目を覚ました時、視界に入ったものは見覚えのある天井だった。なんでここに、と記憶を巡らせる。手を動かすと、畳と敷布団に当たった。
嘔吐したことを思い出したところで、さすがに引かれたかなあ、と紀乃は恥ずかしい気持ちになった。たまらず掛け布団を頭にかけるように動かす。ふかふかの布団は天日干しをしたばかりなのか、いわゆるおひさまの香りというやつがした。なじみのある匂いで、先ほどの悪臭から癒された気持ちになる。
とりあえず部屋の光景から、父方の祖父母の家にいることは理解した。けれどもどうやってここまで来たんだっけ。首をひねっていたところ、祖母の梓が部屋に入ってきた。
「ああよかった。熱中症かしらね。まだ暑いものね」
水の入ったペットボトルと、レモンのはちみつ漬けを入れた容器と、クラッカーの小袋が載ったお盆を持って、梓は紀乃の傍らに座った。顔色は悪くないわね、と言いながらペットボトルを差し出した。飲め、ということらしい。実際、口の中が気持ち悪いのでありがたくいただく。上半身だけ起こし、蓋を開けて口をつけた。ちびちびと飲んでいたつもりだったが、口を離したときには半分ほど飲み切っていた。
「お友達がここまで連れてきてくれたわ。何かほかに欲しいものある?」
「とりあえず大丈夫、かな。ありがとう、おばあちゃん」
「当たり前」
梓はそう言って、部屋を出て行った。多分、あの二人が連れてきてくれたのだろう。しかしよくここがわかったな、と思っていた時だった。部屋の入口とは逆方向に顔を動かすと、じいっと紀乃のことを見つめる刑部と目が合った。今は覆い布をはずし、素顔をさらしている。本当に憎たらしいほどの美形だ。マスカラいらずの長くて濃い睫が、綺麗なアーモンドアイを縁取っている。その目は明らかに心配の色を含んでいた。真一文字に結んだ唇は、わずかに震えている。
その顔を見て、どうやってたどり着いたのか、という疑問は氷解した。そうだ、この人がいる。
「……刑部さんって、わたしに乗り移れるんでしたっけ」
「できるよ、紀乃だけじゃなく、やろうと思えば誰にでも。紀乃が目えまわして倒れたから、とりあえず身体動かせるか確かめるために乗り移った。なんとかなったから、あの子らにおばば様んち案内して連れてってもらった」
救急車と迷ったけど、どうせ迎えに来るのおばば様たちじゃ、と思うたら近いんじゃけえ家に行った方が早いと思ってな、と弱々しく笑った。確かにどうせ病院に行ったとして、祖父母に迎えに来てもらうのだ。それならむしろ、公園から徒歩数分の祖父母の家に行く方が手っ取り早い。おばあちゃんち近いからそこに連れてってくれたらいい、と言うだけである。場所の説明さえ、大谷助産院という看板がある、というだけで事足りる。家にたどり着いた後は梓が据え膳上げ膳で面倒を見てくれる。合理的な判断だ。
刑部いわく、二人とも梓からジュース一杯の歓待を受け、きちんと礼を述べて帰っていったという。乙宮の悪口言っとるときは意地悪い顔してたけど、紀乃のこと心配してたから、根はいい子たちじゃ、と評価を改めていた。少し空気が緩んだところで、再び刑部の唇が真一文字になる。
「なあ、なんで倒れた。あれは尋常じゃない」
「ちょっと待ってください。説明する時に思い出して、また吐いたら嫌なのでレモンだけ食べさせて」
真顔の師匠からの問いに、紀乃はいったんストップをかけて輪切りになったレモンを口に放り込んだ。はちみつの甘さとレモンの酸っぱさが混じり合う。口の中を洗い流すかのようにレモンを味わい、皮だけになったものをティッシュに吐き出して捨てた。だいぶすっきりした心持ちである。
「……乙宮姫子が人間に見えなかった上、すっっごく臭かったから」
力を込めて「すごく」を強調した。思い出して吐くほどでは無いが、気分は悪い。シュールストレミングとくさやと生ゴミとドブの臭いをまぜこぜにした、と言っても過言ではない汚臭だった。要はこの世の臭いもの欲張りセットである。本当に漂っていたら町中がパニックになっただろうほどの、強烈な悪臭だった。
「よほど怪物に見えたんじゃな、紀乃の目には」
信じてもらえたことに安堵するが、続いた言葉は思いもよらない言葉だった。刑部は紀乃の手を取って、やめるか、と尋ねてきたのだ。その選択肢は最初から捨てていたのに、一蓮托生と言ってきた刑部に提示された。――けれども、そう言われて仕方ないことを自分はした。敵の姿を見て嘔吐したのだ。おまけに気絶した。当然怯えたと思われただろう。
「いいえ、決めたことだから」
「……やめてもええんじゃ、本当に。あいつらと関わるとろくな事ないもん」
「わたしが言いだしたんですよ。言い出しっぺのくせにやめるって言うの、ずるでしょう」
「ずるな事ない」
そう言った刑部の目が潤んでいて、紀乃は狼狽えてしまった。握ってくる力はやんわりと強くなっている。
「やめてもええ、本心で言うてる。ずるだとわしは思うたりせんよ。紀乃に何かあったら、大じじ様たちに申し訳立たんもの。化け物と闘うのは、とても怖いことじゃ……」
最後の方はうわごとに近かった。口調こそ変わらないが、普段の荒々しさはなりを潜め、弱々しい雰囲気である。本気で紀乃の身を案じて言ってくれている。それはわかる。大じじ様、すなわち曽祖父である隆志について言及するのも、このまま乙宮姫子と対峙して何かあった場合、悪い奴から守ってくれそうという隆志の見立てを破ることになると思っているのだ。
けれども紀乃は、どちらかと言うとこれはわたしがひいじいちゃんに怒られると思うんだよな、と考えていた。今やっていることを知られたら、ガキが生意気に警察ごっこしようとすんじゃねえ、と雷が落ちるだろう。
「……確かに、あれが相手かーとは思ったんです、正直。でも、今は負けてらんないって気持ちの方が強いかな。弱音なんて吐いてられないもの」
己を鼓舞するためでもあったが、負けてたまるかと思ったのは本心だった。負けてたまるか、あんな化け物に。
「でも、無理と思うたら言えよ」
あいつらに関わるとろくなことにならんのは本当だでな、と弱々しく刑部は笑った。その笑みはどこかへ消えてしまいそう、と錯覚するほど儚げに見えて、紀乃はますます闘志を燃やした。
「刑部さんがそんなに弱ってると、わたしまで萎れちゃいます〜」
しおしお、とおどけて言ったらくすりと笑ってくれた。そうじゃな、負けとれんよな、と少しずつ調子が元に戻ってきた。
「紀乃はあの子のために、闘うんじゃもんな」
「はい、きっとしおしおしてたら、怒られちゃう。やる気あるのかって」
「そうじゃな、わしもあいつに怒られるな。元より今更と思われてるだろうに、こんな弱気じゃあなあ」
奪われたものを取り返すことはできない。傷つけられたものを元に戻すことも。それでも、やらなければならないと思う。たとえ道理のないことだったとしても。