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第五十五回 風雨嘉山麓




 報せを聞いた李秀りしゅうが駆けつけ、手紙を読んだ。


こうせん、見て」


 そう言って手紙を投げる。鋼先はそれを読んでうなずき、皆に説明した。


ほくざんで、かくこうひつの両将軍が燕軍えんぐんと戦っている。だが、李将軍りしょうぐんてんゆうせいいてしまい、不調をきたしているそうだ」


「河北じゃと」


 魯乗ろじょうが訊く。鋼先は頷き、


「あのあたりは、燕軍を分断ぶんだんしている重要な戦線せんせんだ。顔杲卿がんこうけいさんのいたじょうざんの東になる。ここからは遠いが、急いで行こう。李将軍も気になるが、戦っている相手もだ」


「相手?」


「燕の将軍、めい史朝義しちょうぎの親子だ。この二人は、あんろくざんが俺たちにしゅうせいさせたがっていた最後の二人だ」


「あの名簿めいぼのですね。私もその名は憶えています」


 フォルトゥナも頷く。収星陣しゅうせいじんは大急ぎでたくを始めたが、途中でらいせんが思い当たって言った。


「しかしあの手紙、なんで李秀宛てだったんだ?」


 皆がぴたりと手を止めたところで、李秀が厳かに言った。


「郭子儀将軍は、あたしに双戟そうげきを教えてくれた師父しふなのよ」




 少林寺しょうりんじを出ると、兵士にしたがって駅亭えきていに行き、ひとりずつ馬があてがわれた。馬車よりもはるかに速いので、収星陣は数日で河北に入る。雨の中、嘉山に張られた野営やえいに到着した収星陣は、早速さっそく郭子儀に面会した。


八公山はっこうざんで李秀に会ったとき、だいたいの話は聞いていた。こうせん、突然で済まない」


 郭子儀は、鋼先に礼をした。鋼先はあわてて返し、


郭将軍かくしょうぐん、手紙は拝見はいけんした。かたに魔星がいた、とのことだが」


 そう言い始めたとき、伝令でんれいが走ってきて郭子儀に近付き、何事かを耳元でささやく。


 郭子儀はすぐに立ち上がり、鋼先に言った。


「話は後だ。敵軍がせまって来る。護衛ごえいを付けるから、君たちも来てくれ」


 そう言って幕舎ばくしゃ足早あしばやに出て行く。たちまち、兵士たちが収星陣を囲むように並んだ。


「これだけいてくれるなら、戦場に出ても大丈夫そうだな」


 雷先が安心して言う。


「まあな」


 鋼先が苦笑した。しかし、李秀は朔月鏡さくげつきょうを抱いて、青ざめた顔をしている。


「……念のため映したら、いたの、師父しふにも。てんゆうせいだった」


「何だって」


 皆が驚く。そのとき、


「動くな、燕軍のかんちょうども!」


 収星陣に対して、一斉に槍が向けられた。




 郭子儀と李光弼は嘉山のふもとに軍を展開てんかいした。燕の軍勢ぐんぜいもすぐ眼前がんぜんに陣をいている。


 鋼先たちは、左右を兵士に固められたまま、燕の将軍の前に突き出された。燕将はにやりと笑う。


「郭将軍、そいつらか」


 郭子儀は静かに頷く。


「そうだ、史思明。安禄山の直下ちょっかちょうほうをしていた連中だ。約束通り引き渡そう」


 そう言って、兵士に合図する。兵士はみちを空け、行けとうながした。


 李秀が大声で叫ぶ。


「師父、どういう事です? 約束って何なの!」


 兵士が、李秀に向けて槍を構えた。郭子儀は、それを手で制して言う。


「安禄山が、逃げ出したお前たちをさがしているらしい。史思明が、もしお前たちを引き渡すなら、この戦線をほうすると言うのだ」


 それを聞いた史思明が、へらへらして頷いた。


「重要な拠点きょてんは他にもあるから、そっちへ移ってやるよ。郭将軍はぐん損害そんがいもなくせんを上げる事になるな。うらやましいぜ」


 しかし郭子儀は、薄笑うすわらいして答える。


「戦果などどうでもいい。――とうと燕、戦っているこの二国は、どちらもへいしている。別なせいりょくが動けば、弱った双方そうほうを叩いて天下を取れるこうではないか」


 史思明がげんな顔をする。


「別な勢力? 郭将軍、あんたまさか」


「お前たち燕が、契丹族きったんぞくを動かしているように、私はウイグル族を動かせる。――唐がくずれれば、西へ逃げるしかない。燕がそれをふかいしたところにウイグル軍が出て来たら、どうなると思う?」


