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第46話 曰く付き清兵衛長屋にて9

 そして大家の清兵衛も、表向きはいつもとかわらないが、内心とても驚いていた。


 ここの大家になる前――さる大名家で殿様のお側近くに仕えていたころから、悪人との付き合いはそれなりにあったし、家臣や城下の悪事もたびたび暴いてきた。だが、悪人に人質として捕まったことは一度としてない。

 この、曰くある住人ばかりの長屋を差配しながら南町に協力して捕り物を手助けするようになってからも、やは悪人に捕えられるこのような間抜けは一度もない。

 年を取ったのか、勘が鈍ったのか――と一人深々と反省している清兵衛は、外にいるであろう住人たちに、助けを求めてみた。

「ちょいと、助けてくれんか……」

 待ってろ大家さん、と、男たちの声がして引き戸をガタガタと派手に揺らす。戸が壊れる、と叫んだのは清兵衛と人殺しの下手人──人を殺めた、と決まったわけではないが──が同時だが、その意味合いはそれぞれ幾分異なろう。

「修繕費用が……」

 と、清兵衛が真顔で言いさすより早く、

「……がたがたうるせぇ!」

 と、下手人が、脇差を抜いて清兵衛の首に突き付けたまま引き戸を勢いよくあけた。

「やいっ! 近寄るな、さもなきゃ大家をぶっ殺して、お前らも殺す!」

「うぎゃああ」

「おたすけっ……」

 蜘蛛の子を散らすように、住人は逃げていく。がらんとした空間を見つめ、清兵衛は肩を落とした。

「……なんとまぁ……」

 ひゅう、と風が吹き抜け、清兵衛は泣きたくなった。店子がここまで薄情だったとは。そのまましばらく待つが、住人が助けに来る気配はない。

「……戻ろうか、兄さん」

「え? あ、ああ」

 刀を鞘におさめ、二人押し黙ったまま室内に戻り、清兵衛はため息をつく。

 互いに黙りこくってみじろぎもせず時だけが過ぎる。部屋に満ちる沈黙が、息苦しい。沈黙に耐えられなくなったのは、下手人が先だった。

「……あの、おれが言うのもあれだけど、もう一度、助けを呼んではどうだ? もしかしたら助けにくるかも……」

「……やってみるか」

 助けてくれーと戸を細く開けて叫んでみるが、音沙汰がない。長屋は、日頃の姦しさが嘘のようにシーンと静まっている。

 あまりの静かさに不思議に思った下手人が、そっと扉を開いて外を覗く。

「おいおい、なんとも薄情な店子だな。番所に駆け込む奴もいなけりゃ、助けようともしねえ。それぞれの家に飛びこんで、家の中からこっちを見てるぜ」

「……仕方あるまい」

 誰もが訳ありだ。

 いかにも怪しげな罪人とは関わり合いになりたくはないし、番所や奉行所には極力近寄りたくない連中だ。

「大家を助けようって気概の奴はいねぇようだな……お、慌てて扉をしめたぜ、ばたばたと」

 なんと、と、清兵衛はがっくりとうなだれた。


 しばらくは、落ち込んだ清兵衛を見守っていた下手人だが、ついにしびれを切らした。

「やい、爺さん」

「……爺さん? ああ、どうしたね?」

「爺さん、おれは殺しはやってねぇ。それを奉行に説明してくれ。そうすりゃここから解放してやらぁ!」

 はぁ、と清兵衛はため息をついた。

「兄さんや、あのねぇ。駄々をこねたって仕方がない。お上の調べが、そうそう間違う……ものか……い……いや、まてよ。月番は南町だったか」

 言いながら清兵衛は不安になった。

 腑抜けで有名な、南町である。先達ても、わざわざ太一郎親分が大きな賭場の仕事を見つけてこっそり斡旋したのに、派手にしくじったと佐々木家の次男英次郎がしこたま嘆いていた。

「よし、兄さん、その血糊はどうしたことだ? 胸元と頬についているが……そもそも、どこへ盗みに入ったのだ」

「盗みに入ったのはおれの元奉公先の大店だ。そしたらよぅ、日本橋の名店、めしぜんの主、吉兵衛きちべえが殺されてたんだよ! 抱き起こしたときにはもう死んでたんだ……背中がめった刺しで……そこらじゅう血の海だった」

 吉兵衛なる男を抱き起した時についた血糊だと、男は主張する。

「確かに、めった刺しをしたにしては血糊がついている範囲がいささかおかしいですね。もっとこう、飛び散ったでしょうから」

 のんびりと会話に入ってきたのは、若い武家だった。どうやらここで眠っていたらしい。

「ぎゃあ、あんた、誰だ」

 下手人は飛び上がった。目を見開いて武家を凝視する。

「本日よりこの長屋に住まいする、佐々木英次郎と申す」

「あ、あ、あんたが……佐々木の英次郎さんか」

 腰を抜かしたように口をぱくぱくさせる男に向かって、それがしをご存知か、と、英次郎は照れたように笑う。

「で、盗んだ金子はいかほどですか」

「一朱銀……三枚ほど。部屋の入口に落ちてたんだよ。だけど南町が、大繁盛している店から盗んだにしては少ない、他にもっと何両もあるだろう、出せって聞かないんだ」

 確かに大店に盗みに入って、主を殺して盗んだのがそれだけというのは考え難い。

「その脇差は?」

「ああ、おれの家に伝わる刀さ。これで吉兵衛さんから金を借りられないかと思ってさ……」

 見せてみろ、と清兵衛が脇差を奪い取る。黒地の鞘からそっと抜いた脇差は、血油もついていなければ刃の欠けた箇所もない。刃紋も美しく、見事な刀だった。

「英次郎さん、どう思います?」

 清兵衛が、くるりと振り返る。と、英次郎がするすると近寄ってきた。

「ああ、とてもめった刺しにした刀とは思えませんね」

「そうですな」

「歪みも欠けもない。人を斬ったにしては綺麗すぎます」

 脇差を見つめながら英次郎が穏やかに笑った。

「金が必要ですか」

「……仕事がない。病気の妻がいる」

「ならば衣笠組へ行ってみてはどうか」

「――縦にも横にも大きい、派手な着物をいつも着ている親分のところか」

「そこへこれを持っていくといい。この刀を差し出して包み隠さず事情を話せば、いくばくか、用立ててくれるゆえ。何なら、それがしが一筆認めよう。大家さん、どうでしょう」

「英次郎さん、名案だ。しばしお待ちを。矢立と紙を用意しますでな」

「貴殿、名は」

「へぇ、あっしは銀次郎長屋の亮吉です」

「相わかった」

 清兵衛に貰った紙を丁寧に広げて、部屋の隅で埃を被っている文机に向かった英次郎がさらさらと筆を走らせる。

 読み直して、綺麗に畳んで下手人へと手渡す。

「これでよし」

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