玄関の扉を開けてロビーに入ったぼく達を迎えてくれたのは、白髪頭の六十歳くらいの男性だった。……これもまた失礼な話だが、その顔を初めて見た時、ぼくの背筋は凍ってしまった。男性の左のこめかみから頬、顎にかけて、凶悪な一本線の大きな傷が走っていた。傷の具合からしておそらく何年も前に負ったものだろうが、その傷のせいで人相が悪くなってしまっており、狂暴なギャングを連想してしまったのだ。
「弓嶋様と小森様ですね。お待ちしておりました。当ペンションのオーナーをしております、
しかし、ぼく達に向けられてた穏やかな人懐っこい笑顔で、そんな印象は吹き飛んだ。見た目で人を判断する自分を恥じた。もしかすると、過去に不慮の事故に遭って、結果こんな傷を負ってしまったのかもしれないのに。
「素敵なペンションですね! こんな所に泊まれるなんて夢みたいです」
辺りを見渡しながら真理花がはしゃぐ。外観だけでなく、内装も木材をふんだんに取り入れた造りとなっていた。暖房がよく効いているからせいもあるだろうが、床、壁、天井と、全体的に暖色が使われており、身だけでなく、心も温かい気持ちになる。
柳沢オーナーの笑顔が更に深くなった。
「ありがとうございます。訪れる方々に温かみを感じて頂けるよう、ここを建てる際、特に考慮したのですよ。お気に召して頂けたご様子で幸いです。それでは、こちらに住所とお名前の記入をお願い致します」
オーナーから宿泊者名簿とボールペンを渡されたぼく達は、今日の日付が書いてあるページを開いた。
「あら」
そのページを見た瞬間、真理花が反応した。
「どうしたの。知っている名前でもあった?」
「ええ、お世話になっている人の名前が……。後で挨拶に行こう」
ページにはすでに二人分の名前が書かれていた。名前の最後に『子』の漢字が使われていることから、どちらも女性であるらしい。
ぼくはその人について考察する。お世話になっている人か……もしその人が真理花と対等な関係の友人同士であるなら、そのような言い方はしないだろう。友情等ではなく、尊敬、敬愛の念を真理花はその人に抱いているらしい。もしかすると、彼女の通う学校の先生辺りなのかもしれない。
自分達の名前と住所を書き、オーナーから部屋の鍵を受け取ると、奥から二人の若い男女が出てきた。男性の方は茶髪で、耳や口に煌めく金銀のピアスをいくつも付けていて、柄の悪そうな印象を受けた反面、女性の方は黒髪のショートボブで、大きな瞳が自信に満ちていて、活発そうな印象を受けた。二人はお揃いの黒と白と灰のギンガムチェックのエプロンを身に着けていたため、このペンションの従業員なのだろう。
「
卯月と名乗った女性が、微笑みながら真理花の鞄に手を掛ける。ぼくは遠慮して言った。
「このくらいは自分達でしますよ」
「仕事だからな。おれ達に任せろ」
今度は男性がぼくの手から鞄を取る。……ここは彼等の好意に甘えることにした。
「お部屋までご案内致します。どうぞこちらへ」
すっかり手ぶらとなったぼくと真理花は、それぞれの荷物を持った男女の従業員に案内されて階段を上がった。そこでぼくは、男性の胸についたネームプレートが眼に入った。『
「お二人は、ご兄妹ですか?」
姓が同じ、年齢もそう離れている様子もなかったので、ぼくは尋ねた。よくそんな質問を宿泊客にされるのか、すぐに卯月さんが笑顔で答える。
「ええ、そうなんですよ。わたしが妹で岳飛が兄です」
「ご兄妹で同じペンションで働いていらっしゃるんですか。仲がよろしいんですね」
「……血の繋がりはないけどな」
ボソリと面白くなさそうに岳飛さんは呟いた。この人は愛想も良くない――もしかすると、タクシーで運転手の原田さんが言っていた、お客さんと揉めた従業員というのはこの人のことなのかもしれない。
客室は全て二階に固まっていて、一から四号室まである部屋の内の三号室に、ぼく達は割り当てられた。部屋の中はシングルベッドが二つ。作り付けのテーブルの上に小型テレビと固定電話、赤い薔薇の造花が入った黄色の花瓶が一つずつ置いてあった。部屋の隅に大きなクローゼット。そしてバスルームへ続く扉。鍵はオートロックではなく、ごく普通のシリンダー錠だった。
「荷物はベッドの上に置いて下さい。後はわたし達の方で良いように致しますので。お二方、ここまで荷物を運んで下さり、ありがとうございました。正直に申しますと、かなり重たくて辛かったんですよね」
「お役に立てたようで幸いです。夕食は七時から始まりますので、それまではゆっくりしていらして下さい。それと、大変申し訳ございませんが、今朝から当ペンションの電話は内線、外線を含め、使用出来なくなっておりますので、何か御用がございましたら直接わたくし共にお申し付け下さい」
「そうだ、Wi-Fiはどうでしょう? パスワードを教えて頂きたいのですが」
ぼくがそう尋ねると、卯月さんの表情が一瞬だけ強張った。それでも、すぐに申し訳なさそうな笑みを浮かべて答える。
「当ペンションは、オーナーの方針によりWi-Fiを設置していないんですよ」
「えっ!?」
ぼくの背筋に寒気が走った。悪趣味な冗談が現実となってしまった。
「外線電話が使えないって……外部と連絡が取れないってことですよね? 孤立するってことですよね? 圏外だからスマホも繋がりませんし……一体どうしてそんなことになってしまったんですか?」
「厄災の仕業さ。マジで自重って奴を知らねえ……」
「またそんなことを言って……!」
岳飛さんが忌々し気に吐き捨てるのを、卯月さんが小声でたしなめる。厄災とは……積雪の影響か何かで電話線が切れてしまったということだろうか?
「……ご不便をお掛けして大変申し訳ございません。食料に関しましては、充分な蓄えがございますのでご安心下さい」
頭を下げる卯月さんを、真理花がすかさずフォローする。
「構いませんよ。わたし達、そういうことは大好きな人種ですから」
「そういうことが……好き?」
「ええ、大好きな小説のシュチュエーションみたいでわくわくします」
「まあ! 素敵ですね」
卯月さんは軽く手を合わせてぼく達を一瞥した。……彼女は真理花の大好きな小説というのを、閉ざされたペンションで男女が仲を深めていく恋愛物とでも思ったのだろうか? だが、真理花がそう言ってくれたことで、多少ぼくの不安は晴れて、どこか安心することが出来たのだった。
「ところで、
「牛尼様は一階の談話室でご友人と談笑をしているかと思われます」
「分かりました。ありがとうございます」
岳飛さんと卯月さんが立ち去った後、ぼくは真理花に尋ねた。
「その牛尼さんって人が、真理花がお世話になっている人?」
「ええ……とてもね」
真理花は右手で左胸をそっと押さえる。
「わたしはこの後、牛尼先生の所へ挨拶に行くけど魁くんはどうするの。夕食の時間までここで待ってる?」
先生……か。先ほどの推理はどうやら正しかったようだ。
「いや、ぼくも談話室に行くよ。きみがお世話になっている人なら、ちゃんと挨拶しておきたい」
「なら先に行ってて。わたし、ちょっと準備してくるから」
「分かった。それじゃあ待ってるよ」
ぼくは着ていた上着を脱いで自分の鞄の上に放ると、一足先に部屋を出て、先ほどの階段を降りて行った。