わたしは今、不毛なことをしているのではないかしら。
目の前に座る二人の熱弁を聞きながら、大谷紀乃は、タピオカミルクティーをすすっていた。二人はすっかりヒートアップしている。一番後ろにいた馬が追い上げてきたときの競馬場ぐらいのテンションの高さだ。
「ほんとさあ、有り得ないよね!設楽先輩、イケメンで頭いいのに、彼女あんなんだよ!」
「まじほんとそう。お金払ったのかな」
「へーそうなんだー。やばいねー」
お金払って彼氏になってもらうってなに、レンタル彼氏ってこと?
浮かんだ疑問を口に出したら場が荒れそうと判断し、紀乃は適当に相槌を打った。タピオカをすすることに集中しているふりをすれば、特に咎められなかった。多分、紀乃の少しばかりげんなりした顔にも気づいていないだろう。
熱弁をふるった二人は疲れたらしく、甘いの追加してくる、と少し離れたところにあるキッチンカーを指さした。看板を見るに、フルーツサンドを売っているらしい。紀乃は荷物番ならぬ席番を買って出て、一人残ることにした。
今のところ、出てきた話はほぼ悪口だ。知らない人間の悪口に乗るのは行儀が悪い、と躾けられてきたために、適当に相槌を打つしかなくかえって疲れる。甘いミルクティーの味が、脳に沁みた。
ふう、と一息つく。とりあえずカフェなどではなく、青空の下となる公園を待ち合わせ場所にしたのは正解だったと考える。人通りが多いゆえに、声量を気にしなくてもいい。誰かに聞かれるとまずい話でもない。何より紀乃にとっては、徒歩で行ける距離なのはありがたい。
とりあえず、乙宮姫子は嫌われ者、と紀乃は心の隅に書き留めておく。でも、それくらいしか収穫がない。人選間違えたかなあ、とため息をついた時だ。
「今どきの十五歳は怖いなあ。お金貰うってどういう考えじゃい。お前が耳年増なだけかと思うとったが、存外みんなそんなもんかえ」
隣から声が聞こえてきた。優しい声だが、言葉使いは荒々しい。目線を動かせば、刑部が呆れた顔で頬杖をついていた。というか、最初からずっと紀乃の隣で二人の話を聞いていた。この場で刑部が見えるのは多分紀乃だけだろう。
理由は簡単。刑部は幽霊だから。着物というだけでも目立つのに、白い頭巾に目から下をさらに白い布で隠している。目立つことこの上ないはずなのに、皆素通りしていく。キッチンカーに向かった二人も、刑部のことは何も言及しなかった。
「なんか、聞き捨てならないディスりが聞こえてきたんですけど」
手を口元に当てて小声で応酬する。いくら長い付き合いとはいえ、面と向かって耳年増とは。約半月前に十五歳になったばかりの乙女に対して失礼極まりない。目をむいて抗議をした。
「事実を言うて何が悪い。ほんまの事じゃろ」
「いくら事実でも、言っていいことと悪いことがですね……!」
「残念ながらわしの貧困なぼきゃぶらりーじゃお前のことは耳年増としか言いようがないわい。それより、乙宮の女というのは嫌われるのが世の常みたいじゃなあ」
ちくしょう、この師匠に一生勝てる気がしない。紀乃は撃沈した。刑部の方は涼しい顔で女の嫉妬は怖いの、と嘯いている。無視して黙る作戦をとるも、聞こえとるくせに聞こえんふりするのは性格悪いんじゃないかえ、とつつかれる。八方塞がりである。
「あー……十年前のわたしに忠告したい。白頭巾の幽霊に気をつけろって」
「さだめじゃ、諦めい」
渾身の嫌味すら不発に終わり、紀乃は頭を抱える他なかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
紀乃と刑部の出会いは、十年前に遡る。紀乃の母の三回忌法要のため、近所の寺に親族が集まることになった。普段ならこういう場だと誰かしらが始まるまで遊んでくれるのだが、その暇をこの日は誰も持ち合わせていなかった。
