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第六部 秀謬剣難編     第七十一回 李秀、渦中へ進む

 時は流れ、乾元けんげん二年(七五九年)の一月。


 戦乱は、まだ終わっていない。むしろ混戦を極め、被害は拡大していた。


 唐の皇帝だった玄宗げんそう楊貴妃ようきひの死で意気消沈し、燕軍えんぐんに立ち向かおうとする気力も出なかった。


 そこで皇太子の李亨りこうは、玄宗の退位と自分の即位を宣言し、長安の北・霊武れいぶの地に依って陣を構え、燕と戦うことを明らかにしたのである。



 ◇



 李秀りしゅうは峠の頂に立ち、眼下に広がる郭子儀かくしぎの軍営を見下ろす。橙色だいだいいろ胡服こふくに身を包み、腰に双戟そうげきを差した彼女の姿は、少し背も伸び、細く曲線的な体型になっていた。


「うー、遠かった。ようやく着いたぁ」


 彼女は軽やかに峠を下り始めた。道すがら、地元の農夫に出会う。


「お嬢さん、すごい武器だね。そんなもの持って、どこへ行くんだ?」


 李秀は微笑んで答えた。「郭子儀かくしぎ将軍の軍に、参加します」


「へえ、あの郭子儀のところか」老人は驚いた様子で言った。「でも、参加ってまさか、女の子が兵になるわけじゃあるまいね?」


「特別な仕事があるんです」直接的な答えはせず、李秀は明るく笑った。


 老人は懐疑的な表情を浮かべた。「腕に覚えがあるのかい?」


「いえ、全然~」不敵な笑みに変わった李秀は、道端の大きな石に近づくと、双戟を抜いた。舞うような動きで技を繰り出すと、甲高い激突音と共に石の表面に十数箇所の傷が付き、最後の一撃で真っ二つに割れた。


「なんと!」老人は目を丸くした。「いや失礼、恐れ入った。あざやかな腕前だ」


 李秀は双戟を背に戻し、恭しく礼をした。「お元気で」





 歩みを続け、軍営に到着した李秀は、門番に阻まれた。


「ここは郭子儀将軍の陣営。女子供の入る場所ではない」


 李秀はむっとして答えた。「郭将軍からの書面を持ってるわ。通してちょうだいよ」


 このとき、馬に乗った中年の武官が通りかかり、李秀を見て目を細めた。


「お前は……李秀、か?」


何長史かちょうし、お久しぶりです」


 長史の何秋かしゅうは笑顔を見せた。「来ると聞いていたが、本当に来たか! さあ奥へ。郭将軍はちょうど休憩中だ」


 彼の案内で李秀は中央の帷幕いばくへと向かうと、そには郭子儀が床机に座って茶を飲んでいた。


「李秀!」郭子儀の声は深く、温かみがあった。「よく来てくれた。……いろいろ、整理がついたか」


 李秀は、格式のある礼をした。

「はい、ご心配をおかけしました。収星しゅうせいの件は無事に完了しました。

 本日からは、師父の元で働かせてください。まだまだ私も半人前ですが、人々の役に立てるよう尽力致します」


 郭子儀はほほ笑みながら頷き、李秀に礼を返す。そして地図を指さし、状況を説明した。顔付きはすでに将軍としての鋭い眼光に変わっている。


「見ての通り、史思明ししめいは洛陽を占領し、大燕皇帝だいえんこうていを名乗った。今や二つの王朝が並び立つ事態だ」


「うう……いつまでこんなことが……」


 李秀がうなると、郭子儀は続けた。


「史思明はやはり強い。今や周囲の民衆から支持もされている。……だが!」


 郭子儀は力強く言った。


「我らには、唐王朝として積み重ねてきた信頼がある。必ず勝利できよう」


 しかし郭子儀の表情は逆に曇り始めた。李秀は気付いて訊ねる。


「師父、何かご心配事でも?」


 郭子儀は深いため息をついた。


「実は……皇帝陛下の『たとえ投降しても燕の兵は皆殺し』という命令が、この戦乱を長引かせた。せっかく帰順していた史思明を不安にさせ、追い詰めたのだ」


「えっ、バカなの? あの陛下! い、いえ、あの、すみません……」


「遺憾だが私も同意だ。……我々武将は、戦場で決断を下す。だが時に、朝廷の命令が事態を悪化させることもある」


 郭子儀は苦々しい表情を見せた。


「特に今は、李輔国りほこくという宦官かんがんが陛下のお耳にさまざまな情報を入れ、政策に影響を与え始めている」


「宦官が?」


「そうだ。本来、軍事は武将が取り仕切るもの。そして政務は宰相が筆頭で行うもの。しかし最近は、陛下のお近くにいる宦官が政務に携わり、戦場にまで影響している。忌忌しいことだがな」


