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第七十三回 暗腿の閻謬

 蜂が飛んでいた。


 黄色一面に咲いている菜の花に、無数の蜂が群がっている。


 細身の若い女性が現れた。


 彼女はその群れに割って入ると、蹴りを放って蜂を叩き落とした。


 邪魔をされた蜂たちが、彼女を敵と定めて顔面へと迫る。


 しかし、彼女は伏せて顔を低くしたかと思うと、両脚を高速に回転させ、次々に蜂を落とす。


 危機を感じたのか、残りの蜂は一斉に逃げだし、飛び去った。





 大技を終えた彼女は、花畑に倒れ込み、荒い呼吸をした。


 汗を拭う。しかし、両腕は肩の高さよりも上に上がらない。


 過去に骨折した鎖骨が変形し、関節域かんせついきが回復しなかった。


 かつては両手に短い刺叉さすまたを持ち、蜂のごとく刺すのを得意としていた。


 それができなくなったので、今は蹴りを磨いている。そうまでして、己を鍛える必要があった。普段は沈んだ表情をしている彼女だが、今の足技に満足して、少し微笑んでいた。





 彼女――閻謬えんびゅうは、暗殺の依頼を果たすため、梁山りょうざんを発って旅をしている途中であった。



 ◇



 改めていうが、今は西暦七五九年、中国ちゅうごくとうの時代。


 平和だったその国は、今は戦乱の真っ只中となり、人々は逃げ惑いながら暮らしている。


 そんな中で、とう軍を率いる中心となった将軍・郭子儀かくしぎはよく戦い、なんとか戦況を回復させてきた。


 また、燕国えんこくの内部でも内紛が起き、支配者が交代する状態が相次いだ。


 とうえんのどちらも、相手を葬ってやろうと勢い見せているが、実際にはどちらも大きく国力を疲弊させている。





 えんの皇帝を名乗った史思明ししめいは、この状況を打破しようと思い立ち、郭子儀かくしぎを暗殺しようと刺客を差し向けた。それが鉄車輪てつしゃりんであり、その中でも実質的な暗殺者としてただひとり機能していた閻謬えんびゅうである。



 ◇



 閻謬えんびゅうは若いが手練の暗殺者である。難しい任務も多く達成してきた。


 彼女は旅を続け、郭子儀かくしぎが駐屯する軍営に忍び込んだ。


 そして郭子儀かくしぎの従者をしている者を探し当てると、その男の衣装を盗み出し、それを着込んで郭子儀かくしぎの部屋へ迫った。


「あれ、孟殿内もうでんないさん、郭子儀かくしぎ師父の警護はあたしと交代したでしょ? ……いや、違うわね。もうさんの服だけど、あんた誰?」


 閻謬えんびゅうは稚拙な変装だった、と自嘲の笑いをする。


「どうして気づいた?」閻謬えんびゅうは問いながらも、すでに衣の下に忍ばせていた短剣の柄に指をかけていた。


 李秀りしゅうは軽やかに部屋に入り、扉を静かに閉めた。ろうそくの炎が揺れ、壁に二人の影が大きく伸びる。


「匂い」李秀りしゅうは指先を立てて言った。「あなたから菜の花の匂いがする。でも孟殿内もうでんないさんは脂ぎったおじさんの匂いがするわ。それに」彼女は視線を閻謬えんびゅうの腰に落とした。「その腰の動きは従者のものじゃない」


 言葉が終わるか終わらないかのうちに、閻謬えんびゅう孟殿内もうでんないの衣装を引き裂くように脱ぎ捨てた。黒い装束が現れ、顔に巻いた布の間から鋭い眼光が放たれる。


「ならば小細工はここまでだ」


 閻謬えんびゅうの足が床を蹴った。彼女の体は驚くべき速さで壁を伝い、一瞬で天井近くまで跳躍した。そこから李秀りしゅうめがけて黒い影として降下する。


 李秀りしゅう双戟そうげきを抜く間もなく、反射的に両腕を交差させて顔を守った。そして軽く体を傾け、閻謬えんびゅうの攻撃を空振りにさせた。床に着地した閻謬えんびゅうの足が李秀りしゅうの真後ろに位置した瞬間、李秀りしゅうは振り向きざまに踵を繰り出した。


