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第43話 曰く付き清兵衛長屋にて6

 その日の明け方。

 馴染みの『とある気配』を察知した浮羽は瞬時に覚醒した。


─ー暗い、灯りはどうした?


 室内には行灯があるものの火種がないため、まだ灯りがつけられていないことに思い至る。

 夜でも昼と同じように見たり動いたりする訓練を受けてはいるが、灯りと見張りを絶やすことのない里では考えられない不用心さにひやりとする。

 そして、入り口の障子の外が、ほんのり明るい。今宵は満月じゃないのにこんなに明るいなんてどうしたんだろう、と、浮羽は眼を擦る。

 そしてほとんど無意識に枕の下に手を伸ばす。が、そこに愛用のものがないことに気付いて愕然とする。だが、脱いだ着物に包んで部屋の片隅に置いたことを思い出した。やはり、里から遠く離れた江戸に来たとはいえ、肌身離さず持っているべきだったのだ。反省したあと、それを取りに行こうと身じろぎした。

「ならぬ」

 小さな声がした。ほぼ同時に目を覚ましていたのであろう青葉が、浮羽の手を押さえた。

 だってあの気配は、と、浮羽が焦るが、青葉はなぜか落ち着いている。

「心配無用。おそらく、奴らはたちどころに追い払われる」

 青葉が言い終わらぬうちに、長屋のあちこちが目覚める気配がした。

 何やら話し声がし、すぱん、と戸が開いて人が表へ駆け出してくる気配までする。

「何奴じゃ! 拙者、わけあって流派も名も名乗れぬが、剣術と槍術某流免許皆伝にござる。仮の名を優男色之助やさおとこいろのすけと申す。そこにおるのは、腑抜けの御家老が拙者を討つために雇った破落戸ごろつきか」

 と、若い男の大声がした。察するに、すでに刀を抜いている。いくら何でも気が早い。

 そこへ、どすどすと足音がし、慌てたような声が響く。

「優男殿待たれよ、彼奴らは怪しからぬ襲撃者ではあるが、貴殿を狙ったものではないのじゃ」

「なんと! ならば、助太刀致そう」

「加勢は有難く存ずるが、縁もゆかりもない御仁を巻き込むのは些か気がひける。ここは、このわしに免じて御長屋へもどられよ」

 太一郎親分の声だ、と、浮羽は首を傾げる。なぜか武家のような物言いで優男を説得している。と、今度は別の長屋から奇声が響いた。

「きぇぇぇぇ……かえれぇぇぇ……穢れたものども、地獄へかえれぇぇぇ……呪われろ!」

「ばあ様、待たれよ! 彼奴等は生きておる曲者じゃによって、塩を撒いただけでは消えぬ」

「はぁーなせぇ……太一郎……邪魔立てするならこれでもくらえっ! 呪いの塩じゃ!」

「ぶわっ、えらく辛い塩じゃな……ん? 呪いの塩? 清めの塩ではないのか?」

 普通、塩は穢れや呪いを、祓い清めるために使う。

「ふん、呪詛を込めた特別な塩じゃよ。この塩を浴びれば、たちまちその身に呪いと災いが降りかかる」

「そんな馬鹿な……」

「嘘か誠かは、身をもって体験せよ! それっ!」

 思わず浮羽と青葉は顔を見合わせた。曲者に塩で対応しようとした人物は、これまで聞いたことがない。

「太一郎、お前も失せろぉぉぉ」

「ああっ、そうじゃばあ様! どうせ壺の中で塩漬けにするなら呪いの藁人形ではなく、桜の葉とかどうじゃ?」

「む?」

「ほれ、この塩漬けの藁人形、呪いと怨念にまみれて可哀想じゃ。ちと、穢れを祓っては……」

「お黙りっ! これでなくば強力な呪いはかけられぬのじゃ!」

 呪いの藁人形……ぞ、と思わず二人が震える。

 すると今度は幼い子どもが表に駆け出す気配がし「喧嘩だ喧嘩だ! みんな喧嘩だよ!」と喚く。

 いけない、と浮羽が腰を上げたが、それよりはやく大家の清兵衛の「豆蔵戻れ」という焦った声がした。どうやら子供は速やかに長屋に押し戻されたらしい。が、ほぼ同時に他の住民が飛び出してきた。


 この長屋はいったいどうなっているのか。


 普通、何者かの襲撃ともなれば、それぞれの長屋に閉じこもって戸締りを厳重にするのではないか。

 それなのに、ここの人々は口々に名乗りを上げ、己の仇だか敵だかと思われるものを口にする。

「やけに勇ましいな」

 青葉の呟きに浮羽も頷く。

 ついにたまりかね、青葉と浮羽は、ほんの少し長屋の引き戸を開けて外を見た。あっ、と声を上げかけた青葉が慌てて己の口をおさえる。

 男たちは、刀や棒を手にし、女房連中は鍋や包丁、壺などを手にして応戦の構え――つまりはこの長屋の暮らしを守ろうとしているのだ。

「曲者、誰だい、あんたたち!」

「あたしらに用がないってことは、新しい住人さんを襲おうってのかい? そんなの許さないよ」

「江戸についたばかりの人を襲撃するたぁ、無粋だねぇ」

「ああやだやだ、これだから田舎者は……とっとと頭領のところへお帰り」

 長屋の暮らしを守る、その中にはどうやら新参者の青葉と浮羽も含まれていたらしい。

 誰かが、足元に落ちていた石か何かを虚空へ向かって投げた。

 あいた、という声がし、屋根の上から、黒い塊がごろごろと落ちてくる。その男は、地面に落ちたところを走り寄ってきた別の影にあっさり縛り上げられた。

「親分、大家さん、そこそこ腕が立つ刺客はこの男を含めて三人でしょう」

 またもや聞き覚えのない若い声が流れてくる。住人たちの騒がしさの中に、一筋の凛とした闘気がある。その闘気の持ち主の声だろう。

 強そう、と、浮羽は感じる。

「木戸で様子を窺っていた怪しげな二人組はそれがしが倒しました。簡単に逃げられないよう、それぞれの刀の下げ緒で戒めて木戸の脇に転がしてあります。身柄が必要なら、こちらへ連れてきます」

「いや、いらぬ。捨て置け」

 と、これは親分の声だ。

「では……みなさん、ここはそれがしが引き受けた」

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