 史思明は、冷や汗をかいてそくべた。


「……燕はもともと戦線せんせんが長い。分散ぶんさんしたところに新しい敵が出てきたら、ひとたまりもないぞ。おい郭将軍、あんた本気かよ」


 それを聞いた郭子儀は、酷薄こくはくに笑う。


「安心しろ。ウイグルは遠いからな、もう何年か先の話だ。


――とにかく今から、我が軍は一度退く。そちらも早早そうそうてっしゅうせよ」


 郭子儀が軍配ぐんばいを振り、兵に戻るよう合図した。


「怖ろしいことを聞いたな。これは伝令させておかないと」


 身震いした史思明は郭子儀を見送り、鋼先たちをじん連行れんこうするよう命じた。


「いやだよ!」


「あっ、李秀!」


 鋼先が止めるのも聞かず、突然、李秀が列から飛び出して、郭子儀の陣に駆け込んだ。


 最後尾にいた郭子儀が、気付いて振り返る。


「李秀、行け。話は聞かぬ」


 しかし李秀は、大粒の涙を流しながら抗議した。


「こんなことをするために、あたしたちを呼んだんですか? それだけじゃなく、この戦乱を利用して蜂起するだなんて! 絶対、魔星の影響です! だから!」


 郭子儀は、無表情で訊ねる。


「だから?」


 李秀は、雨に打たれながら、双戟を抜いた。


「あたしが、師父を収星します。敵わなくても、やるしかない」


「そうか」


 郭子儀が、薄くほほ笑んだ。


「この旅で、腕を上げたとは思うぞ。見てやろう、来い」


 李秀は、正面から突進した。しかし、すぐに郭子儀の右に回り込み、双戟を使わずに蹴りを放った。それも、避けにくい膝周りを狙ったので、郭子儀はもろに食らってしまう。


「ぬうっ」


 重心をぐらつかされ、郭子儀はよろめいた。李秀は戟を振るって相手の手元を狙い、武器を叩き落とそうとする。郭子儀はそれに耐え、長いほこを持ち直して、大きく振り回した。


「やあっ!」


 李秀は、今度は逆に回り込んで、郭子儀の逆膝を蹴った。しかし、郭子儀は間合いを詰めて蹴りを胴で受けると、矛を離して李秀の両手首を取り、双戟を封じた。


「動けまい、李秀」


 しかし、李秀は目を光らせる。


「いいえ!」


 李秀は手首をつかまれたまま、後方に宙返りして郭子儀の顎を蹴り上げた。


「おおっ!」


 収星陣と、郭子儀の兵から、どよめきが上がった。


 郭子儀は吹っ飛ばされて倒れ、うめき声を上げる。


 李秀がさらに迫ろうとしたとき、左右から兵が駆けつけ、李秀に槍を向けた。


「勝手な真似をするな! おとなしく燕軍へ行け! でなければ殺す!」


 郭子儀の副官が、李秀に叫ぶ。


「やってみれば!」


 李秀はそれでも突進したが、兵に囲まれて捕らわれ、鋼先たちの元に戻されてしまった。




 結局、鋼先たちはまるで組まれた檻車かんしゃに閉じ込められ、厳重に連行されることになった。


 最初は脱出も考えたが、折悪おりわるく昨日からの雨でぼくは使いづらい。幻術を用いても、こうはんじんした軍から逃げ切るのは難しい。ぎりぎりまで耐えるよう、鋼先は皆に伝えた。