 閻謬えんびゅうは驚くべき敏捷性でしゃがみ込み、その蹴りをやり過ごすと同時に自らの足を李秀りしゅうの立脚に絡めた。足首を固定された李秀りしゅうは均衡を崩す。


「かかったな」


 閻謬えんびゅうは地面に両手をつき、もう片方の足で李秀りしゅうの腹部に強烈な蹴りを放った。靴底から伝わる衝撃が李秀りしゅうの内臓を震わせる。


「くッ!」


 李秀りしゅうは吹き飛ばされ、壁に激突して息を詰まらせた。部屋の中の小さな装飾品が床に落ち、砕ける音が響く。だが彼女はすぐに体勢を立て直し、今度は慌てず双戟そうげきを構えた。蠟燭に照らされた二本の刃が青白く輝いている。


「なかなかやるじゃない」李秀りしゅうの声は落ち着いていたが、腹部に走る痛みを隠せない。「でも、かく師父を狙うなんて許さないわ」


 閻謬えんびゅうは黒布の下で笑みを浮かべたのか、目元が僅かに動いた。「私がやると決めたことは、必ずやり遂げる」


 次の瞬間、李秀りしゅうが突進する。双戟そうげきが空気を切り裂き、幾筋もの風切り音が狭い部屋に響き渡った。閻謬えんびゅうは身をよじって次々と攻撃をかわすが、その腕前に感嘆するほどの余裕はない。鋭い刃が閻謬えんびゅうの左肩をかすめ、黒装束が裂け、血の筋が浮かんだ。


「ッ!」


 閻謬えんびゅうは素早く後方へ跳び、距離をとった。彼女は腰から短剣を抜き、刃先を李秀りしゅうに向ける。


「私も本気でいくぞ」


 部屋の中央で二人は対峙した。緊張が空気を満たす。窓から吹き込む風が蠟燭の火を揺らして細くした。一瞬の闇――そして再び光が戻った時、二人はすでに激しく交錯していた。


 剣とげきがぶつかり合い、火花が散る。閻謬えんびゅうの剣さばきは無駄がなく正確で、相手の隙を見逃さない蛇のようだった。一方の李秀りしゅうげきを回転させながら攻撃と防御を同時に行い、まるで踊るように戦う。


 閻謬えんびゅうが剣で李秀りしゅうの首筋を狙った瞬間、李秀りしゅうは髪が切れるほどの薄さで避けると同時に、片方のげき閻謬えんびゅうの剣を弾いた。そして彼女は素早く回転し、もう一方のげき閻謬えんびゅうの脇腹を横薙ぎにする。


 閻謬えんびゅうはとっさに剣を手放し、李秀りしゅうの手首をつかんで攻撃を止めた。


「その技は見切った」


 隙を見た閻謬えんびゅうは、瞬時に李秀りしゅうの足元に自らの足を滑り込ませ、鋭い足払いを放った。李秀りしゅうの足がさらわれ、均衡を崩す。そこに閻謬えんびゅうの膝が李秀りしゅうの腹に炸裂した。


