それは、夏休みを目前に控えた七月のある日のことである。その日、紀乃は学校を休んだ。理由は、大分の曽祖父と、北海道に住む伯父を巻き込んでの家族会議のためである。
議題は、紀乃の今後について。進路のことではなく、その処遇についてだ。
そもそも紀乃は、母が亡くなって以来、父方の祖父母に養育されてきた。父である泰政が多忙であるため、自然とそう決まった。そのため紀乃にとって、泰政は『時々やってくるおじさん』レベルの存在だ。幼稚園の頃は本気でそう思っていた。さすがに小学生になるころには事情が分かってきたが、それでも大筋の認識は変わらなかった。家族の枠組みに入る人は、祖父母と結婚するまで一緒に暮らしていた伯父、それから刑部。紀乃としては、このまま変わらず行くものと思っていた。
その状況は、紀乃が中学三年生へ進級するタイミングで一変した。正確にいえば、その前の春休みに、泰政が突然一緒に暮らそう、と言い出した。今まで仕事が忙しいからと、年に数回しか顔を見せてこなかったのに。当然、泰政の両親でもある祖父母は訝しんだ。しかし春から比較的暇な部署に移れることになった、今まで父さんたちに任せてきたけど、親子として向き合いたい、ということで半ば強引に本来の住居たる官舎へ引っ越すこととなった。
これまで紀乃は、泰政とまともに話したことはない。冠婚葬祭で顔を合わせても、すぐに呼び出しがかかって退出してしまう。おまけに泰政は無口な性格らしく、人と談笑しているところはついぞ見たことがなかった。それでも一緒に暮らそう、向き合いたい、という発言を聞いて、父なりに自分のことを考えていたのだ、と紀乃は嬉しさとそれまでよくわからない、と思っていたことに申し訳なさを感じていた。
しかし比較的暇な部署に移ったはずの泰政は、ほとんど官舎に帰ってこなかった。結果、紀乃はひとりで官舎で暮らし続けた。正確にいうと、泰政はかえっては来ているようなのだが、一度も顔を合わせていない。帰ってきていることがわかる理由は、生活費名目で、中学三年生の少女に預けるにはあまりに多額の金を、月に一度家の金庫に置きに来るから。なお、紀乃は祖父母にも担任にも事態の報告をしなかった。一人暮らしの練習だ、と思ったら、案外楽しかったのだ。正確にいえば、刑部がいるので違うのだが。三か月その生活をつづけたものの、最終的に佐月による担任への密告により、知られるところとなった。
ちなみに佐月に知られたのは、うっかり自らばらしたからだ。当然佐月は絶句し、気を取り直した後紀乃を詰問した。おじいさんとおばあさんは知っているのか、伯父さんもどうなんだ、とものすごく問い詰められた。そこでぽろっと言ってない、と伝えたらまた絶句された。佐月はそのまま固まった後、わかった、今日は用事あるから、と言って珍しく一緒に帰ろうとは言わなかった。
紀乃は頭をかきながら、そのまま帰路――官舎へと向かった。刑部はここで、あの子に先を越されたか、と苦笑いしていた。その意味が分からないまま帰宅し、部屋着に着替えていたら、突然担任の山内一美がものすごい剣幕で訪れてきた。
そしてここで悟った。さっちゃん、先生にチクったんだ。まあ、そりゃあいうよね。さっちゃん、優等生だもんね。紀乃はモニター越しでもわかるくらい鬼のような顔をした山内を出迎えた。
なお刑部は怒り狂った山内を見て、「このど阿呆、大目玉食らって反省せえ!」と思い切り頬をつねってきた。唯一この状況を知っている刑部は、なんとか外部に知らせようと画策していたらしい。しかし霊体ゆえに手段は限られている。だから、「あの子に先を越された」と言ったのだ。
激怒する山内と刑部の監督の元、ひとまず祖母・梓に報告した。梓は聞いた後絶句したのち、なんで言わないのよと叫んだ。しかしその後、「でもあんたは、六歳で寄席に一人で行って、木戸銭払って身に行っちゃうんだもんね……。仕方ないか……」と謎の納得をし、それで紀乃へのお咎めは終わった。
