一郎の部下や長崎屋の男衆が手引きというか道案内をしている。

 つまるところ、この江戸で異人がおかしな動きをしたら、ただちに太一郎の耳に入る仕組みが出来上がっている。 

(そのような話は聞いておらぬ……)

 そもそも、いずれも仔細あっての極秘の江戸滞在だ。幕府や朝廷、時には諸外国同士で、それぞれ緊張の交渉や会談を続けている。騒ぎを起こすような真似をするとは思えない。

 なにより、剣の達人である英次郎の意識を一撃で刈るとは並大抵の腕前ではない。

(これは恐ろしい相手やもしれぬな……)

 出来れば遭遇したくない。ぶるっと、太一郎は小さく震えた。

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