「がはっ!」


 李秀りしゅうは同じ箇所を二度も打たれ、激痛で顔をゆがめる。しかし彼女は落ちかけた体勢を懸命に維持し、閻謬えんびゅうの腕をつかんで振り解いた。


 二人の間に再び距離ができた。閻謬えんびゅうは剣を失ったが、それを気にする様子はない。彼女は腰を低く構え、足技で勝負に出る体勢を整えた。


「蹴りだけで勝負するつもり?」李秀りしゅうが息を整えながら言う。


 閻謬えんびゅうは無言のまま、狭い部屋の中を素早く動き始めた。その動きは残像を生み、まるで複数の閻謬えんびゅう李秀りしゅうを取り囲んでいるかのようだ。


 李秀りしゅうは冷静に中央に立ち、全方位に神経を張り巡らせる。突然、彼女の後方から閻謬えんびゅうの蹴りが襲いかかった。李秀りしゅうは一瞬早く察知し、げきの柄を横に構えて蹴りを受け止める。鈍い音が響き、閻謬えんびゅうの足とげきがぶつかった。


 閻謬えんびゅうは一撃を交わすとすぐに身を引き、別の角度から再び迫る。今度は低い姿勢からの足払い。李秀りしゅうは飛び上がって避けたが、閻謬えんびゅうの動きはそこで止まらない。彼女はそのまま体を回転させ、立ち上がりざまに李秀りしゅうの胸に向けて鋭い肘打ちを放った。


 李秀りしゅうは交差させた双戟そうげきでその打撃を防ぐが、衝撃で数歩後退させられる。閻謬えんびゅうは攻撃の手を緩めない。彼女は李秀りしゅうに接近し、右足、左足と交互に低い蹴りを繰り出す。


 李秀りしゅうげきを回して防御を固めるが、閻謬えんびゅうの蹴りは予測不能な角度から繰り出され、徐々に李秀りしゅうの守りを崩していく。ついに一撃が李秀りしゅうの脛を捉え、鋭い痛みが走る。


「うっ!」


 その隙に閻謬えんびゅう李秀りしゅうの懐に飛び込み、上体を倒して両足で李秀りしゅうの腰を挟み込んだ。そのまま体重と反動を利用して李秀りしゅうを床に叩きつける。閻謬えんびゅうの技は見るからに訓練された動きで、流れるように連続している。


 李秀りしゅうは背中から激しく床に打ち付けられ、呼吸が止まりそうになる。だが彼女も負けじと、打ちつけられる瞬間に体を反らせ、その勢いを利用して後方に跳ね返った。げきを構え直し、閻謬えんびゅうとの距離を取る。


 李秀りしゅうの呼吸は乱れ、額から汗が流れ落ちる。閻謬えんびゅうの足技は予想以上に強力で、しかも通常の武芸とは異なる動きに対応するのが難しい。


魔星ませいがいないのに……武器もないのに……」李秀りしゅうは呟いた。「さすが鉄車輪てつしゃりんね」


 閻謬えんびゅうは黒布越しに笑みを浮かべた。「あの頃だったら瞬殺だぞ」


 彼女は再び李秀りしゅうに迫る。今度の動きはさらに素早く、部屋の中を暗い影となって移動する。李秀りしゅうが左を警戒した瞬間、閻謬えんびゅうは右から現れ、膝蹴りを李秀りしゅうの脇腹に叩き込んだ。


 李秀りしゅうが体をひるがえすと、閻謬えんびゅうはすでに別の場所に移動し、今度は背後から蹴りを放つ。李秀りしゅう双戟そうげきを後ろに振るって防ごうとしたが、閻謬えんびゅうの蹴りはげきの軌道の隙間を縫うように李秀りしゅうの背中を捉えた。


 李秀りしゅうの視界が揺れる。彼女は転ばないよう必死に踏みとどまるが、閻謬えんびゅうの攻撃はまだ続く。今度は低い姿勢から這うように接近し、突然立ち上がりざまに李秀りしゅうの顎を蹴り上げようとする。


 李秀りしゅうはかろうじてその蹴りを首を後ろに反らして避けたが、閻謬えんびゅうの動きは止まらず、彼女は空中で体を回転させ、かかとを李秀りしゅうの肩に叩き込んだ。


「くっ!」


 李秀りしゅうの肩に痛みが走る。閻謬えんびゅうはその勢いをそのままに着地し、すぐさま李秀りしゅうの足元を払った。李秀りしゅうは体勢を崩しながらも一方のげきを床について支え、もう一方のげき閻謬えんびゅうを牽制する。