なおそれを聞いた山内が絶句し、その寄席見物事件の当事者でもある刑部は「おばば様申し訳ない、わしにこの時代の常識がなかったばかりに、あんな真似をさせてしもた」と手を合わせて謝っていた。 当の紀乃としては居心地が悪くて仕方がない。
その後、 いったんお父さんに連絡する、と伝えて電話は切れた。およそ一時間後、明日大坂で家族会議だから、学校は休むと先生に言いなさい、と梓から電話がかかってきた。
これは後から聞いたことだが、梓は泰政にまず電話をし、怒りをぶつけたらしい。そのうえで、家族会議をする、どこにいるのかと詰問したところ、泰政はあっさり、東京は無理だが大阪なら何とか、と返答をしたそうだ。そのうえで、新大阪駅に近いホテルがいいんじゃないか、という提案までしたらしい。スムーズにその場で会議の約束が締結された。しかし梓の怒りは収まらず、北海道に住む伯父と、大分に住む隆志まで呼び寄せる事態となった。
梓が遠距離の二人まで巻き込んだのは、紀乃の祖父・盛房もりふさの不在が確定しているからである。盛房はその前日から、趣味サークルの合宿に行っており、大阪へ行くことが難しかった。そのため、説教役として伯父と隆志を呼びつけた、ということらしい。かなりの大騒動である。
そんなこんなでホテルの前で行われた親子の邂逅は、事実上初めてまともに顔を合わせた、といってもいい機会だった。
泰政は紀乃の方をまともに見ず、梓と伯父の北河勝治きたがわかつはる、大分から来た隆志たちにしか挨拶をしなかった。勝治が「お前の娘だろ、紀乃に挨拶くらいしろ」と咎めたが、軽く会釈しただけであった。それを受けて、高級ホテルのラウンジと聞いて目いっぱいおしゃれしたことを微妙に後悔した。褒められたかったわけではないが、何か触れてくるかと思ったのだ。
普段は明るく豪快な勝治と、きっぷのいいおかみさんキャラの梓がそれを見て荒れ狂った。それを眺めてる紀乃の方が冷静な心持ちだった。何せすぐ隣でもっと怒った顔をしている人がいる。生身なら指の関節がボキボキとなりそうな手の動かし方をして、刑部が泰政を睨みつけているのだった。
「ほんまにお前、あれの娘か?」
「あの、それはどういう意味で……?」
「あれと違って礼儀正しいと褒めとるんじゃ。そうなったのはおじじ様達のおかげじゃろうがな。そういう意味じゃ、ほんまにおじじ様たちの息子かね?」
紀乃はおじじ様たちに似とるけどなあ、と付け足された。確かに紀乃のことを親代わりで育てたのは祖父母と、数年前に結婚するまで祖父母の家に住んでいた勝治である。それは裏を返せば泰政を育てた人たちが紀乃を育てた、ということでもある。刑部の嫌味混じりの疑問は当然と言えた。おまけに紀乃の親族に対して敬称を使う刑部が、紀乃の父に向ってあれ呼ばわりである。
「残念ながら、あいつは紀乃の親父で、盛房たちの息子だし、俺の孫だ」
渋い顔で隆志が近づいてきた。十年前でもなかなかの高齢だったが、百歳近くなった現在でも矍鑠(かくしゃく)としている。
「ひいじいちゃん、急にごめんね?」
「ガキが気にすんな。泰政のバカが悪い。こんな年になって孫の説教するとは思わんかったけどな」
「私もまさかこんな年になって甥の説教に呼び出されるとは思わなかった」
「おう、彰隆。お前も災難だな」
隆志の後ろから長身の老人(と言っても隆志より若いのだが)が現れた。紀乃から見て大伯父にあたる、三笠 彰隆である。隆志一人では心配だと、同行してきたのだ。年齢は七十半ばのはずだが、それを思えば若々しい見た目であった。さすがに髪の毛は総白髪だが、量は豊かで、禿げ上がる心配はしばらくしなくてよさそうである。
彰隆はため息をついて、まずは梓さんと勝治に挨拶に行かないと、と般若面のような二人のもとへ向かった。彰隆が挨拶に行くと、二人の顔は毘沙門天くらいにはなった。
「刑ちゃんもご苦労だなあ」
「大じじ様たちが来るよりは楽よ。身体がないもの」
初めて出会った時こそじじい呼ばわりだったが、今では大じじ様、という呼び方で敬っている。隆志の方は、年若い幽霊を刑ちゃんと呼び、気楽に接している。そりゃ確かに、とガハハと笑った後、隆志は真面目な顔になった。