 檻車の中で、鋼先は李秀に訊く。


「郭将軍は、いつから魔星が憑いていたんだ。八公山で会ったときは?」


 李秀は、自信なさ気に首を振り、


「あのときは、朔月鏡が無かったから。でも、優しかったし、きっと魔星が憑いたのは最近だと思う」


 広大な野心を語り、あっさりと弟子を売り渡した師を見て、李秀はそう感じていた。その震える肩を、フォルトゥナがそっと抱く。


「だったら、心配らないわ。お師匠さまを収星して、元に戻せば済むことよ」


 萍鶴も頷き、


「そうよ。雨が止めば、私がなんとかするわ」


 しかし雨足あまあしは強く、おりの中の収星陣はずぶれになっていた。やがて檻車は動き出し、史思明軍のさいこうを進んだ。




 突然、周りが騒がしくなった。行軍こうぐんも遅くなり、あわただしく伝令が走り回っている。


まれ! この一帯いったいに、無数の落とし穴がある。みだりに動くな!」


 しかし、あちこちでじんの悲鳴が響いていて、穴にはまる者があとたない。そのとき、檻車から後方を見ていた雷先が指をさした。


「唐軍だ! 郭将軍の旗だ。引き返してきたんだ」


「なに?」


 鋼先が目をらすと、確かにかくの旗との旗をかかげた軍勢ぐんぜいが押し寄せて来る。


 唐軍の奇襲きしゅうであった。陣頭じんとうの郭子儀が、矛を突き上げて叫ぶ。


「まず、檻車の者たちを保護するのだ。きゅうたい、前へ! 燕軍を檻車に近付かせるな!」


 郭子儀の陣から、豪雨に逆らう勢いで、無数の矢が打ち込まれてきた。


 燕軍は、それにひるんで近付けない。その射撃の後ろから、郭子儀の本陣が檻車に向かって来た。


 李秀が、涙を流して檻にしがみつく。


「師父! 師父だ! ああ、良かった!」


 郭子儀は、李秀に向かってしっかりとほほ笑み、謝るように頷いた。


 唐軍の勢いにまれ、燕軍は大きく崩れる。


 郭子儀は、檻車に来て李秀を呼んだ。


「さっきは済まなかったな。芝居だと説明する暇がなかったんだ。しかし李秀、いい蹴りだったぞ。相変わらず軽いのが難点だが」


 そう言って、自分の顎を撫でた。蹴りあとは、薄く一筋ひとすじあるのみである。


「あっ。師父、あのとき自分で跳びましたね……」


 李秀は、それも芝居だと分かってむくれた。雷先が、笑って李秀の頭を撫でると、振り払われて脇腹を殴られた。




 郭子儀は、それを見届みとどけると、李光弼をともなって、それぞれ単騎たんき、馬を飛ばした。


「今なら討てる。奴らを逃すな」


「はい、郭将軍。奴の兵がばらばらのうちに!」


 穴に落ちた燕兵えんへいを飛び越え、二人は「史思明」と書かれた軍旗の下へ急ぐ。


 燕軍の先頭にいた史朝義が、きゅうほうした。


「父上、郭子儀と李光弼が迫って来ます。どうしますか」


 史思明は大剣だいけんを取って馬にまたがり、苦笑にがわらいを見せる。


「一騎討ちか、こうなったらむかえ撃つしかねえ。さすが郭子儀、闘いたくなる攻め方をしやがるぜ」


 そう言って、史思明は悪童のように笑った。配下の兵は、もう逃げ去っていて、軍旗を持っていたのは史朝義であった。


「ならば、私もおともします」


 史朝義は旗を置き、馬も武器も無いまま、父の後ろに付いた。


 すぐに、郭子儀が馬をおどらせて、矛を一閃いっせんする。史思明はそれを剣で受け、火花が散った。


「たいした力だな、郭将軍!」


 史思明は、しびれる腕をさすりながら笑った。郭子儀は何も語らず、矛をしごいて威嚇する。


「こっちにもいるぞ!」


 そう叫んだのは史朝義で、左から郭子儀に回り込んだ。しかし、


「お前の相手は俺だ!」


 李光弼が大刀だいとうを叩きつけるようにって入り、二組に分かれての一騎打いっきうちとなった。


 郭子儀の長い矛は、馬上で龍のごとおどり、史思明をおそった。


「くそ、疲れを知らない奴だ。もう保たねえ!」


 史思明もよく耐えたが、ついに剣をはじかれ、かぶとを飛ばされ、落馬した。


 一方、史朝義は李光弼の前に仁王立ちしている。そして叫んだ。


「文字通り、泥臭い闘い方を見せてやる。はあっ!」


 史朝義は、李光弼の馬に組み合った。


 驚いた馬は、史朝義の怪力に抵抗できずに倒れる。


「うおっ」


 落馬した李光弼に、史朝義は素速く殴りかかった。


「ぐうっ。ぐはっ!」


 李光弼は、顔と腹に拳を食らって怯んだ。


「くっ、やられるか!」


 李光弼は、前蹴りで史朝義を飛ばして距離を取ると、大刀を手短てみじかに持って構え、史朝義の打撃をいなす。


「こ、これは……厄介な」


 守りを固められ、史朝義は攻めが通じなくなり、焦った。


「くらえ!」


 李光弼は、その隙を突いて大刀を大降りし、史朝義を大きく打ち飛ばした。


 倒れたおやは、しかししぶとく起き上がった。


「だめだな。おい、もうなりふり構ってられねえぜ」