 閻謬えんびゅうは一瞬後退したが、それはより大きな助走をつけるためだった。彼女は壁を蹴り、天井近くまで跳躍する。そこから李秀りしゅうめがけて強烈なかかと落としを放った。


 李秀りしゅうは咄嗟に双戟そうげきを交差させて頭上に構え、その蹴りを受け止めようとしたが、閻謬えんびゅうの蹴りの威力は想像を超えていた。李秀りしゅうの膝が曲がり、彼女は床にひざまずくような形となる。


 閻謬えんびゅうはその体勢のまま、李秀りしゅうの肩に片足を乗せ、もう一方の足で顔面を蹴ろうとする。李秀りしゅうは顔を伏せてその攻撃をかわすと同時に、閻謬えんびゅうの立脚を払おうとげきを振るった。


 閻謬えんびゅう李秀りしゅうげきを見越していたのか、軽々と飛び上がり、李秀りしゅうの攻撃をかわす。しかし李秀りしゅうもそれを予測していたようで、もう一方のげきを構えて待ち受けていた。閻謬えんびゅうは空中で姿勢を変え、その攻撃も避けるが、着地の瞬間にわずかに体勢を崩した。


 そこを見逃さず、李秀りしゅう閻謬えんびゅうの懐に踏み込み、肩で閻謬えんびゅうの胸を押し倒した。二人は床に転がり、互いの首や関節を取りにいく。閻謬えんびゅうの方が巧みで、瞬く間に李秀りしゅうの腕を極めようとする。


 閻謬えんびゅうが関節を極める寸前、李秀りしゅうは渾身の力で体を持ち上げ、閻謬えんびゅうを跳ね飛ばした。二人は再び立ち上がり、互いに距離を取る。息は荒く、汗が顔を伝う。李秀りしゅう双戟そうげきを構え直し、閻謬えんびゅうは再び低い姿勢で足技の体勢に入った。


 そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。


李秀りしゅう、こんな夜中に練習か?」郭子儀かくしぎの声だ。


 閻謬えんびゅうの目が僅かに細まる。目標が接近してきたのだ。彼女は一瞬考えるような素振りを見せたが、すぐに決断を下した。


 閻謬えんびゅうは窓に向かって駆け出した。李秀りしゅうはすかさず双戟そうげきのひとつを投げ、窓枠に突き刺した。閻謬えんびゅうは一瞬足を止め、別の逃げ道を探す。


 その隙に李秀りしゅう閻謬えんびゅうに飛びかかり、二人は再び激しくもみ合った。閻謬えんびゅうの指が李秀りしゅうの喉に伸びる。蛇のように素早い動きだった。李秀りしゅうは頭を後ろに引き、閻謬えんびゅうの手首をつかむと同時に体を回し、その勢いを利用して投げ技を仕掛けた。


 閻謬えんびゅうは床に叩きつけられた。大きな音が室内に響き、床板が軋む。しかし彼女はすぐに起き上がろうとする。その動きは依然として鋭く、疲労の色は見えない。李秀りしゅうは残りのげき閻謬えんびゅうの首元に突きつけた。


 二人は互いの目を見つめあう。閻謬えんびゅうの瞳には敗北の色はなく、むしろ次の機会を窺う鋭さがあった。


 扉が開き、郭子儀かくしぎが入ってきた。彼の視線は素早く部屋の状況を把握する。壁には穴が開き、床は破壊され、家具は倒れ、壁の飾りは散乱している。


「何があった?」


 李秀りしゅう閻謬えんびゅうから目を離さず答えた。「刺客です。師父を狙っていました」


 郭子儀かくしぎは静かに閻謬えんびゅうに近づいた。「なかなかの使い手のようだな。李秀りしゅうがこれほど息を切らせるとは」彼が閻謬えんびゅうを見下ろして言う。「誰に雇われた?」