そうなると、探索というやつがやりたくなるのが子どもの習性である。紀乃は外に出て、ぷらぷらとまわりを歩くことにした。寺の庭にはいろんな樹木が植わっていた。ちょうど夏椿が見ごろの季節で、綺麗だなあ、と眺めていた。視線を上げると、その奥に欅があるのが見えた。
その枝に、誰かが立っているのが見えた。好奇心がわき、近づくことにした。その誰かは、着物を着ていた。頭に白い頭巾をして、さらに鼻から下を布で覆っている。そのせいで年齢も、着物で体型が目立たないから、男女の区別も分からない。親族のだれかではないのは確かなのだが。
「誰〜?」
呼びかけられたその人は驚いた声で、お前、わしが見えるんか、と返事をした。男の人の声だった。
何も考えず、見えるよーと返事をして、さらに近づいた。欅の根元まで来た時には、その人はもう枝から降りていた。しゃがみこんで紀乃と目線を合わせると、一人でおるんか、と優しく声をかけてきた。
「うん。お寺にみんなで来たけど、みんな忙しいんだって」
「そうかえ。じゃあ、つまらんじゃろ。わしが相手してやろうか」
「いいの⁉」
今思えばここで逃げる、という選択肢を取るべきだったのではないかと思う。本来、幼女に声掛けする成人男性は警察沙汰ものだ。しかし当時の紀乃は構ってもらえるのが嬉しくて、この人が何者なのかということは一切気にならなかった。着物の向こう側の景色が見えることに気づくまでは。
「えっなんで⁉」
驚愕して叫ぶと、少し呆れたような顔をされた。目と眉しか見えなくとも、わかりやすいくらいに。
「んー、いま気づいたんか……」
さて、おちびは幽霊ゆう言葉はわかるかえ、と聞かれた。うん、と首を縦に振る。そうか、なら話が早いわ、と立ち上がった。
「わしは幽霊じゃ。でも今起きたとこで、なーんもわからん。おちびが構って教えてくれるかい」
「いいよー」
二つ返事で了承し、そのまま遊んだ。何を遊んだかは忘却の果てだが、法事が始まる時間を過ぎても遊んでいたのは覚えている。最終的に木登りのコツを教えてもらうことになった。むろん、例の欅に登った。身体を木になるべく近づけ、一気に登るのではなく少しずつ登ること。ウロと呼ばれる木の穴のようなところをとっかかりにすると、なおよい。そうやって登って、太い枝のところまでたどり着いた。すでに指導役の幽霊は枝に座って待っていた。
「気持ちいいじゃろ」
寺の屋根や塀、その向こうにひまわりのつぼみがずらりと並んでいるのが見える。あと半月もすれば、花が開くだろう。
「ねえねえ、お兄さんの名前教えて」
お兄さんって年でもないんだがなあ、と苦笑されつつ、顔を合わせた時だった。
「紀乃ー! 返事しなさーい!」
祖母の声が聞こえてきた。そしてここで、あ、まずい、と思った。すっかり時間を忘れていた。祖母が呼びに来るということは、とっくに『ほうじ』の時間は過ぎたのだ。さて、降りないと、でもどうやって降りるんだっけ。考えながら足を動かしていたら、見事にバランスを崩して落ちた。悲鳴を上げる間もなく地面が近づき、思わず目を閉じた。
「あー、驚いた。慌てて降りようとするからじゃ」
気づいた時には、地面にいることにはいた。けれども特に痛いところはない。きょろきょろしていると、自分の下敷きになるように、幽霊がいた。正確に言うと、身体が透けているので、紀乃は直接地面に座り込んでいる格好になっている。助けてくれたのだろうか。
「怪我は無いか」
立てるか、と聞かれたものの、いわゆる腰が抜けたという状態になり、まともに立てそうになかった。それなら立てるまで座っとれ、じきに治るじゃろと言いながら、幽霊は身体の位置を変えた。ちょうど、紀乃と向き合って座り込んだ形だ。
