手前の、鞠の寝ていた座布団の上に鞠がいなかったのだ。文字通り、呼吸が止まったKは、歩を進めることもできないほどに衝撃を受けていた。
そこに幼い声がする。
「お兄ちゃん、おはよう」
鞠は窓際にいた。束ねたカーテンの手前にいたので、まばゆい朝の光の中、影になって視界に入らなかったのだ。Kは膝ががくがくとしているのを感じた。そのくらい、Kにとっては鞠が消えるということが恐ろしかった。あらためてそれを突きつけられ、Kは遠く不安を感じる。本当に、鞠が消えたなら自分は狂ってしまう。いや、生きられない。大量の人間が消滅している中で、Kは自分もいつかは消えるのだと覚悟はしていたつもりだった。多くの人がそうなるのなら、しようのないことだと思っていた。ただ、消滅するまでは生きていようという意思だけはあった。
そうであったのに、今その内的な感情に質的な変化が生じていることを、Kは感じた。
鞠に消えて欲しくない。
恐怖と紙一重でしか得られない安らぎ。唯一の心の安寧。
そういう状態に陥った自分、怖いものができた自分にKは戸惑った。
しばらく恐慌状態になったのち、Kは何事もなかったかのように、盆をテーブルの上に置いて、水の入ったコップを鞠の前に置いてやった。
「朝ご飯。少しだけど、少しずつ食べないと、これからのことが分からないから」
そう言ったが、鞠はジャムをかけた乾パンに手を出そうとしない。上目遣いにKを見ている。
鞠の眼は心を映してはいなかった。無理もない。家族が全員消滅してしまった幼子だ。それでも、Kには鞠の言いたいことが分かった。遠慮がちに手を伸ばして、乾パンの一つをとって、Kはごくゆっくりとそれを食べはじめた。
それを見て鞠も食べ始めた。もともと鞠の家のものなのだ。気にすることもないはずだが、鞠はKが鞠を気づかってほとんど食べないのではないかと気づいていた。そういう繊細な心の交流が生まれつつあった。Kはゆっくりと味わってジャムがついた乾パンを食べた。水を飲んで、朝食はおしまい。Kはあらためて鞠に向き合った。
「お兄ちゃんは、これから北の方に行こうと思っているんだ。どうしてかは分からないけれど、……そうだな。ただ、じっとしていられないというだけなんだ。君はどうする? この家は君の思い出の場所だから、無理にとは言わないよ」
Kにとっては、鞠を連れだすことに抵抗はあった。消滅を見届けて欲しいなど、身勝手だ。だから、少女の意思を尊重すべきだと思ったのだ。鞠が残りたいなら、それはそれで身が案じられるが、そうしなければならない。Kは
ぎゅうと心の臓がつかまれているような心地を味わった。こんな少女一人の決断がどうなるのかということに。
鞠は首を傾げ、それからはっきりと言った。
「お兄ちゃんと、一緒に行くよ。鞠、北の方に行ったことない。箱根とか熱海はあるんだ」
Kは大きく息を吐いた。
鞠はすっと立ちあがり、廊下に出ていった。Kが待つと、買い物カートを持ってきた。そう、おばあさんが買い物で使うものだ。
「鞠も荷物持つよ」
鞠の気づかいにKは肩の力が抜けるような心地がした。思っているよりも、この少女は強いのかもしれない。
そして、Kは自分の左足の状態で持てるだけのものを持ち、残りのわずかの荷物を鞠が持ち出したおばあさんの買い物カートに入れてやった。
二人旅が始まる。
Kにとって、人の消滅が始まり、人と出会わないか出会っても「敵」でしかない日々──それは決して短くはなかった──を脱したことは一つの試練であった。
一人であることは案外に慣れやすかった。その環境が壮絶であればあるほど、人は慣れてしまう場合もあるのだ。慣れる? いや、麻痺するのだ。生きていくという本能に従って。
けれど、一度「二人」ないし「他者」を獲得してしまったKは、今度はそれを失ってしまうことへの「恐怖」をも獲得してしまった。鞠の存在は、それまでは自分の左足の痛みによって、あるいは自分の空腹によって「自己」を感じていただけのKに、新たな試練を課したのだった。
その日は鉛色の空が一面に広がっている。東京を出ると急に空は拓けて、遠くまで見渡せるようになる。関東平野を覆う建物の数は減るが、それでも大地には人のいた痕跡がある。鞠とともに、都内に比べればさして高くはない建物の上階で、Kは感慨深くそれらを眺めた。
鞠と歩きはじめて三日目。
鞠の歩に合わせて、というよりはすでに引きずらないことには足を運べなくなった自分の現状に踏まえて、Kは休み休みゆっくりと道を行った。少しでも空いている建物があれば、内部に入って休憩をしたり、食糧を始め役に立ちそうなものを漁る。とりわけ今は衣類の類が大事だった。水も貴重なものになっていたので、なかなか洗うことができない。自分一人ならともかく、鞠にはなるべく不憫な思いはさせたくなかった。最初はそうやって鞠のために動く自分に心地よさも感じた。
道々、鞠は道端の草花や、誰かの家の庭やベランダに咲いていた花を摘んでは大事そうに小さなかごに入れていた。花はすぐに萎れるのだが、鞠はその作業をやめようとはしない。Kもまた、鞠の手にする花たちに心を慰められていた。