「しかしそうやって言われちまうと、泰政は本当に盛房に似てねえんだよな。かといって梓ちゃんに似てるわけじゃねえしな」
「でも今、彰隆おじさんとお父さんが並んでるの見たら、ちょっと似てるなーって思ったかも」
不思議なことに、泰政の容貌は、実父の盛房よりも彰隆に似ていた。鋭い目つきと、生真面目な雰囲気が似通った印象を与えているのかもしれない。 親父に似ないで伯父さんに似るのも変な話だがな、と隆志は苦笑いをした。
「立ち話もなんだし、中に入ろう」
勝治の号令で全員ホテルに入った。お通夜というほど静かでは無いが、結婚式というほどにこやかではない。居心地の悪さを感じながら、紀乃はホテルに足を踏み入れた。
本題の前に、説教(糾弾会ともいう)をするため、紀乃とそのお守りとして梓は会場たるラウンジではなく、いったん隣にある喫茶室に入ることになった。
刑部はあちらの会議のぞいてこようか、と言ったが断った。父親が絞られてるところを、師匠に報告されるのはさすがに嫌だな、と思ったのだ。一体何を言われるのか、想像するだけでげんなりする。
梓は喫茶室に入る時はまだ冷静な顔だったが、お冷が運ばれてきたあたりから眉が吊り上がりだした。そして飲み物が運ばれたあたりで、仁王像のような顔つきになった。
「ほんっとうに我が息子ながら信じられない。いくらね、忙しくて会ってないからって、四か月も娘を放置するって何?自分に娘がいること忘れてるんじゃないの?」
「忘れてたら、こんなことにはなってないんじゃないかな……」
ラウンジで食事をする予定なので、飲み物だけを注文した。梓はアイスカフェオレ、紀乃はメロンフロートだ。紀乃はちびちびと飲みながら、祖母の剣幕に慄いていた。梓はそれもそうか、と納得して落ち着いたが、すぐまた眉を釣りあげた。活火山みたい、と心の内で思いながらそれを紀乃は眺めた。
「もう本当にありえない。いっそ紀乃、うちの子になる?十五歳になったら、本人の意思だけでいいみたいだし」
「むしろそれは私が赤ちゃんの時にやってても良かったんじゃかな……?」
「あんたが赤ちゃんの時はまだ梨紗さん生きてたわよ!」
「お前自分の歳勘定せい。わしと会った時が御母堂の三回忌だったんじゃろ」
異口同音という言葉が脳裏に浮かんだ。厳密に言えば違うのだろうが。梓からのいくらなんでも母親の亡くなった年は覚えてなさいよ、という軽い失望と、刑部のなんでわしの方が覚えとるんじゃいと言う呆れというダブルパンチで紀乃は打ちひしがれた。そう真っ向から言われてしまえばしおしおと縮こまるしかない。梓はそういえばもうすぐ十三回忌なのよね、どうしよう、と普段の調子で呟いていた。それを聞いてああ師匠ともう十年の付き合いなのか、と紀乃は考えていた。
母・梨紗については、断片的な話しかこれまで聞いていない。多分父がもう少し身近にいたなら、馴れ初めの詳細など聞けたのだろうが、そうではなかったのであまり聞く機会がなかった。そのうえ、遺影がピンボケで、それ以外の写真が一枚もアルバムに挟まっていないのである。朗らかな祖父母と伯父が嫁いびりのような真似をするとは思いたくないが、母のことは我が家のタブーなのでは、と子供心に思うには十分だった。
けれども梨紗さん、と梓から母の名前が出たので思い切って聞くことにした。本当は、もっと早く済ますべきだったと思うが。
「あのさ、今さらだけど……おばあちゃん、お母さんってどんな人だった?」
そう聞いたら、やはりあんたなんで今まで聞かなかったのよ!こっちは準備してたのよ!と梓に目を剝かれた。ごもっともでうなだれるしかなかった。今更過ぎるじゃろう、何で聞かんね、と刑部からも呆れられた。梓はため息をつき、まあ遺影のこととかあって聞きづらかったとは思うし、わたしたちもちゃんと話さなかったしね、と表情を緩めた。