「お前、わしの名前を聞いたな。わしの名前は――姓は大谷、名は平馬いう。じゃが、人からは刑部と呼ばれとった。だからお前も刑部と呼べばええ」
「刑部さんも大谷さんなの? わたし、紀乃、大谷紀乃!」
そうして手を差し伸べた。握手を求めたのだ。意味は分かったらしい、刑部の方も優しく紀乃の手を取った。取れてしまった。あれ、と思ったが、すでに時は遅かった。皮手袋越しにほのかなぬくもりを感じたとき、きらりと、二人の間で何かがきらめいた。その光を見て、紀乃は幼いながら、この人と自分は一生離れられない気がする、と思った。先に刑部の方があーあ、と声を上げた。
「残念じゃなあ紀乃。これでお前とわしは一蓮托生よ」
その時の刑部の表情は覚えていない。一応、まだ何とかなるかもしれん、坊さんにお化けに憑かれたって言ってこいと言われ、言われた通りに申告した。しかし残念ながら真面目に取り合ってくれなかった。後ろで話を聞いていた刑部が、「この腐れ坊主が」と住職を罵倒していたが、届いていなかったらしい。おかしなこと言う子だな、という顔をされて終わりだった。
ならば、と大分にある寺で住職を務める曽祖父・隆志にも同じことを言った。こちらは真剣に取り合ったが、「悪さするわけじゃねえならじいじには祓えねえな」と笑って断ってきた。あまりにはっきり言われたので、じゃあしょうがないね、と紀乃は納得してしまった。逆に刑部の方がそれでいいのか、と困惑していたくらいである。
「ひ孫がかわいくないんかこのジジイ」
「そりゃ紀乃に悪霊がついたなら問答無用で祓うが、お前さん見たとこそうなりそうにねえからな。訳アリっぽいが」
「そんなもん分からんじゃろう。憑いてるうちにこの子を蝕むものになるかもしれんじゃろうが」
「悪霊になりそうなやつはなる前から分かる。お前さんはそうじゃない。俺はむしろ、お前さんが紀乃を悪いやつから守ってくれるんじゃねえかと期待してるんだよ」
「坊主の癖に幽霊に期待すなよ……」
「ねえねえひいじいちゃん、いちれんたくしょうって何?」
二人の会話を聞きながら、刑部に言われた言葉の意味を隆志に問い質した。ちょうど刑部が頭を抱えて会話のラリーが途切れたので、そのすきに割り込んだのである。さすがに幼稚園児には一蓮托生、という言葉の意味を理解できなかった。
「ちびに説明するのは難しいなァ。分かりやすくいや、死ぬまで一緒だってことだな」
「それ、プロポーズみたいだね!」
深い意味は特になく、テレビで見た愛の告白みたいだと率直に思った。連想してロマンチックだと思う程度には、当時の紀乃は純真無垢でもあった。
「言われりゃそうだな。やっぱり俺のひ孫よ、呑み込みがいいな」
まあ困ったことがあればいつでも相談してくれりゃあいい、と言って隆志は大分へ帰っていった。どうなっとんじゃこの時代の坊主は、と刑部は終始毒づいていた。しかし諦めたのか、家路につく頃には、刑部は自分で言い出したんじゃもんな、と紀乃に向き合った。
「改めてよろしゅうな、紀乃。お前が困っとるときは、わしが助けたる」
指切り、と差し出された小指に己の小指を絡めた。きらりと二人の間で、また何かが光った。以来十年、刑部は悪霊化することも成仏することもなく、紀乃とともにある。困っている時は助けてやる、という約束もずっと守ってくれている。
一蓮托生の意味は、もう少したってから改めて辞書で調べた。そこには、善悪に関わらず最後までともに行動をすることとあった。最後まで、とはどこまでを指すのかはわからない。けれどもお互い、どんなに短く見積っても、紀乃の寿命が尽きるまで離れることはないと確信を持っていた。
そこから十年後の現在。一蓮托生にもう一つ、期間限定の意味が加わった。仇討ちである。運命か、偶然か。ふたりの仇の名は同じだった。