夕餉を終えたあと、崎十郎は、冷え冷えとした晩秋の風を感じながら、六畳の間の縁先に座していた。
月に一度の句会に出すための発句を、うんうん言いながらひねり出している。
近頃は右膳の誘いで俳諧の席に加わるようになり、思いつきで考えついた
しゅるしゅると衣擦れの音が座敷側から聞こえたかと思うと、襖が、がらりと乱暴に開かれた。
立ち居振る舞いが優雅な園絵にしては珍しいことだった。
「崎十郎殿、残しておいた煉羊羹を知りませぬか」
さも重大な事件が起こったとでもいうように、血相を変えて突っ立っている。
「あれは名高い《鈴木越後》の煉羊羹なのですよ」
まるで咎めるような口ぶりだった。
《鈴木越後》は、元禄の世に創業した《金沢丹後》と並ぶ江戸屈指の名店である。
幕府や大名に御菓子を納める上菓子屋で、値段も高く、ことに煉羊羹は、きめ細かくて絶品と人気があった。
「養母上は、拙者が食したとでもおっしゃるのですか」
つとめて冷静に聞き返した。
「ほかに誰がおると申すのです。わたくしは昨日、確かに、座敷の違い棚の上に置いた文箱にしまったのです」
煉羊羹を文箱にしまっていたところからして面妖だった。
「ははは、たかが羊羹など、どうでもよいではありませぬか」
「あれは、わざわざ日本橋本町まで出向いてあがなった名品なのですよ」
「お言葉を返すようですが、日本橋まで買いに行かされたのは拙者であって
「え、そのようなことは……。確かに店まで出向いて買った覚えがあるのです。はっきり覚えております」
「近頃の養母上は、膝が痛いとおっしゃって遠出をなさらぬではありませぬか。煉羊羹を買うために、わざわざ駕籠を仕立ててお出ましになったとでもおっしゃるのですか」
「そ、そういえば、涼風が立ってこのかた膝の具合が……」
たちまち語気が弱まった。
「ほら、ごらんなさい。羊羹を食されたのは養母上で、食べたことを、うっかりお忘れなのですよ」
崎十郎の指摘に、園絵は急に黙りこくった。
庭の大半を占める畑から冷たい夜風が吹いてきて、園絵は寒そうに肩をすぼめた。
「長生きは、したくないものです」
大きな溜息とともに、ぽつりと漏らした。
「もう障子を閉めましょう」
崎十郎は部屋に戻って、廊下に面した戸障子をきしませながらゆっくりと閉めた。
園絵は近頃、物忘れが多くなった。
勝ち気で利発な女性だっただけに、自分でも戸惑いが大きいのだろう。
「誰しも記憶違いはあります。あまりにむきになって拙者のせいだとおっしゃったもので……。ついつい拙者も言い過ぎました」
崎十郎は慌ててなだめた。
「ならば、煉羊羹を食したことを崎十郎殿が忘れたということではないのか」
「ええっ、どうしてそうなるのですか」
「買うてまいったのは崎十郎殿だと認めましょう。ですが、誰が食べたかは別問題です。歳のせいで惚けたと思うて、このわたくしが食べたことにしてしまう魂胆なのですね。わたくしは誤魔化されませぬ。崎十郎殿は、子供の時分より煉羊羹が大好物だったではありませぬか」
「勝手に決めつけないでいただきたいです。拙者は子供の頃、値の張る煉羊羹はもとより、菓子に類したものを食べさせていただいた記憶などございませぬ。養父上が『男子は菓子など食わぬ』との信念をおもちでしたゆえ」
「おやまあ、そういえばそうでありました。ほほほ、童の頃に食せなかったからこそ、いまになって意地汚く盗人の真似をしたのではありませぬか」
「ぬ、盗人呼ばわりは心外です。ともかく拙者ではありませぬ」
「しらを切るつもりですか。男らしくないですよ」
崎十郎は呆れてものが言えない。
確信がなければ己の考えを主張できない性格の崎十郎は窮地に立たされた。
そもそも義母には頭が上がらない。
「少々、夜風に当たってまいります。町木戸が閉まるまでには戻りますゆえ、養母上は先にお休みください」
袴をはいて羽織を着ると、大小を腰にして夕暮れの町へと逃げ出した。