「――うっ、うぅ……ぐずっ」
小さい頃はいつも泣いていた。
でも、この時の自分が、どうして泣いていたのかは分からなくて。
それはあの人と暮らすようになっても、どうやら変わらなかったらしい。
「あぁ、そこにいた! よかった。心配したのよ」
そんな聞き慣れた、太陽みたいに温かい声がした。しかし、聞き慣れたと言っても、自分には全く憶えがないのだけれど。
自分であって、自分でないその人物は、声の主を見るなり、また声を上げて泣いた。そんな様子に、彼女はやれやれと困ったような。でも、そんな些細なことが幸せなんだとでも言いたげな表情を浮かべている。
まだ泣き止まない自分を、彼女がぎゅっと抱きしめてくれた。陽だまりのようなその温もりが心地よくて、ただ心から安心してしまったから、また泣いてしまうのだった。
そんな、幸せな記憶。
自分の経験にはないはずの、温かな記憶。
でも、それがいつまでも続かないことを、ライアンは知っている。だって、これはもう何度も繰り返し見た光景だから。それこそ、文字通り気が狂ってしまいそうになるほど。
「なんで! なんでライアンが死ななければならないのよ!」
見た目が一切変わらないその人は、すっかり大人になった自分の手を強く握りしめた。金色に輝くその瞳から、あまりにも澄んだ涙を溢し、声を震わせながら叫ぶ。
「――――」
記憶の中の自分は何かを伝えようと口を動かすけれど、声が喉を震わせることはない。必死に動かして何とか彼女に触れた手は、酷く痩せ細った枯れ木のように見えた。
「……ライアン。愛してるわ」
彼女が、涙で目を真っ赤に腫らして何度もライアンの名を呼ぶ。幾度となく聞いたその声を、胸の奥に大切に仕舞うように、ライアンは目を閉じる。
ごめんなさい。迷惑ばかりかけました。心配ばかりかけました。怒られてばかりでした。ごめんなさい。
この記憶はそんな謝罪の気持ちが心の中に積もり続け、やがて意識が暗闇に溶けていく間に終わる。
これ以上の記憶を、ライアンは見たことがない。それが意味する答えを、ライアンはもう知っている。
「――ン」
揺れる記憶の中で、声が聞こえる。もう目を開けることすら叶わない。それでも、彼女は諦めない。彼女は、いつもそうだった。
「――アン」
分かってるよ。でも、無理なんだ。目を開くことなんて、もうできないんだよ。
「ね――イアン」
いや、だから目を開けないんだってば。
……おかしい。こんなに揺らされることがかつてあっただろうか。それに、その声には悲しみと言うよりも、どちらかと言えばもっと別な――
記憶にはないはずの、何度も叩かれた頬の痛みに、少しずつ意識がハッキリとしてくる。ゆっくりと重い瞼を開いていくと、覗き込んでいる顔がぼんやりと見えた。
「……義母さ、ん?」
それが先程まで見ていた記憶の顔と重なって、ライアンの口からはそんな言葉が溢れた。
「はぁ? 誰がキミのお母さんよ。ライアーン? ねぇ、本当に大丈夫?」
「んあ」
そんな返事ともつかない何かを口から吐き出し、ようやくハッキリとし始めた意識が、ライアンを覗き込んでいるその人物の顔を、ようやく認識する。思っていたよりも顔が近かったことと、先程口を付いて出た言葉のせいで、急速に意識が覚醒する。
「うおおっ!?」
驚きのあまり勢いよく起きあがろうとして、ゴツンと鈍い音とともに、ジンジンとした痛みがライアンの頭を襲った。
「…………っぅ」
「痛ったぁ!!」
「ねぇ、すごい音したけど、二人とも大丈夫?」
うずくまる二人を見下ろしながら、窓枠に腰掛けながら外を眺めていたイニが呆れた顔で訊ねる。
「あぁ……俺はなんとか」
