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少女

 とりあえず、コンビニで入手した首都圏地図を参照に日暮里駅を目指すことにした。そこから東北本線沿いに、行けるところまで歩いていくつもりだ。山手線も今は動いていない。地図を見ながらなるべく線路に沿うように道を選んで歩く。季節が春なのは幸いだった。冬なら下手をすると凍死してしまっていたかもしれない。久々の寒い冬だった、今年の過ぎ去った季節を思い出す。

 それにしても、さまざまの略奪を経た道行きは辛いものだった。まだ水は供給されていた。それはいいが、食べるものを入手するのがだんだん困難になってきていた。スーパーマーケットやコンビニは必ずすみずみまで探したが、食べられるものを、腹を満たすくらいに手に入れることが難しい。

 田端まで歩いた。ひっそりとした住宅街の道を行く。そこでKは、思いがけないものを目にした。子供だ。小学校低学年くらいの女の子が、おそらく自分の家だったであろう木造の家の門の辺りに座り込んでいた。酷く痩せておかっぱの髪もぼさぼさになり、垢で汚らしい。それでも、生きている子供を見たことにKは急に体が温まるような喜びを抱いた。怖がらせないように、静かにゆっくりとその子供に近づいていった。

 子供は茫然とした表情をしていたが、Kの気配を感じてか、こちらに顔を向けた。これまでに見た大人の人間と違って、きれいな瞳をしている。服装も汚れてはいたが、子供らしいスウェットのえんじ色の上着とひざ丈の白いスカートをはいていた。靴も靴下も身に着けている。

 しばらく少女は、Kの姿を見てもまるで言葉を忘れたかのようにただ口を半開きにしたままだった。

 少女の前まで近づくと、Kは声をかけてみた。

「この家の子かな。お父さんやお母さんはどうした?」

 少女は不安が一気に噴き出したような表情になり、答えた。

「いないの。どこにもいない」

「学校は?」

「誰もいない。教室はがらがらだったし、みゆきちゃんの家にも行ってみたけど、誰もいないみたいだった」

 みゆきちゃんというのは、この女の子の友達なのだろう。

「君の名前を教えてくれるかな」

「おおたまり」

 ブロック塀に挟まれたような門の表札には「太田」と書いてある。

「そうか、僕は、×××K」

 Kは名のって、「お兄ちゃん」と呼んでほしいと伝えた。

「お、お兄ちゃん」

 そう言って、

「あたしにはお兄ちゃんはいなかったけど、でもそういうふうに言えばいいんですね」

と答えた。

 この子供はまだ正気を保っている、数少ない、かつ消えていない人間なのだとKは感慨深く感じた。

「ご飯は食べた?」

「うん。おうちにあるものを」

「どんなの?」

「袋のうどんとか、お菓子とか」

「今はお腹は空いてる?」

 そう聞くと思いがけないことに少女は門を入り玄関のドアを開いた。

「まだ、食べ物あるよ。お兄ちゃんも来て」

 Kはたじろぐ。まさかこの少女の限りのある食物を奪うつもりなどなかった。しかし、少女の哀しそうな眼と、好奇心に勝てずにその家の玄関をくぐる。

 玄関先には、萎れた花が古臭い花瓶に入ったままだった。

「お水は代えてるんだけど、もうお花終わっちゃったの」

 少女、まりが言う。

 広い三和土には、予想に反して靴は散らかっておらず、まりの今脱いだ運動靴と、今Kが脱いだ、すでに薄汚れたスニーカーが並んだ。作り付けの傍らの靴箱にきれいに大小の靴やサンダルが並べられている。

 玄関から続く廊下もきれいなままだ。まりが掃除をしていたのだろうか。

 玄関に近い居間らしい四畳半の部屋。ガラス窓、こたつの布団だけをはぎとったテーブル。戸棚。やはり古臭いが、きちんと人が住んでいた家だ。座布団が四つ、それぞれのテーブルの辺に置いてあり、テレビが部屋の角にある。四人家族ということはきょうだいがいたのだろうか。

「お父さんとお母さんとおばあちゃんがいたの」

 Kの心の声に答えるようにまりは言う。

 戸棚の上の写真立てに気づき、Kはそれを見て、この家の家族だった人たちを知った。写真の下にボールペンで書いた字で、「鞠五才」と書かれていた。少女まりは「鞠」という漢字であると知った。まだ自分ではこの字は書けないだろうなとKは思う。父母は若く、Kと同じくらいかもしれない。「おばあちゃん」も見かけはまだ老人には遠い。

 家族のことは鞠には聞きあぐねた。そのうちに鞠はガラス戸を開けて台所らしい部屋に入る。人の家に入ること自体に躊躇があるのに、ましてや台所をのぞく気にはなれず、Kは立ったまま居間の観察を続ける。窓の外には小さな庭があり、灌木が植えられていた。山吹の鮮やかな花が咲いているのを見て、Kは軽い眩暈がした。これまでの数日間、Kが見てきた光景とはあまりにも異質なものを見た気分だった。

 やがて鞠が台所からコップを持って戻ってきた。そこには透き通った水が湛えられていた。Kはそれを受け取り、ごくりごくりと咽喉を鳴らして飲んだ。

「うちには井戸もあるから、まだ水も飲めるの」

 抑揚のない声で鞠が言う。

 Kは人間の消滅する世界となってから初めて、美味い水を思いきり飲み、全身に沁みとおるのを味わった。

 無意識に座りこむ。骨を痛めたままの右脚をかばって、ゆっくりと。ついでに杖にしていた鉄の棒をテーブルの下に置いた。

 これまで、見通しの良い体育館やホールのような場所でばかり寝泊りしていたので、座布団の上は想像していた以上に身が楽だった。鞠は自分のコップをテーブルの上に置き、再び台所に行って、今度はスナック菓子の袋を持ってきた。この家に、消滅の始まる前に買い置きされていたものだろう。鞠の食べ物をもらうのは気が引けた。しかも、一口それを食べたら、鞠の分まですべて食べてしまいそうだった。Kは頑なにそれには手を出さなかった。鞠は自分で袋を破り、食べはじめる。忘れていたよい匂いが鼻先をくすぐるが、Kは耐えた。鞠は半分ほどを食べた後、その袋をKの前に押しやった。Kの咽喉が鳴る。それでも手は出さなかった。鞠はそういうKを憐れむような眼で見ている。それは幼い少女の眼ではないように思われた。

『この子は人間ではないのかもしれない』

 ふと脳裡に過ったその考えを、Kは慌てて打ち消す。少女は黙って居間から廊下に出た。そのまま消えてしまうような気がして、Kは少女のあとを追う。隣の部屋も和室で六畳間、布団が三組、丁寧にたたまれて、畳の上に置かれていた。そして、洋服が鴨居からハンガーに吊るされていた。廊下向かいの四畳半も同じように、布団は一組、パジャマらしい衣類がたたまれて布団の上に置かれている。

 それまで死んだようになっていたKの心に激しいものが湧いた。Kも両親の家で、両親の着ていた服をきれいにたたんだ。この家では、この幼い少女が、家族全員の衣服をたたんだのかもしれない。

「君はこれからどうするの」

 少女に向かって、思わずKは言葉を発していた。


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