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【第五章 推理なき解決】1

 眼を覚ますと、ぼくはベッドの上で寝ていた。靄がただよっているように頭がぼんやりとしていたが、すぐに強烈な臭いが鼻腔を突き刺し、一気にその靄を晴らした。


「やっと起きたか、寝坊助めが」


 上半身を起こして野太い声が聞こえてきた方向を見ると、缶ビールを片手に持った猿渡さんが隣のベッドに腰を掛けていた。


「ここはあなたの……四号室ですか」


「そうだ。しかし、死体を見たぐらいで気絶するなんざ、お前も案外気が細いんだな。エリートのくせによ」


『死体』という単語で一気に記憶が蘇る。


「猿渡さん、真理花はどこに」


「俺さっき死体って言ったろ。……お前のガールフレンドは死んだよ」


 生前の様々な光景での真理花の顔がフラッシュバックする。やはり彼女は死んだ。身体の力が抜けていった。


「おいおい、またおねんねするのか。しっかりしろよ。下で他の連中が待っているんだ」


 猿渡さんはビール缶をゴミ箱へ投げ捨て、ベッドから立ち上がると、大きな右手でぼくの左肩を掴んで揺すった。そしてぼくを強引に立たせると、そのまま一階の談話室へ引っ張っていった。


「エリート坊ちゃんを連れてきたぜ」


 談話室に入ると猿渡さんはぼくを離し、自身は空いているソファに身を投げ出すように座った。


「大丈夫? 魁くん」


 牛尼先生は心配そうにぼくに歩み寄りながら尋ねてきたが、ぼくは答えることが出来なかった。


「さて、これで今ペンションで生きている奴等がほぼ全員集まった訳だが……」


 猿渡さんはこの場にいる全員を見渡した。ほぼ、というのは卯月さんがいないからだ。――翌朝知ることになってしまったが、真理花の遺体を発見した卯月さんのショックは酷かったらしく、見かねたオーナーが従業員の居住区にある部屋へ連れて行き、休ませていたらしい。


「また死人が出ちまった。どうやら、犯人は外部の人間ではなく内部の人間だったらしい。これからは一緒に同じ場所にいて、この中にいる犯人を牽制するとしよう」


 牛尼先生の考察を聞いていた。あるいはぼくと真理花が捜査をしていることを知っていた人達からすればそんなことはすでに分かり切っていたが、そうでない人が一人いた。


「猿渡様、一体どういうことでございます。あなたは今朝、中田様を殺害した犯人はもうペンション内にいないとおっしゃったではありませんか」


 柳沢オーナーだ。やや非難するような口調であったため不快感を抱いたのか、猿渡さんはオーナーを睨みつける。


「窓が開いていたのは、そこから逃げたと思わせるための犯人の偽装工作だったらしい。……俺達はまんまと騙されちまったんだよ」


 周囲の人々の様子はといえば、篠原先生は誰とも視線を一切合わせようとはせずただ俯き、牛尼先生は冷たい軽蔑の眼差しを猿渡さんに向けていた。岳飛さんは無表情でただ突っ立っているだけで何を考えているか分からない。そしてぼく自身はというと、失意の中にいた。もう事件の捜査をやる気力など、なくなっていた。真理花がなぜ殺されてしまったのか、一体誰が彼女を殺したのか、一切考えていなかった。考えられなかった。この時のぼくは完全に思考を停止させていた。真理花という、かけがえのないない友人を亡くした喪失感はあまりにも大きかった。


 小説に出てくる名探偵に、ぼくはなれる器ではなかったのだ。


「魁くん、少しいいかしら」


 腰を少し曲げて、ぼくの耳元に囁きかけるかのように牛尼先生が話し掛けてきた。


「たった今、思い出したことがあるの」


 ぼくは改めて先生の顔を見た。そこには穏やかな笑顔が浮かんでいたが、同時に恐怖や困惑といった負の感情も浮かんでいた。これらの感情は中田さんが殺された時にはなかった。やはり先生も教え子である真理花の死にショックを受けているのだろう。


「昨夜の十時ごろ、場がお開きになって、皆がこの談話室から出て行こうとする際に私、偶然耳にしたの。中田さんが卯月さんに、「十一時に紅茶を俺の部屋まで持ってきてほしい」と頼んでいるのを」