「痛い! 凄く痛い! 本当に痛い!!」
目にうっすらと涙を溜めたフィーが、ライアンを睨みながらそう訴える。
「なんて石頭してるのよ! 頭割れるかと思ったじゃない!」
ギャーギャー喚くフィーとは異なり、ライアンは静かにぶつけた部分を手で擦り続ける。前にも似たようなことを言われたことがある気がすると考えてから、それが自分の記憶ではないと冷静に判断する。
「えっ? 嘘でしょライアン怒った? もしかして石頭って言われるの、嫌だった……?」
「……は?」
向かいの席で、額を押さえたまま不安そうな表情を浮かべているフィーの様子に、ようやく自分が黙りこくっていたことにライアンは気がついた。
「あぁ、いやその、別に怒ったりなんかしてねえよ。それに、石頭なんて言われ慣れてるしな。師匠にもよく言われてたし」
なぁと、窓際にちょこんと座って二人の様子を見守っているイニに問いかけると、彼女は退屈そうに肩をすくめて見せた。
「思い出したくないかもだけど、ソフィアにもしょっちゅう言われてたわよ」
「……それは本当に思い出したくねぇな」
ライアンはそう言いながらゆっくりと身体を起こすと、一昨日ムアヘッドから受けた一撃のせいで頭より肩の方が痛んだ。
「悪いなフィー。その、色々と」
「本当だよ全く。それにしても、ライアンの寝覚めっていつもあんな感じなの?」
「んなことねぇよ。それに……あれを見るのも半年ぶりとかか」
「あれって?」
「いや、なんでもないから忘れてくれ。それで? 俺を起こした理由でもあんの?」
くわっと欠伸を浮かべながら訊ねると、途端にフィーの顔が先程のことなどなかったかのように、キラキラと輝き始めた。
「そうそう! あれ見てあれ!」
窓にべたりと顔を付けて外を覗き込む彼女につられるように、ライアンも外へと視線を向ける。
「おー……そろそろ着くな。あっそうだイニィ」
「なーにぃ?」
「今の所何か変わったことは?」
「なーんにもないわ」
「んーそっか。んじゃ駅着いたら教えてくれ」
「えぇ!? また寝るの!?」
驚きに目を丸くさせたフィーに身体を揺らされながら目を閉じた時、ふいに近くからふふっと笑い声が聞こえた気がした。
顔をそちらへ向けると、どこか冷たい印象のある麗人が口元に鉄線を当てながらクスクスと笑っていた。
肩辺りで切り揃えた黒い髪の間から見える、銀色のキツネのピアスが彼女が笑うのに合わせてゆらゆらと揺れている。ただ、彼女の夜の闇を思わせるような黒い瞳は笑っておらず、ライアンたちを品定めしているような不気味な輝きがあった。
ちらりと彼女の正面の席へ視線を向けると、大柄で筋肉質な男が腕を組みながら静かに目を閉じている。だが、首元から覗く巨大な狼のタトゥーが、静かにこちらを監視しているようだった。
「悪いねお姉さん。騒がしくって」
「そんな謝ることやあらへんよ。ただ、無邪気でよろしいなァと思っただけやさかい」
鈴を転がすような澄んだ声。それから、どこか訛りのある口調が、彼女がこの近辺で生まれ育ったのではないことを伺わせる。もしかして旅人だろうかと考えるも、それなら服装があまりにも軽微すぎる気も……と考えたところで、ライアンは無理矢理思考を中断させる。別にそこまで深く考える必要もないだろう。
隣ではどこか不安そうな目をしたフィーがこちらを見ていて、大丈夫だと言うように軽く手を挙げる。
「そう言ってもらえるとありがたいよ。ただ、俺達は次の駅で降りるし、後は静かにしとくからさ」
「アハーッ気にすることはあらへんよ。元気なんはええことなんやから」
言いながら彼女が鉄扇をパチンと閉じた時、車内が暗闇に包まれた。