「お兄ちゃんはどうするの」
質問に質問で返されてしまった。しかしこのときの鞠の置かれた状況からして、他には言いようがないだろうことは推測できた。腹が立つこともなく、Kは答えた。
「一緒に来ない?」
少女は目を丸くした。
「今すぐでなくともいいんだ。でも、ほら、君もテレビのニュースとかで知っているだろうけど、君の家族だけでなく、たくさんの人間がこの地球上からいきなり消滅している。その理由は誰にも分からない。お兄ちゃんにも分からない。で、きっといつかは君も僕も消える。そのいつかは今すぐの瞬間かもしれないし、一週間、一カ月、それ以上かもしれない。人は消滅したらどうなるのかというのも、今残っている人間には分からない。ただ、かなりの少数派にはなってきたようだ。僕は……消滅がいつきてもいいとは思っているんだが、たった一人でいきなり消えてなくなるのが怖いんだ。君はそうは思わない?」
言葉にして初めてKは自分が孤独に消滅してしまうことを恐れていることに気づいた。またそれ以上に、存在している間も孤独であることを恐ろしいと思っていた。自分を「お兄ちゃん」と呼ばせたというのに、本当はずっと年の離れた大人の自分の方がこの少女にすがっているのかもしれない。
そのことを自覚しながらも、Kは何とか少女を説得しようと試みた。
少女の丸い眼は、そのまま動かない。今必死に言われたことを考えているように見えた。Kは眼を逸らして、窓の外を見た。山吹の鮮やかな花に蝶が舞っていた。大きめの鮮やかな羽を持った蝶、気づくと、もう一匹、しじみ蝶のような地味な蝶が来ている。二匹の蝶はお互いを干渉することなく、思い思いに花の蜜を吸っている。Kは目頭が熱くなる。こんな光景ももういつまで「見る」人間がいるのだろう。山吹がいかに美しく咲いていても、愛でる人間もいなくなる。しかし花にとっても蝶にとっても、そんなことは無関係のはずだった。植物も虫も、人間が誕生するずっと以前から地球上に存在した。被子植物と昆虫は相互依存的に繁栄を謳歌してきた。むしろそこに手を加え、「人間のための」花をつくり出してきた人類は彼らにとっていなくなった方がよい存在なのかもしれない。
それでも、花も蝶も美しいのだった。
少女はついに答えを見いだした。静かに居間を出て二階に上がる。少しの間を置いて戻ってきた少女は、大きなリュックを持っていた。色合いやサイズから、おそらく父親か母親のものだろう。
「お兄ちゃんが寂しいのなら、一緒に行く」
見透かされていた。やはりKはこの少女の存在に依存していた。少女は台所で食料と水を探しはじめた。Kは近くに行った。
「僕も手伝っていいかな」
少女は頷いた。
おばあさんがいたということによるのか、買い置きが多く、まだ食料はかなり残っていた。野菜や魚や肉のような生鮮食品はもうダメだが、冷凍庫にあったものは使える。冷凍食品、冷凍してあったパンなどはまだいけるだろう。缶物、瓶物、あとは戸棚にお菓子類が多めにあった。スナックや煎餅、チョコレート菓子。エネルギーにはなる。
Kは戸棚の食品を出しては鞠に渡していく。鞠はそれをリュックに詰めていく。冷凍食品はせめてアイスクーラーのようなものはないかと探したが、よくは分からなかった。あとは水だ。ありったけの蓋の閉まる容れ物、ペットボトルや蓋つきのガラス瓶、ポットに水をいっぱいに入れていく。米やうどんなども持った。全部入れるとかなりの大荷物である。この家は略奪にはあわなかったのか。もしかしたら、一人残っている少女を見てやる気が削がれていった人間が多かったのかもしれない。
案外の量になった。Kは鞠に訊ねた。
「他にもバッグとかリュックとかある? ちょっと入りきらないよ」
少女はまた奥のほうの部屋に引っ込んで、大きな山用のリュックを出してきた。
「いいものあるじゃない」
喜ぶKだが、おそらく両親の趣味が山歩きだったのだろうと思うとそれ以上声が出なかった。
すっかり荷造りをした後で、Kは少女に乞う。
「君は君の布団でとりあえず寝て欲しい。僕はこの座布団の上で寝るから」
少女は部屋を出ず、こたつテーブルの座布団の上に自分も横になった。
Kは初めて気づいた。鞠は家族が消えた部屋にいるのが怖いのだろう、と。きれいにたたまれた寝具、来ていた洋服。少女にとってそれはもう、見るのが耐えられないくらいのものなのかもしれない。
四畳半の居間で、疲れを休めたい気持ちもあり、こたつテーブルの反対側に横になって二人は寝た。
カーテンを開けっぱなしにしていたので、小さな庭の灌木を透かして昇る太陽の光で目が覚めた。Kは屋内を選んで寝起きはしてきたが、いつも警戒していたので、これほど熟睡できたのは久しぶりだった。そして、傍らに人のいる安心感──そこで慌ててKはこたつテーブルの反対側に目をやる。鞠は消滅せずにそこに眠っていた。まだ鞠のところまでは朝の陽ざしは届いていない。全て諦め覚悟を決めていたつもりのKだったが、少女がそこに存在しているということに、自分で思っていた以上の安堵を覚えた。もし目が覚めて、そこに鞠の着ていた小さいパジャマやカーディガンだけが落ちていたら、Kは狂ってしまっていたかもしれない。
それは、Kにとってはこれから先、いつまでかは知らないが存在しつづける力になると同時に、また大きな弱点にもなるのだということを暗示していた。Kはそのことに気づいていたが、それでも少女と離れるつもりはなかった。昨夜言ったように、たった一人でいきなり消滅するのはあまりにもやるせないと感じていた。Kはかねてから、もし自分が死ぬときは、「死ぬ」と自覚して死にたいと強く願っていた。無自覚に死ぬのはとても恐ろしかったのだ。寝ている間とか、事故などで即死とか、想像するだけで背筋が凍った。苦しむことになっても良いから、死の一瞬前まで自分の死を見つめたい。かつてそう強く感じていたことを思い出した。
Kは鞠を起こさないようにそっと起き上がり、左足を引きずりながら台所の開き戸を静かに開けた。鞠と食べる朝食を用意しようと思ったのだ。大概の食糧も水もリュックに詰めたが、朝食分の乾パンとほんの少し残っていたイチゴジャムは台所に置いたままにしてある。
鞠の言う井戸の水は、公共水道とは別の細い蛇口から出すことができる。
適当に皿やスプーンを見繕い、水を汲み、Kはそれらを古めかしい木製の磨かれた盆にのせて居間に戻った。
一瞬、心臓が凍りついた。