 史思明はそう言い、二人はくつを脱ぎ捨て、深いぬかるみに入った。そして泳ぐように逃げ始める。


「逃がさんぞ!」


 郭子儀と李光弼は、急いで弓を構え、矢をつがえて放った。


 矢はあやまたず、二人の背中に命中し、ばったりと倒れた。


「よし、捕らえろ」


 郭子儀が、兵に合図をした。しかし、いったん倒れた二人は、すぐに起き上がり、草むらに向かって走り出し、とうとう見えなくなってしまった。


「どういうことでしょう。確かに当たったはず」


 李光弼がそう言い、郭子儀も不思議に思って、見に行った。


 そこには、二人の男が、確かに倒れていた。しかしよく見ると、矢に当たったのは史親子から抜け出た魔星で、トカゲの尻尾のように犠牲ぎせいにされたのである。


 李光弼は追おうとしたが、郭子儀は止めて言った。


「燕軍が立ち直るとまずい。史思明が指揮しきに戻る前に、燕兵を蹴散けちらすぞ」


今一歩いまいっぽのところで! くやしいですが、それが優先ですな」


 李光弼は、歯噛はがみしながら弓をおさめた。


 矢に当たった魔星は、軍装ぐんそうがんじょうなので怪我けがはなかったが、使い捨てられていきどおっている。郭子儀は二人をまねき、野営に連れて行った。




 ◇




 こうして唐軍は燕軍を大いに破り、せんきょくは落ち着いた。


 鋼先たちは郭子儀に呼ばれたが、彼らが行くと、郭李両将軍かくりりょうしょうぐんは膝をついて礼をする。


 さすがに鋼先も慌てて、両手を振った。


「やめてくれ、分かってるよ。燕軍をあざむくための芝居だったんだろう。怒ってはいないよ」


 郭子儀は答えて、


「そう言ってもらえると助かる。では、この両者を頼む」


 と、二人の魔星を連れてきた。史思明のぼうせいと史朝義のあくせいは、辟易へきえきした顔で言う。


「あいつら、俺たちの力を利用してたくせに、おんらずめ。あんな場面で出ろって言われたから、思わず従っちまった」


 その後、二星は鋼先の説得で、収星を受け入れた。


 郭子儀が、このたび一部始終いちぶしじゅうを説明する。


「すべて急なことだった。光弼こうひつに魔星が宿り、調子を崩して来た。その頃、史思明との戦いが激しくなったので、対応を急ぐ必要があり、君たちを呼び寄せた。同時に、君たちが燕軍にもぐり込んでいたことが分かったので、この作戦を立てたのだが、さくを説明する前に史思明が迫ってしまったのだ」


 鋼先が、頷いて訊く。


「史思明に俺たちの引き渡しを持ちかけて、時間をかせいだのか」


「そうだ、済まなかった。だがおかげで、雨で土がやわらかいうちに落とし穴を掘れた。本心では、君たちが本気にしてしまわないかとヒヤヒヤしていたよ」


 そう言って、郭子儀は李光弼と笑った。魯乗が、そっと手を挙げて問う。


「郭将軍、ウイグル族を引き入れて割拠かっきょするというのも、やはり芝居か」


 郭子儀は笑って、


「今後、いくさ長引ながびけば、ウイグルの力を借りることもあるかもしれない。だが、私はあくまで唐のしょうこくを裏切るつもりは無い」


 と答えた。


「でも、師父にも魔星が。いったい、いつからなんです?」


 李秀が不安げに目を向けると、


「あの手紙を書いた後、天雄星が現れて、力を貸してくれると言ってな。私はことわったのだが、強引な奴で、勝手に入ってしまったのだ」


 と郭子儀は苦笑した。


 そのとき、李光弼がよろめいて片膝をつく。


「光弼、大丈夫か。そろそろ限界であろう」


 郭子儀が心配そうな目を向ける。李光弼は笑って見せたが、額には脂汗あぶらあせが浮いていた。


「ええ。やっぱり、私は魔星とあいしょうが悪い。賀鋼先、収星を頼めるか」


「ああ」


 鋼先はすぐについけんを李光弼に刺した。光と共に天勇星が抜け出し、李光弼と郭子儀にうやうやしく礼をする。そして、郭子儀も収星を願ったので、続いて天雄星も抜け出す。


 郭子儀が、ねぎらうように手を掲げた。


「お前たちの力は、史思明との戦いで役には立った。それは礼を言う。だが、この戦はおそらく長引く。いつまでも力を借りてはいられぬ」


「師父、長引くって、どういう意味ですか」


 李秀がことじりとらえる。郭子儀は、李光弼に目で合図をした。李光弼が、代わって答える。


「あれから史思明を捜させたが、結局見つけられなかった。あいつは安禄山に匹敵ひってきする実力を持っている。今は一将軍いちしょうぐんだが、もしも史思明が燕帝国えんていこくちゅうすうに入ったら、倒すのはようでなくなるだろう」


「でも、あいつの魔星はもういないでしょ。それに安禄山も収星したわ。きっともうすぐ、戦乱せんらんも終わるわよ」


 首を振りながら、李秀がぼうかんそくを述べた。郭子儀は、「だといいがな」と力無く笑った。

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