「どうして宰相よりも宦官が政務を執るのですか?」


「宦官は、本来陛下や皇后の身辺をお世話する要員で、陛下からすれば家族のような親近感があるのだろう。そして逆に宰相は、あくまで仕事の部下。嫌な意見も言ってくる。こんな戦乱なら、毎日厳しいやりとりになる。だから自然と、ご自分に優しい宦官の意見を取りたくなるのだろう。その結果だ」


「……だらしない皇帝ね。あたしの伯父さんに当たるってところが本当に腹立たしいわ……。いえ、何でもありません……あるけど……」


 いらいらした顔の李秀の肩に、郭子儀が手を置いた。


「それはそうと、手紙にも書いたがお前に任せたい任務がある。詳細を聞いてくれるか?」


 李秀の目が、途端に輝いた。「はい、何なりと!」





 その夜、李秀は兵士たちが集まる食事の場に招かれた。彼女が現れると、多くの視線が集まった。


「おうおう、その娘が噂の、郭将軍の弟子か?」大柄な兵士が声をかけた。


 李秀は笑顔で答えた。「李秀です。よろしくお願いします」


「竜虎山から来たんだって? 長旅でたいへんだったろう」若い兵士が興味津々で尋ねた。


「そうです。そこから旅をしていたんですけど、途中で戦乱が起きちゃったので本当にたいへんでした」


「へえ! じゃあ戦の前から旅をしていたのか。それは長くなったな。なあ、魔物の話は本当なのか? 竜虎山の道士たちが、魔物を退治して回っていたとの噂を聞いたが、信じられなくてなぁ」


「本当です。私たちはその魔物にだいぶ悩まされました」


「私たち?」


「ええ」李秀は懐かしそうに微笑んだ。「賀雷先がらいせんという道士と、その弟の賀鋼先がこうせん、それから……」


「待てよ」年配の兵士が言った。「賀鋼先? 竜虎山で命を落とした若者のことか?」


 李秀の笑顔が少し曇った。「はい……その、賀鋼先です」


 食事の場の空気が少し重くなった。百八魔星の件は、戦乱に乗じて世間を騒がせた怪異譚として都市伝説的に広がり、今では鋼先の悲劇的な死についても、風聞で知られている。


「あんたが正に、魔物退治の団員だったのか。すまない、辛い話をしてしまったな……」年配の兵士が謝った。


 李秀は首を振った。「いいえ、大丈夫です」彼女は明るい笑顔を取り戻した。「実は私、彼はまだどこかで生きているような気がしているんです。根拠はないんですけど……なんとなく」


 彼女は、夜空に浮かぶ無数の星を見上げた。


「鋼先……」彼女は心の中で呟いた。「私、やっぱりまだ感じる。あなたは生きているって」


 鋼先の死から二年以上が経っていたが、李秀はそれでも、自分の予感を信じていた。


 急に、若い兵士が声を上げた。「なあ李秀、魔物との戦いはどうだったんだ? 何か聞かせてくれよ!」


 そこで李秀は、遁甲の森での戦いについて語り始めた。兵士たちは目を輝かせて聞き入った。彼女の話し方は迫真に富み、聞き手を魅了する力があった。


 話が終わると、兵士たちから称賛の声が上がった。


「へええ! あんたやっぱり凄いんだな!」


「李秀、明日俺たちに少し技を教えてくれないか?」


「ああ、ぜひ見てみたい!」


 李秀は嬉しそうに頷いた。「喜んで。でも、私もみなさんから学ぶことがたくさんあると思います」


「それより、魔物は今、どうなったんだ? また現れたりしないだろうな」


 兵士のひとりが心配な顔で訊ねた。李秀は、ぎこちない作り笑いになって答える。


「安心してください、あの魔物たちは全て集められて、天界に封印されました! もう絶対に、あたしたちの前に来ることはないから! うん、ほんともう絶対ッ!」


――李秀が竜虎山りゅうこざんを出る際、張天師ちょうてんしから依頼されたことがあった。それは、百八魔星が人界に封じられていることは絶対に秘密にすること、である。そのとき張天師は、李秀にぐっと詰め寄ってこう言ったのだ。


「よいか李秀どの。あなたが唐の太史監令史たいしかんれいしであることは変わりない。だが、世の平和のために、どうか百八魔星の居場所を報告することだけはやめていただきたいのだ。政務として正確な報告が要されることは、貧道ひんどうにもよく解っている。しかし、魔星の封印を解いてしまう者が出ることは何としても防ぎたい。だからどうか、頼む。この通りだ」