 閻謬えんびゅうは黙ったまま、鋭い目で郭子儀かくしぎを睨みつけた。


「言うつもりはないか」郭子儀かくしぎは淡々と言った。「ならば牢に入れ、ゆっくり尋問しよう」


 そのとき閻謬えんびゅうの口から、突然笑い声が漏れた。


「天下の郭子儀かくしぎを守るのは、小娘一人か」彼女は李秀りしゅうに向かって嘲笑う。「おまえの双戟そうげきは見事だ。だが、我が暗腿あんたいの奥義を見せるまでではなかった」


 李秀りしゅうは眉を寄せたが、げきの先はぶれなかった。「まだやる気?」


 閻謬えんびゅうはにやりと笑った。「いや。終了だ」


 彼女が何かを口に放り込んだ。それを噛み砕く音が聞こえ、少し経つと、彼女の口から泡が溢れ始めた。


「毒!」李秀りしゅうは驚いて叫んだ。


閻謬えんびゅうの体が痙攣し始めた。彼女の口から泡が溢れ続け、やがて動かなくなった。


 李秀りしゅうは息を呑み、郭子儀かくしぎは静かに近づいてきた。


「毒を飲んだか」郭子儀かくしぎは冷静に言った。「しかし……」


 彼は閻謬えんびゅうの首筋に指を当て、脈を確かめる。その表情に、わずかな笑みが浮かんだ。


「うむ、呼吸はしていない」郭子儀かくしぎ李秀りしゅうに向き直った。「李秀りしゅう、こいつを牢に運べ。私の命令があるまで誰も近づけるな」


 李秀りしゅうは戸惑いながらも従った。「牢に? 師父、彼女は死んだのでは?」


「いや」郭子儀かくしぎは首を振った。「この毒は、飲んですぐなら助けられる。救護班を呼べ。解毒剤があったはずだ」


 李秀りしゅうの目が大きく開かれた。「では……」


「死んで終わらせるつもりだったのだろうな」郭子儀かくしぎ閻謬えんびゅうを見つめた。「だが、そう簡単にはいかぬぞ」



 ◇



 夜半過ぎ、軍営の片隅にある牢内。閻謬えんびゅうは静かに目を開いた。部屋は薄暗く、ただ一つの灯りが壁に取り付けられているだけだった。彼女は体を起こし、辺りを窺う。


「目が覚めたか」


 突然の声に、閻謬えんびゅうは飛び上がった。牢の隅に郭子儀かくしぎが座っていた。その姿勢は穏やかだが、目は鋭く閻謬えんびゅうを見据えている。


「くっ、解毒剤か!」閻謬えんびゅうの声は低く、悔恨に満ちていた。


「お前の戦いぶりは見事だ」郭子儀かくしぎはゆっくりと立ち上がった。「李秀りしゅうをあれだけ苦しめるとはな」


 閻謬えんびゅうは素早く体勢を整え、戦闘の構えを取った。「だったら、実際に味わってみるか」


「望むところだ」


 郭子儀かくしぎの声が終わるか終わらないかのうちに、閻謬えんびゅうは素早く動いた。彼女の足が地面を蹴り、瞬時に郭子儀かくしぎの胸元へと迫る。しかし郭子儀かくしぎはわずかに体を傾けただけで、その蹴りをやり過ごした。


「なっ!」閻謬えんびゅうの目が見開かれる。


 閻謬えんびゅうはすぐさま体勢を立て直し、今度は低い姿勢からの足払いを放った。郭子儀かくしぎは片足でそれを避け、彼女の動きを見下ろす。


「確かに速い。だが……」


 郭子儀かくしぎの手が動いた。閻謬えんびゅうは反射的に身を引いたが、それでも郭子儀かくしぎの掌が彼女の肩に触れる。その衝撃は意外なほど軽いものだったが、閻謬えんびゅうの体は壁へと叩きつけられた。


