ただし、大家の清兵衛に管理された
例えばーー。
元いた長屋の連中に呪いをかけてやるぞと大いに騒いで追い出された老婆がいる。彼女は今も、人を呪うことや呪術の研究に忙しい。
その隣は、役者のような色男。彼は、元はどこぞの武家でしかるべきお役目についていたらしい。が、見目麗しさが殿様の奥方や姫様の目に止まり、それぞれと「間違い」を犯した。それが露見した際、お家は大騒動となった。殿様は妻と娘を弄んだ家臣に対し怒りのあまり刀を抜き、母と娘は男をとったとられたと互いに罵り合い、最後には脇差や小太刀を手に男を追い回した。逃げ惑う彼を助けたのが、清兵衛だった。
その向かいにいる浪人は、実に口の上手い男である。彼は、以前住んでいた長屋でおかみさん連中を次々誑かして金銭を出させていたことが発覚し旦那連中に袋叩きにあって着の身着のまま追い出された。ふらふらと町を彷徨っているところを、こちらは太一郎に拾われこの長屋へやってきた。
その隣でひっそり暮らしているのはさる藩より駆け落ちしてきた一家であるし、仇持ちの剣術家がいれば、心中未遂常習犯の若後家、偽坊主に強面の浪人――さらに、長屋そのものでたびたび騒動が起きるとなれば、まともな住人はほとんどよりつかないのも、道理である。
そもそもの話、大家の清兵衛からして見るからに怪しい。
清兵衛の左眉から右の頬にかけて大きな刀傷がはしり、見るからに悪人面である。
しかも町人の姿形をしてはいるが挙措は武家のそれであるため、ますます正体がわからない。店子たちは清兵衛を、どこぞの重臣ではないかといい合っているが清兵衛は己の出自に関してはまったく口を開かないのである。
さらに、やくざの衣笠組や町奉行、日本橋界隈の大店の旦那や吉原とも昵懇というのだから、事件と進んで関わっているようなものである。
そんな清兵衛長屋へ、新しい住人がやってきた。衣笠組の親分に伴われた旅の親子だ。
「清兵衛どの、こちらの親子をお連れしたぞ」
長屋の木戸で親分が叫ぶ。と、盆栽と剪定鋏を手にした初老の男がひょこっと顔を出した。
「これは、親分」
「清兵衛どの、こちらの長屋を探して本所をあちこち彷徨ったそうな。
ふむ、と、清兵衛は太一郎を見、そして親子を一瞥した。鋭い視線だったのはほんの一瞬、すぐに視線はそらされる。
いかにも浪人といった風情の青葉が丁寧に頭を下げて名前を告げ、慌てて浮羽も頭を下げる。
そのまま大家の家に招かれ、なぜか親分がついてきて、いそいそと全員ぶんのお茶を淹れる。
そっと置かれたお茶は、香りがよく色もいい。ゆったりと飲んだ清兵衛は、
「ようござんすよ、親分」
と、言った。驚いたのは青葉である。江戸に来た事情も身の上も何も話していない。親分も親分で、「かたじけない」と頭を下げている。
「ただし」
その清兵衛の一言に、ぴりっとその場に緊張がはしった。
「なんじゃ?」
「佐々木の英次郎さんをしばらく借り受けたい」
なんと、と、親分が動きを止めた。
「何かが起こってから使いを出したのでは遅い」
「む……相分かった」
頷いた親分が、青葉の方へ膝を回した。
「ここは、常ではみられぬ騒動や、細かい長屋の仕来りがあるゆえ、最初は一日暮らすだけでも難儀と思うが辛抱が肝要」
はぁ、と青葉は湯呑みを手にしたまま目をぱちくりさせた。
「騒動、といいますと……」
「そうじゃな――直近の騒動は老婆が住人全員を呪ってやると喚いて夜中に怪しげな術を発動させてな。あれは三日前だったかな。そうでなくとも、南町の奉行が秘密裏に罪人を連れて来たり、仇討ちだの喧嘩だの護送中や島抜けの罪人が逃げ込んだりすることもあったか。まぁ日々いろいろじゃな」
「なんともはや……」
青葉が驚いたのは当然のこと、それまで無表情だった浮羽も目を見開いている。
「そのぶん、そなたらがどのような騒動を起こしても、大家どのも住人たちも誰も咎めぬ」
「騒動を起こすつもりは毛頭ござらぬ」
慌てて青葉が言うが、清兵衛がじろりと睨んだ。
「いや。起こる。しかるに貴殿もご息女も、極力、長屋から出ぬように」
はい、と、青葉は頷く。次いで清兵衛が浮羽を見る。浮羽も慌ててこくりと頷き、そっと青葉と顔を見合わせた。
「清兵衛どの、この二人、見たところ三日ほどまともに食しておらぬようでな、ちと、鍋釜を借り受けたい」
どうぞ、と、清兵衛が頷くと、太一郎が外へ向かって「喜一、来てくれ」と叫んだ。
「失礼いたしやす」
と、入って来たのは枯れ木のように細い老人だった。
「あっしは菓子職人ですが少しなら料理もできます」
「喜一、お絹さまより卵と菜っぱ……これは大根かな、と……白魚を預かって来ておるのじゃ。これでなんぞ、こしらえてくれ」
「へぇ、では……ちょっと失礼しやす」
食材を見た老人の目に凄みのような光が宿り、新しい住人二人は顔を見合わせた。まるで人を殺しそうな恐ろしい目である。
なんとも不思議な長屋である。