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第八話

 巫子が神殿の外に出る機会は年に数回しかない。


 新年を祝う式典のとき、巫子在任を祝う祭典のとき、そして市井調査のときだ。


 「自身が守っている民の暮らしを知るべきだ」という意見が高官の口から出たことによって、市井調査は数年前から始まった。


 当時護衛兵だった夏陀としては、巫子を危険に晒す真似に非難を向けていた。彼の言い分はもっともだった。しかし立憐としては、少しでも外界に接触できるのであれば、多少の危険は覚悟の上だった。


 巫子が外をぶらつくのは自殺行為であり、民衆の混乱に繋がる。そのため、巫子は変装をし、神殿の裏からこっそりと外出する。そばに就くのは護衛兵と数人の神官のみ。彼らも平民と変わらない装いをしている。


 民衆に悟られないよう、巫子の周辺は厳重に衛兵によって囲まれている。誰も巫子に近づかないよう、神経を研ぎ澄ましているのだった。こうまでしなければ、巫子は平静に外も出歩けない。神殿の外に数回しか出られないのも当然だ。


 普段の厳かな白い衣装とは正反対である、子ども用の衣服に身を包んだ。真っ白の長い髪は高い位置に結わいて、長い布で頭全体を巻いてごまかした。


「手を繋ぎましょうね」


 楽しそうに手を差しだしてきた右南に、立憐は断り方が分からないので手を繋ぎ返した。護衛兵として最も神経を鋭敏にしなくてはならないのは右南だ。彼が朝からこの様子なため、調子が狂う。


 右南と手を繋ぎ合って外に出る。中庭で感じたときよりも強い日差しに目の前がくらっとした。


「大丈夫ですか?」


 目を瞑って固まる立憐を心配する声に、大丈夫だと返答する。日差しごときで立ちどまっていたら、民衆の様子を垣間見ることなどできない。


 何度か素早く瞬きをして、目を大きく見開く。


 遮蔽物のない青空が広がっている。故郷の空の色とは異なるが、神殿の中にいては決して見られない、自由の象徴の色をしている。


 立憐が神殿に入れられて二十年以上。民の生活は目に見えて明らかな変化はない。


 一度王位が変わったが、そのときも暴動はなかった。世襲はつつがなく行われ、新しい大王は即位した。


 巫子にも民にも、遠い場所で起きた変化に過ぎない。民は自分の生活を守るのに精一杯で、立憐は儀式を欠かさないことが生きるすべてだ。


 大王が外国で戦を起こそうと、兵士が何百人何千人死のうと、民には別の世界のことと思っている。


 立憐もまた、国の結界を維持するだけだ。それ以下でも、それ以上のことも求められてはいない。


 真新しい物が目に入るたびに、右南に説明を求める。見たことのない食べ物の数々、流行している書物、珍しい外国品。大通りに出ると、それらは至るところに散らばっている。知らない物の多さに、やはり二十年以上の時代の流れを感じざるを得なかった。


 興味という気持ちの高ぶりは分からないままだが、珍しいものだと視線はあちこちに移る。


 これらを作りだし、流通させている自国民がすごいと誇らしそうに言うのは、同行している神官たちだ。彼らも日々のほとんどを神殿内で過ごしている。目を輝かしながら、四方の店に関心を移している。


 巫子の同行者としての意識は果たして残っているのか。今すぐにでも屋台に駆けたそうなところを、巫子のそばに居続けている点から、神官としての意地はありそうだ。右南に促されるまま、神官たちが行きたそうにしている屋台の方へ向かった。


「へい、いらっしゃい!」


 煙の中にたたずんで、何本もの肉串を同時に焼いている屋台主が声を響かせる。じゅうぅぅぅと食欲をそそる音を立てて、香ばしい匂いをさせている肉串に、神官たちの目は奪われている。


 普段精進料理ばかりを食べている彼らからすると、この肉串は魅惑的な食べ物に見えているだろう。


「こちらを五本いただきたい」


 右南が代表して注文する。立憐と右南、神官の三人。五本の本数は間違ってはいない。


「右南、まだ夜の儀式が……」


 こっそりと右南に話しかける。


 昼の儀式をこなしてから神殿を出た。夜の儀式までに調査を行う手はずだった。


 右南はにっこりと微笑んで屈んだ。立憐の耳に口もとが近づく。


「儀式に関して、食すものに影響がないらしいじゃないですか。普段は神に仕える神官に合わせて精進料理を食べていると。吏安殿からも、好きなだけ食べて良いと許可は得ています」