「くっ!」閻謬えんびゅうは痛みを堪えながら立ち上がる。


「お前の『暗腿あんたい』は確かに優れている」郭子儀かくしぎが言う。「だが、技が若い。まだ修錬が足りないな」


 閻謬えんびゅうの目が怒りで燃えた。「なめるなっ!」


 彼女は連続の蹴りを放った。右、左、回転蹴り、そして跳躍からのかかと落とし。それぞれが致命的な威力を持っていたが、郭子儀かくしぎの前では全て空を切る。


「腰を見ていると、技の始まりが見える。それを消せるようにならなければ、私には当たらんぞ」


 郭子儀かくしぎ閻謬えんびゅうの技の根本を見切っていた。彼の声が、静かに重く、閻謬えんびゅうの心に響く。


 次の瞬間、郭子儀かくしぎの拳が閻謬えんびゅうの腹に入った。一撃で彼女の息が止まり、膝をつく。しかし閻謬えんびゅうはすぐに体勢を立て直し、再び立ち上がった。


「まだだ……」彼女は胃液を吐きながらも言い放つ。


 閻謬えんびゅうは素早く郭子儀かくしぎに襲いかかった。だが郭子儀かくしぎの動きは水のように滑らかで、どんな攻撃も彼には届かない。そして時折放たれる郭子儀かくしぎの拳は、確実に閻謬えんびゅうの体力を奪っていった。


 ついに閻謬えんびゅうは力尽き、床に崩れ落ちた。郭子儀かくしぎは彼女の首を掴み上げる。


「殺せ……」閻謬えんびゅうは絞り出すように言った。


「殺したくないからわざわざ解毒したのだ」郭子儀かくしぎの声は意外にも穏やかだった。「お前に頼みがある」


 閻謬えんびゅうの目が驚きで見開かれた。「何……だと?」


「私の護衛になれ」


「……冗談だろう」閻謬えんびゅうは嘲笑した。「自分に向けられた刺客を護衛に?」


郭子儀かくしぎ閻謬えんびゅうの目をじっと見つめた。「私の下で働け。お前はまだ若い、命を無駄にするな」


 閻謬えんびゅうは黙り込んだ。


「それに」郭子儀かくしぎは続けた。「お前はとうの守護将を殺そうとしたのだ。もし成功していたら、戦乱の形勢は大きく変わるところだった。その罪は命ではなく、働きで償え」


 牢の中に沈黙が落ちた。やがて閻謬えんびゅうはゆっくりと口を開いた。


「……わかった。だが、いつか必ず貴様を倒す」


 郭子儀かくしぎは満足そうに頷いた。「待っているぞ。もっともっと強くなれ、娘」


「……閻謬えんびゅう、だ」


「よろしくな、閻謬えんびゅう。今、お前の部屋を手配させる」


 郭子儀かくしぎは嬉しそうな笑顔のまま、牢を出ていった。



 ◇



 翌朝、李秀りしゅう郭子儀かくしぎに呼び出された。彼女が中央の帷幕いばくに着くと、そこには藍色の軍服姿の閻謬えんびゅうが、しぶしぶとした表情で郭子儀かくしぎの横に立っている。


「えっ?」李秀りしゅうは思わず双戟そうげきの柄に手をかけた。


「落ち着け、李秀りしゅう郭子儀かくしぎが手を上げる。「彼女は今日から我々の仲間だ」


 閻謬えんびゅうは無表情のまま、李秀りしゅうに軽く会釈した。


「師父、これはどういう……」


「詳しい事情は後で話す」郭子儀かくしぎは微笑んだ。「だが、彼女の暗腿あんたいの技は我々の貴重な力になるだろう」


 李秀りしゅう閻謬えんびゅうは互いを睨み合った。二人の間に流れる緊張は、刃のように鋭かった。

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