「おいあんた」


 牛尼先生の声は小さかったが、彼の耳には届いていたらしい。岳飛さんが話を遮ってきた。


「いい加減にしろよ。この期に及んで、まだこいつに探偵ごっこをやらせるつもりなのか」


 岳飛さんの言葉に猿渡さんが反応する。


「探偵ごっこ? 何だそりゃ」


「こいつと小森は、中田が殺された件を色々と嗅ぎ回っていたんだ。……殺人現場にまで踏み込んでな」


「何だと? ガキが余計なことしやがって。俺言ったよな? 「変な気を起こすな」って。重要な証拠が流れちまったらどうするんだ」


 猿渡さんはソファから勢い良く立ち上ると、そのまま大股でぼくに近づいてきた。本能が危険を察知して身構える。そんな猿渡さんとぼくの間に牛尼先生が割って入った。


「何だよ」


 暴力的な猿渡さんに対し、凛として牛尼先生は言い放った。


「犯人はもうここにはいないと適当な見立てをして早々に酒を片手に部屋へ引き籠り、第二の殺人の発生を許した挙句、それを「犯人にしてやられた」の一言で済ませて謝罪もしないあなたに、その是非はどうであれ、真実を追って懸命に奔走した魁くんを折檻する資格はないわ。違う? 低学歴の元警察官さん」


 鈍く、何かが爆ぜるような乾いた音がした。牛尼先生の身体が床に倒れる。猿渡さんが牛尼先生の顔を殴ったのだ。牛尼先生は床に伏したまま動かない。 


「何してくれてんのよアンタ!」


 篠原先生が猿渡さんに詰め寄り、両手で彼の胸を付き飛ばしてよろめかせる。なぜか殴った張本人である猿渡さんは、言葉も発さず、呆然と静止していた。


「女に手を上げるなんて……もしかして、あの二人はアンタが殺したんじゃないの? そうよ、アンタが殺したのよ!」


「……おい、ちょっと待てよ」


 篠原先生に喚かれてか、それとも犯人扱いされてか、猿渡さんは動揺する素振りを見せた。


 場の空気が変わった。


「猿渡様」


 柳沢オーナーが前へ出る。その顔は険しく、声は冷たかった。この時ばかりは彼の顔の傷が合致した働きをしていた。


「私はもう、あなたという方を信用することは出来ません。どうか本当のことをおっしゃって頂けませんでしょうか?」


「おい、待てって言ってるだろうが。俺は犯人じゃ……」


 猿渡さんはオーナーに歩み寄ろうとするも、瞬時に岳飛さんが飛び出して彼の腰回りに抱きつき、動きを止める。猿渡さんは言葉すら発さず、拘束を抜け出そうと腰を激しくくねらせてもがいた。


 そんな彼等の混沌とした様子を、相も変わらずぼんやりと眺めていたぼくだったが、その中でなぜ、その言葉だけに反応し、口にすることが出来たのか、今でも分からない。一度気を失ったため、それで頭が冴えていたせいなのか。それともあえて言うのであれば、運命の悪魔の悪意が働いたせいだったのか。


 その言葉を口にしたのは岳飛さんだった。彼は暴れる猿渡さんに何度も肘で背中を殴られつつも、その言葉を叫んだ。


「てめえ、オーナーまで殺すのか! 中田と小森を花瓶で殴り殺したようにオーナーまで殺すつもりか!」


「……岳飛さん、どうして殺人に花瓶が使われたことをご存知なのですか? あなたは遺体を気持ち悪がって、現場には入らなかったはずですが」


 岳飛さんの身体の動きが止まった。その隙を逃さず、猿渡さんは岳飛さんのエプロンの結び目を掴み、そのまま反対側に彼を放り投げた。「うわっ」と短く悲鳴を上げた岳飛さんは、そのまま強かに後頭部を壁に打ちつけた。そして、ずるずるとその場に崩れるように座り込むと、がくりと頭を下げて、動かなくなった。