 もちろん李秀はそんな気はなかったし、今さら太史監に戻ることなど考えてもいなかった。だが、確かに張天師の言うとおりだと思ったので、この秘密は絶対に守ろうと彼女も思っていた。


 必死にごまかそうとしている彼女を、郭子儀はこっそり木陰から見ていた。そして笑いをこらえながら、小声でつぶやく。


「あいかわらず嘘が下手だな、あいつは」



 ◇



 竜虎山。


 戦乱が続く中、比較的平穏なこの地域には、多くの難民が避難してきていた。


 張天師はたくさんの道観を開放し、また急造で簡易な小屋を無数に建て、居住できる施設として提供している。


 王萍鶴おうへいかくは、どんどん流れ込んでくる人たちの名簿を作成する役目と、それに伴う食糧・金銭の管理記録の役目を負っていた。彼女が最初に鋼先たちに出会ったとき、居酒屋の帳簿付けをしていたが、その経験をわずかながら応用している。



 ある日、三人の目付きの悪い男がやって来た。住んでいた町に戦火が及び、逃げてきたという。


 避難者の登録所で、萍鶴が彼らに名前を訊ねた。


金還きんかんです」


易角えきかくです」


向景こうけいです」


 萍鶴は、彼らが周囲をキョロキョロ見ている様子を見ながら、事務的に聞いた。


「ここでは、皆さんで助け合う形で避難生活を送りことになります。以前のお仕事とか、お得意なことがあったら教えていただけませんか」


 すると三人は互いを見ながらへらへらと笑い、金還が答えた。


「そうだな、まあ荷物運びとか、貴重品の取扱いが専門かな。強いて言えば」


「承知しました。ご協力をお願いすることもありますから、そのときはよろしく」


 萍鶴は、彼らがあのとき居酒屋で暴れた脱獄三囚人であったことに気がついた。どうやら魔星が憑く前から、そういう稼業だったらしい。萍鶴は彼らに部屋の割り当てを伝えて去らせた。そして名簿の職種欄に『盗賊』と書いておいた。



 ◇



 フォルトゥナは、帰国を見送ってまだ竜虎山にいた。


 避難民がどんどん押し寄せるのを見て、何か手助けしたいと思ったのである。毎日いろいろと連絡用件が出るのだが、器用な彼女はよく対応して全体を潤滑にしていた。


「フォルトゥナ、ちょっといいかしら」


 萍鶴に呼ばれて、フォルトゥナは名簿をのぞき込む。


「え……『盗賊』ですか、この三人。大丈夫ですか、竜虎山に入れて」


 萍鶴は軽く首を振る。


「もちろん、自分から申告したのではないわ。でも、見ていて分かったの。この三人は何かを狙って竜虎山に来ている。何もしないのに理由もなく入山を断れないから、行動を見ていてほしいの」


「わかりました!」


 フォルトゥナは元気よく答えると、彼らの部屋に向けて歩き出した。



 ◇



 張天師親子は、次々に来る難民のため、会議をずっとやっている。とにかく報告が多い。


「何の連絡もなく来る人ばかりです。しかも大家族で」


「食材は足りていますが、炊事用の燃料が不足してきました」


「避難民同士の諍いが多発しています。避難所を出身地域別に区切りましょう」


「火事です!」


「州の役人が臨時の税金だと言って取り立てに来ています」


「雨漏りです!」


「賭場を開いている連中がいますが、取り締まりますか?」


「食中毒です!」


 あまりの問題の多さに張天師は叫んだ。


「す、少し休ませてくれえ!」


 ちなみに息子の張応究は、一日早く過労で倒れて寝ていた。



 ◇



 賀雷先は、このときすでに竜虎山にはいなかった。


 九天玄女きゅうてんげんじょとの戦いで鋼先が絶命してしまったときは、落ち着いてその場に居続け、戦いを終えた収星陣を労っていたが、皆の進路が決まって自分の部屋に帰ったとき、大量の涙と叫びがあふれ出してしまった。


「あああああ! 鋼先っ! すまない、すまない! お、俺はお前を、二度も死なせてしまった! 結局、助けてやれなかったあああああ!」


 雷先は、叫んでも叫んでも苦しみに襲われ続けた。とうとうそのまま気を失ってしまい、目が覚めた時には自分の部屋の寝台で寝かされていた。


 隣の部屋に住んでいた道士が、心配して運んでくれていた。ひとしきり泣いて落ち着いた雷先は隣に礼を述べると、服を着替えて顔を洗うと上清宮じょうせいぐうへ行き、鋼先の遺体を受け取ることを申請した。