「で、でも」


「今日くらい、楽しんでも良いと思いますよ」


 立憐が儀式を言い訳にしていることを、右南は分かっているようだった。


 言いくるめるように再び笑みを濃くさせて、右南は立ちあがると肉串を屋台主から受けとった。


「神官長には内緒ですよ」


 人差し指を立てて、神官たちに賄賂を贈っている。神官たちはお互いに視線を交わせて、ごくりと生唾を呑んだ。


「はい、『立憐様』もどうぞ」


 久しぶりに呼ばれた名前に、胸が震えた。もう自分を名前で呼んでくれる者はいないと思っていたから。


 おずおずと手を伸ばす。脂ぎった木の棒部分を掴む。独特な香草の香りと甘辛いタレの匂い。これはきっと美味しいものだと知識が教えてくれる。


 神官たちが無我夢中に肉串を食べている姿を見やってから、立憐も恐る恐る口をつけた。


 口の中に広がる肉汁と混ざり合う甘辛いタレ。「立憐は案外辛口が好きなんだな」という声が響いた。あれはいつだったか、満砕が辛い餡がつまった饅頭をこっそり持ちこんでくれたときのこと。あのときは自分の好みについて気に留めたこともなかった。気に留める余裕もなかった。


 ――満砕、僕は辛口らしい。


 あのとき、そう言えていたら良かった。


 吏安に注意を受けるときまで、満砕は神殿に色々な珍しいものを持ってきてくれた。当時を思いだしてしまうから、目新しいものを口にしたくはなかった。満砕との思い出が上書きされてしまう気がしたからだ。


 だけど。


 思いだすのは結局、満砕との思い出ばかりで。関連づけてしまうのも、満砕と関係するものばかりで。


 どう転んでも、立憐の中に残るのは満砕だけだと再確認した。


 何だか笑いだしたい。笑ってごまかしたい。笑顔など、もう二十年以上浮かべていないというのに。


 もう一口、肉を食べようと口を開く。



満砕、、!」



 唐突に名前を呼ぶ声が響いた。


 立憐と右南だけが弾けるように顔を上げた。


 屋台のある反対の通り。大柄の男が口もとに手を当てて大声を上げている。


「父さん!」


 立憐の横を軽やかな風が通り抜けていく。


 一瞬のことで、立憐が手を伸ばしかけると、その風はもう通りの向こう側にたどり着いていた。


「満砕、どこへ行ってたんだ⁉」


「ごめんって! 少し道に迷っただけだよ」


「大方、珍しい玩具に目を取られてたんだろ」


「ごめんって言ってんじゃん! すぐに戻って来たんだから別に良いだろ!」


 大柄の男――父親は、少年の頭を豪快にかき回した。少年は父親の手から逃げようとするが、その顔は照れくさそうなだけで嫌がってはいない。


「立憐様」


 右南に呼びかけられるまで、立憐はその親子から目が離せなかった。


「……うん。分かってる」


 何か言いたげな、切ない眼差しが突き刺さる。


 少年の名前が、ただ彼と同じ名前だっただけ。


 たったそれだけのことで、心の中を無暗にかき回された心地がする。


 気持ち悪い。――違う。気に食わない。――違う。気落ちしそう。――違う。


 気が狂いそうだ。


 狂ってしまえたら、どれほど楽なのか。


「巫子様、あちらにも参りましょう!」


 神官の一人に小声で話しかけられる。普段なら気負ってばかりいて、話しかけてくる性格の者ではない。


 調査の目的を理解しているのか否か、神官たちは王都の見物が楽しくて仕方ないらしい。立憐の様子がさきほどから一変したのを、右南しか察していなかった。


 神官たちの能天気さに、今は救われる。立憐は神官の手を取って、彼らが気になった店へと移動する。


 後ろ髪を引かれる気分で反対側の通りを見る。そこに親子の姿はもうなかった。満砕と同じ名前の少年。


 もし彼が、満砕の生まれ変わりだったなら。


 立憐はその可能性を考えて、すぐに思考から消した。


 そのような夢物語にすがるほど、立憐は現実が見えていないわけではなかった。




 満砕は死んだのだ。


 立憐を守って、満砕は死んだのだ。



 まだ彼の死を受けとめられない。


 立憐はきっと、これからの長い人生の中でも受けとめられないに違いない。



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