 すぐさまオーナーが岳飛さんに駆け寄る。


「岳飛くん! ……良かった。気を失っているだけみたいです」


「少し待ってろ」


 猿渡さんはそう言い残して談話室から出ていくと、一分と経たずに戻ってきた。


「こいつ、マヌケにもこれを自分の机の上に放り出したままにしてあったぜ。ほら」


 猿渡さんは手に持っていた高級そうな茶色の長財布の中から一枚のカードを取り出すと、ぼく達に見せつけた。それは中田さんの顔写真付きの身分証明書だった。


「おいオーナー。ロープか何か、こいつを拘束出来る物はないか」


 猿渡さんがオーナーに尋ねたが、岳飛さんの介抱をしていたオーナーは大いに困惑した様子だった。


「……本当に岳飛くんが中田様と小森様を殺したとおっしゃるのですか? 信じられません」


 猿渡さんは億劫そうに溜息を吐いた。


「聞いてなかったのかよ。こいつは今、被害者二人が花瓶で殴り殺されていたという、現場に入った奴しか知り得ない情報を口にしたんだ。『秘密の暴露』ってやつだ。これ以上死人を出さない、出させないためにも協力してくれねえかな」


 柳沢オーナーは黙ってぼく、先生達、岳飛さんを見渡すと静かに口を開いた。


「猿渡様、私と一緒に探索なさったあなた様なら、このペンションにワインセラーにしている地下室があるのをご存知ですよね? 警察の方々がこられるまではそこに入れておくのはいかがでしょうか。鍵を外側から掛ければ内側から開けることは出来ませんし、扉も頑丈で破られる心配もございません。ですので、彼を何かで拘束するのはよしては頂けないでしょうか。この通りです」


 オーナーは猿渡さんに向かって深く頭を下げた。


 猿渡さんはしばらく逡巡していた様子だったが、やがて軽く頷いた。


「仕方ねえな、いいだろう。俺がこいつを持っていくから、鍵の準備をしてくれ」


「かしこまりました。ありがとうございます」


 猿渡さんは気を失った岳飛さんを軽々と肩で担ぐと、オーナーと共に彼を地下へ閉じ込めるべく談話室を後にしようとした。その際、彼は思い出したようにぼくの方を振り返り、ぼそりと吐き捨てた。


「……いい気になるなよ」


 二人が談話室を出て行った直後、牛尼先生が呻きながら起き上がった。殴られた左の頬は腫れあがり、同じく左の耳の穴からは一筋の血が流れていた。


「小夜子、大丈夫?」


 篠原先生は牛尼先生に寄ると、床に膝を付いて彼女の背中を労わるようにさすった。ぼくも先生の元に屈み込む。


「すみません先生、ぼくのせいでこんなことに……」


 牛尼先生はぼくと篠原先生に無事であるかを伝えるかのように、片手を軽く挙げてみせた。


「無様な所見せちゃったわね……猿渡は? あいつは今どこにいるの」


「オーナーと一緒に犯人を地下へ閉じ込めに行ったわ。まさか、あいつが犯人だったとはね……」


「犯人?」


「岳飛さんです。彼が中田さんと真理花を殺したんです」


「隅野くんが犯人ですって? どうして」


 驚く牛尼先生に、ぼく達は先ほどの一連の流れを説明した。


「そう……」


 牛尼先生のその呟きには犯人が判明し、事件が解決した安堵や喜びといった感情はなく、どこかしら失意の念が含まれているのを感じた。いくら内部に犯人がいる可能性が高いと分かっていたとはいえ、いざ真実が明かされるとなるとそのショックは大きい。短い間ではあったが、岳飛さんは共に時間を過ごした仲なのだ。


 それに、いくら事件が解決したとはいえど、亡くなった人達は二度と戻ってこないのだ。


「魁くん」


 牛尼先生がぼくの方を向いた。元が美人であったが故に、その腫れた顔が痛々しい。


「ちょうどいいわ。あの男がいない内に二階へ上がってしまいなさい。今晩は私達の部屋に泊めてあげる。夕食もオーナーに持って行かせるから」


 ありがたい気遣いであったが、ぼくはその好意を断った。


「ありがとうございます。でも大丈夫、結構です。ちゃんと自分の部屋で寝ますから。食欲も湧かないので、夕食もいりません」


「自分の部屋って……あんた、死体と一緒に寝るつもり?」


 篠原先生は悲鳴のような声を上げる。この反応は当然だろう。一晩とはいえ、殺人現場で他殺体と一緒に眠るというのは正気の沙汰ではない。現場保存の観点からも不適切なのは明かだろう。それでも、ぼくはとにかく一人になりたかった……いや、真理花と二人きりになりたかった。


「……分かったわ、好きにしなさい」


 悲しんでいるような、哀れんでいるような、呆れているような……牛尼先生は何ともいえぬ眼差しをぼくに向けた。


 ぼくは二人の先生に挨拶して談話室を後にし、自分達の部屋へ戻った。

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