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第36話 甘味の鬼7

 それからあっという間に数日が経過した。


 朝から、佐々木家の縁側に甘い匂いが漂っていた。お絹と、陽が登るよりはやくに佐々木家にやってきた喜一、ふたりがせっせと甘味を作り、佐々木家の庭に並べているのである。

 ちなみに、喜一が饅頭や餅など和菓子を受け持ち、お絹が南蛮菓子である。

「団子に大福に餅のたぐい……素晴らしいな。おや、飴はさすがに細工はしておらぬのか」

 太一郎が、細長く切った紙に菓子の名を書きつけては皿の下に敷いて行く。

 あらゆる種類の甘味を順番に作れば、甘味を狙う鬼なら必ず来るであろう、ならば呼び寄せて甘味を食ろうたところを捕えようという、至極単純な試みだ。


 しかし庭と言っても、実際は畑である。

 種まきを終えたばかりの柔らかい畑を、よく肥えた鶏たちが元気よく歩いている。今日も太一郎お手製の餌を貰ってご機嫌なのである。

 ちなみに昨今の御家人屋敷や大名屋敷の敷地内、庭が畑と化しているのは少しも珍しくないが、鶏たちが我が物顔で闊歩する屋敷は、お江戸広しといえども佐々木家くらいであろう。


 その畑の真ん中に、腰の高さほどもある丸い卓が二つ置かれた。クルチウスに借りた、異国の調度品だ。

 しかも、クルチウス商館長の部下、通詞でもあり書記であるフリシウスがこれを運んできたため、英次郎の母・お絹が大喜びした。にこにこと愛想の良いフリシウスは、ごく短い間に異国の菓子や食事についてお絹に伝え、お絹はそのお礼に「お絹かすていら」と「ぼうろ」を渡した。

 当然、フリシウスは大喜びで長崎屋へと戻っていった。長崎屋にも、お絹の南蛮菓子が好きな人は多くいるのである。

「母上とフリシウス殿のように、我が国と異国と分け隔てなく仲良く出来たらよいな。どちらにも、良いところ、見習うべきところはあろうから」

 と、英次郎が太一郎に言った。

「幕閣のお偉方や、攘夷一辺倒の浪人どもに聞かせてやりたい言葉じゃな……」

 とは、各人の思惑に振り回されて阿蘭陀人警護が増えて、いささか疲れ気味の太一郎の嘆きである。


 そして、午の刻が過ぎたころには、庭に置かれたテーブルの上にはさまざまな種類の甘味が並んだ。色とりどりで、見るだけで食べたくなる。

 テーブルの傍に陣取り、丸い鼻をひくつかせているのは言うまでもなく太一郎で、襷をかけて甘味を運んでくるのは英次郎。

 台所でせっせと休むことなく甘味を作っているのはお絹と喜一だ。喜一は、菓子作りの師と仰ぐお絹と並んで作業ができ、感激しきりである。だが、親分の肥過ぎと食欲を心配するのも忘れない。

「親分、塩饅頭の試食は五個までと喜一さんが申しておるぞ!」

「わ、わかっておる」

 ひい、ふう、み……と英次郎が皿の上の饅頭を数える。

「おかしい。数が足らぬぞ。親分が七食べたとすれば計算があう」

「き、気のせいじゃ! わしは七つも喰っておらぬ」

「む? いいや、喰った」

「喰ってはおらぬ!」

「口元に餡がついているがそれはさっき見た時はなかったぞ」

「これは一個目に食ったときについたものやもしれぬし、五個目の餡かもしれぬ。わしが饅頭を食った証ではあるが、七個目の証にはならぬ」

「た、たしかに……」

 喰った喰わぬと言い争いをしているところへ、ふわりと甘い香りが漂ってきた。

「なんですか、疾うに元服を終えた殿方が幼子のような言い争いをして、笑われますよ」

 ころころと笑いながら庭に下りてきたのは、お絹だ。その手には尋常ではない大きさの皿と、小ぶりな鉢がある。

「お絹さま! 転んでは危ないゆえ、力仕事はそれがしをお使いくだされ……」

 太一郎が巨軀に似合わぬ俊敏さでお絹の傍へすっとんでいく。

「まあ親分、有難く。それではこのお皿を置いてくださいな」

 恭しく大皿を受け取った太一郎が、そろり、そろりと、大皿をテーブルの真ん中に置いた。

「くはぁ……出来立てほやほやじゃ……。お絹かすていら……たまらぬ……」

「親分、よだれを拭け。みっともない……」

「かたじけない」

 小鉢の中には、南蛮菓子のぼうろが入っている。平たく丸いそれを、お絹が親分の手に乗せる。

「親分、これを食べて鬼が来るのを待ちましょう」

「母上、それはさきほど、親分が母上と一緒に棒で伸ばした生地が焼けたのですか」

「ええ、そうですよ。自分で作ったお菓子というものも、存外美味しいものなのです」

 幼子のように満面の笑みを浮かべ、そーっと口に含んだ太一郎の頬が、蕩けた。

「うまい……うまいぞ!」

 それは何より、と、微笑んだお絹が縁側に腰掛けた。傍に積んである内職の傘張りを再開するのだろう。

「親分、この落雁も美味い!」

「そうであろう? 喜一は菓子作りの名人じゃ」

 なんのかんなと言いながら、二人してテーブルに並んだ菓子をつまみ食いする。英次郎が苦笑しながら差し出す懐紙で口元を拭っていた親分だが、すぐに叫んだ。

「あっ、お絹さま、危ない! その場に伏せて下され!」

 ご機嫌だった鶏たちがバサバサと慌て、親分がお絹の元へ走る。英次郎はそちらを見ることもなく、腰を落として空の一点をじっと見詰めている。

 太一郎がお絹を巨体で護ったのと同時に、空から落ちてきた赤い塊。

「えいっ!」

 英次郎はそれを迎え撃ち、瞬時に地面に縫い留めた。

 どうやったのかなど、英次郎本人以外にわかろうはずがない。

「やれやれ。でも……沖田さんの奇襲より読みやすい動きだったな」


 鬼は、黄色に黒い横線が入った半袴を地面に縫い留められ、暴れていた。

「ええい、静かにいたせ! 親分、母上! 捕えました。うわ、本当に鬼だ!」

「お手柄じゃ、英次郎!」

 嬉々とした太一郎が、小躍りで近寄ってくる。

「親分、こやつは化け物ゆえ」

 慎重に、と英次郎が言い終らないうちに太一郎は、拳を握りしめて鬼の頭に拳骨を落としていた。

 それはそれは見事な拳骨で、おもわず英次郎が首を竦めたほどだ。

「こらっ! そなたの赤き足、見覚えがある。人の甘味を奪うとは許し難き所業! 何故そのような真似をした! そなたは何者ぞっ! 甘味はどうした! 返せ!」

 ぎょろり、と目玉を動かした鬼は、あろうことか太一郎に向かって、あっかんべー、と舌を出した。

「かっ、可愛くない!」

 と太一郎が目を剥く。

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