「そうねえ、よく笑う明るい子だったわ。梨紗さん、早くにお母さん亡くしてるから、わたしのことお母さんができたみたいで嬉しい、って言ってくれてねえ。いい子がお嫁さんに来てくれたわ、って思ってたんだけどねえ」
後半は涙目だった。わたしも娘ができたみたいで嬉しかった、レシピ教えたり、一緒にドレス選んだりするの楽しかったわ、とハンカチで目尻を抑えている。梓自身は息子三人の母だから、娘との交流というのは経験したくてもできないことだ。泣きながらも口元には笑みが浮かんでいたので、梨紗との思い出は梓にとってとて楽しいものだったらしい。早く聞いておけばよかったと後悔した。
「泰政も梨紗さんと結婚してから表情が明るくなったしね。でもきっと、いちばん嬉しかったのは、紀乃が産まれたことだと思う。二人ともすごく笑顔だったのよ」
「そうなんだ……」
じゃあなんで娘を放ったらかしにするんじゃ、と横で刑部が苦い顔をしていた。確かにそれはそうである。
「でも梨紗さんが突然……泰政もそれで仕事人間になったんでしょうけど……。梨紗さんが生きてたら、もう少し家庭を省みたと思うとね、本当にどうしてって思うわ」
そうなると間違いなく刑部とは出会ってないので、人間の巡り合わせ(幽霊含む)というのは、運命という名の歯車の噛み合いなのだと思わされた。刑部の方も「お前の御母堂には会ってみたかったが、そうなるとそもそもお前とわしは出会っとらんものな。難しいのう」と呟いている。全く同じことを考えていたことに驚きつつ、出会い自体が無くなることを惜しいと思っているのが少し嬉しかった。母には悪いが。
すると、紀乃のスマートフォンが着信を知らせた。誰だろう、と思っていると山内からであった。何かあったかな、と思い返すが心当たりがない。ひとまず梓に断りを入れて、応答ボタンをタップした。
「一美先生、何かありましたか?」
「今、お前がどこにいるか知ってるが、あえて言う。石田が屋上から転落した。今病院に運ばれて治療を受けてる。東京駅まで来たら迎えに行く、今すぐ戻れないか」
「えっ何言って、えっえっ」
山内の声は全体的に震えていたが、最後だけは力強かった。今から東京に戻る。何時間かかるだろう。
紀乃は話を聞きながら、新幹線って切符いくらだっけ、わたしいくらお金財布に入れてたっけ、ということを考えていた。顔色が尋常ではなくなってるのか、梓からなに?と聞かれている。けれども説明したくても、状況を呑み込めず言葉が出ない。
「紀乃、息を吸え」
息を吸い込むと、少し落ち着いてきた。背中にかすかなぬくもりを感じた。刑部が背中をさすってくれているのだ。紀乃は、今すぐにでも東京に戻りたいじゃろ、と思考を先読みされた。そう、可能なら今すぐに行きたい。どこでもドアがほしい。駅と言わず佐月が運ばれた病院まで一足で行きたい。でもそれは無理だ。じゃあ何をしなければいけないだろう。
山内は紀乃の返事を待っている。まずここに、わかりました、と返事をした。また乗ったら連絡してくれ、と山内の電話は切れた。ふう、ともう一度息を吸う。かばんを漁って財布を出す。一万円札が三枚中にあった。さらに用心で封筒に入れた五万円がある。十分足りる。
「おばあちゃんごめん、今先生から連絡あって、さ、さっちゃんが……」
そこで詰まった。だって信じたくない。嘘だと言ってほしかった。けれども明らかに山内の声は冗談の声じゃなかった。そもそも山内はそんな笑えない冗談を飛ばすような人間じゃない。
けれども説明している時間さえ惜しく、わたし行かないと、とジュース代分の千円札だけむき身で渡した。後はとにかく一番早く東京まで戻るにはどうしたらよいか、ということしか頭になかった。
背中に待ちなさい、という梓の声が刺さったが、振り返らなかった。ホテルから大阪駅は目の前、迷いようもない。さすがに駅の中でもたついたが、それでも新幹線のマークがある方を目印に走って行けばよいと思いついたらスムーズだった。券売機のボタンをはやる気持ちで操作した。出てきた切符と領収書、お釣りを素早く取り、紀乃は東京行きののぞみに飛び乗った。