 賀兄弟の実家は、竜虎山から少し離れた村にある。雷先は馬車を雇うと、弟の棺を乗せて出発した。


 棺を実家に運んだ雷先は、家族とともに簡素な葬儀を行った。そして埋葬するとき棺桶の中をあらためると、遺体はきれいなままだった。


「……たしか昔話で、仙人が死んだときは遺体も腐らず生きているかのような状態を保つとか聞いたな。鋼先は天魁星てんかいせいと半分融合していたから、それと同じようなことになっているというのか?」


 そう言いながら、遺体の衣服を整えようとすると、鋼先の胸元に小さな護符が貼ってある。文字がわずかに光を放っているようにも見えた。


 雷先が護符を手に取ってみると、竜虎山では見たことが無い様式の護符だった。不思議に思ってこまかいところまで見ていると、急に生臭いにおいがしてくる。


「あっ、なんだ? 遺体が……」


 護符を剥がされた鋼先の遺体が急に黄色く変色し、肌の張りもなくなってぶよぶよしている。しかし雷先が護符を元のように置くと、たちまち肌に色艶いろつやが戻ってきた。


「そうか。この護符が、鋼先の遺体を生前のように保持しているのか。でも一体誰が? 張天師様やたて西王母娘娘せいおうぼじょうじょうがやったとしたら、教えてくれているはずだ。それに、遺体をきれいにしておく理由はそもそも何だろう?」


 雷先はそう言いながら、さらに鋼先の衣服の中を見る。すると、護符とは別な紙片が入っている。


「手紙だ……」


 雷先は、読みにくい文字の、断片的な文章の手紙を、何遍もくり返し読んだ。そして次の日、家族に棺桶の保存を頼むと、そのまま旅に出ていった。行き先は誰にも告げず、上清宮にも寄らず、消えるようにいなくなった。



 ◇



 呉文榮ごぶんえいは怪我を癒やしながら一年ほど旅をして、やがて梁山りょうざんに至った。


 そして月光楼げっこうろうのあった場所に行ってみると、壮大な繁華街だった面影もなく、戦乱のためにひどく荒れ果てていた。


呉轟ごごうどのではないですか。お元気でしたか」


 急に声をかけられて振り向くと、鉄車輪てつしゃりん季広きこうがいた。


「おう、季広。久しいな。今はどうしてる?」


 季広も鉄車輪の初期からいたので、呉文榮と面識があった。季広は嬉しそうに笑う。


「どうぞ、寄って行ってください。朱総輪しゅそうりんもお喜びになるでしょう」


「朱? 朱差偉しゅさいのことか?」


 呉文榮は季広に引っ張られて、焼け残りを修繕していない楼に入った。


 部屋に通された途端、


「あっ、ご、呉轟! なぜここに?」


 と朱差偉に叫ばれた。喜んでいるようには見えない。朱差偉は、振り向いた姿勢のまま、季広を怒鳴りつけた。


「お前には言っていなかったが、私の首をこんなにひん曲げたのはこの男だ。何で連れて来た? 早く追い出せ!」


 呉文榮は、大体を察した。唐流嶬とうりゅうぎの亡き後、けっきょく朱差偉が総輪そうりんを引き継ぎ、鉄車輪は活動を続けていたのだ。戦乱が起きて世も混乱し、さぞ仕事が増えたことだろう。


「朱差偉、これ以上鉄車輪を続けるのはやめろ。あれは魔星の力を使ったからこそ機能した組織だ。経験だけで真似できるものではない」


 呉文榮はそう忠告したが、朱差偉は横を向いた姿勢のまま、唾棄だきする表情になって言った。


「ふん、生憎あいにくだな。今は大忙しで、調査と暗殺の依頼が次々に来ている。荘北森そうほくしん牛維ぎゅういの高利貸しも順調だし、私の鉄車輪は魔星など無くても優秀だ」


「人殺しを生業なりわいにするなら、いつか自分が殺されるかもしれないという覚悟も持っているんだろうな?」


「偉そうなことを言うな! 強い者が生き残る時代になった、それだけだ!」


「そうだな。よく分かっているじゃないか。安心した」


 呉文榮がそう言うと、朱差偉は満足そうに笑う。呉文榮は続けて言った。


「では今死ね」


 呉文榮は素早く拳を繰り出して、その場にいた四人を次々に殴り飛ばした。手加減はしなかった。


「く、くそ。閻謬えんびゅうさえここにいれば……!」


 悔しそうに呻く朱差偉に、呉文榮はにじり寄る。だが、不意に横合いから蹴り飛ばされ、呉文榮の巨体は床に倒れ込んだ。


「ま、まさか。お前が、なぜ………」


 呉文榮は困惑した表情でそう言うと、目眩めまいを起こして気を失った。


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