小さな諍いが起きたことがあった。Kが、萎れた花を捨てようとすると、鞠が激しく怒ったのだ。鞠が怒るのは初めてだった。最初はどういうことか分からなかったが、鞠は花をすべてドライフラワーにして持っていきたいようなのだ。Kはそれは気が進まなかった。Kにとって枯れた花(としか見えない)はまるで今の人類の象徴のように思われて不吉だった。生理的に嫌悪感を覚えた。しかし鞠は譲らない。大泣きする鞠に困り果て、Kは枯れた花を持ち歩くことを認めたが、それでも心の底に暗いわだかまりが残った。K自身はそのことに自覚的ではなかったけれども。
古いマンションの上階の非常階段から世界を眺めた後、Kは通路に入った。一戸一戸、ドアが開いているかを確かめる。滅多なことでは開いていることはなかったが、それでもその部屋にいた人間の消滅の状況によっては、空いている部屋もあるのだ。
七階建てのこのマンションの四階の外れの部屋で、Kがノブに手をかけると、ドアは開いた。中のようすがどうなっているのかはまるで予測がつかないため、Kははじめは鞠に外にいるように命じて、自分一人で入る。
古いマンションだけあって、年配の人間がいた気配が残っている。案の定、居間にはこたつ布団がかけられたままの状態のテーブルがあり、湯飲みが布団の上に落ちている。触ってみるとすっかり乾いている。お茶を飲んでいる時に消滅したのは間違いない。なぜなら、薄手の上着やスウェットのズボンが落ちていたから。ここにいた人は男性だったのか女性だったのか、老人だけだったのか、若い者もいたのか。
Kはこういった住居侵入を繰り返す中で、大体の察しはすぐにつくようになっていた。
『しめた。年寄りはけっこう物をため込んでいるからな』
無感動にそう思い、まず台所に向かう。
案の定、戸棚やシンク下のスペースには、レトルトや缶詰が多く放置されていた。Kは思わず顔が緩む。鞠の好きそうなフルーツの缶詰もいくつかあった。
「鞠、入ってもいいよ」
消えた住人の衣類を片付けてから、Kは鞠を呼ぶ。鞠の軽い足音が近づいてくる。背中に気配を感じた時、Kはフルーツ缶と蜜豆缶を両手に持って鞠の小さな両頬に当てた。鞠の歓声が上がる。
二人は盗れるだけのものを盗って、マンションの外に出た。
マンションの裏手に広めの公園があるのはチェック済みだった。
そこのベンチに並んで座って、二人は食事をする。さっきのマンションから持ち出したものを中心に。生鮮食品だけはどうしてもなかなか手に入れることはできない。だから缶詰はありがたいものだった。
鞠は蜜豆缶とフルーツ缶をぺろりと食べた。Kは乾パンを二つ。それからビーフジャーキーを齧った。
Kは意外なことにその時これまで味わったこともない開放感を感じていた。会社に行く必要もない、炊事をする必要もない、何もする必要もない。ただ、鞠と一緒にお互いを思いやりながらあてのない旅を続ければいい。嵐の日は誰かの住まいだったところに隠れて過ごせばいい。よく晴れた心地よい日は今のように澄み渡った青空や浮かんだ白い雲の流れを見ながら、深く呼吸をすればいい。傍らには、自分を見守ってくれるはずの鞠がいる。十分に安心で幸せだ。Kは鞠の細すぎるくらいの髪が少し伸びていることに気づいた。ハサミを取り出し、そっと髪の一束をつまんで切り落とす。
「前髪も」
鞠がせがむ。
「目をつぶるんだぞ」
そう言って、おとなしく鞠が目を閉じたらそこにもハサミを入れる。
切ってみるとずいぶん前髪は短かった。鞠は手鏡を覗いて不満そうに口を尖らせる。
「ぎゅうっと強く目をつぶりすぎたんだ。次は気をつけて」
Kは笑いながら言う。
「すぐに伸びてくるから安心しな」
公園を出て少し行くと、寂れたふうの商店街が現れた。ここでもKと鞠は役立ちそうなものを物色する。途中で雑貨屋が現れた。ガラス戸は閉まっていたが、薄暗い内部には、子供の喜びそうな文具や雑貨が陳列されていた。古い店だ。Kは周りをきょろきょろして、看板を立てかけてある重しのコンクリート製ブロックを見つけ、ガラス戸を粉々に打ち砕いた。鍵は安っぽいつくりのものだったので、Kは破れたガラスの切っ先にだけ注意しながらそれを開け、中に入った。鞠も入りたそうにしていたが、手で制した。粉々のガラス片が散っていて危険だったからだ。
鞠が外から声をかける。
「お兄ちゃん、それ。そのシュシュが欲しい」
最初は何のことか分からなかったが、女性が髪に飾るものだとようやく気づいた。サテンのような生地のリボンで出来たそれが、色違いや模様入りで並んでいる。
「さっき髪を切ったばかりじゃないか。これは使わないだろう」
声をかけると鞠は頬をふくらます。
「髪の毛なんてすぐ伸びるもの。欲しいからとって。あと、その隣のヘアピンも欲しい」
Kは親指を立ててそれらを三つ四つ陳列棚から摑みだした。鞠にはなるべく楽しい思いをさせてやりたい。
他にぬいぐるみのキーホルダーやら小さなビニール製のバッグやら、鞠に言われるがままに盗って、それらを抱えてKは店を出た。
鞠は歓喜の声を上げて受けとる。Kも誇らしいようなくすぐったいような奇妙な気持ちになった。
そういうふうにのんびりと道をゆき、ついに大宮駅までたどり着いた。そしてKは、ここは避けるべきだったかもしれないと悟る。大きな街である大宮の周辺は、都内同様の悲惨な情景を残していた。車の残骸が折り重なり、ところどころに赤ん坊の遺体らしきものもある。吹きだまった衣類、衣類、衣類。傾いた看板の類。灯らなくなった信号機。
「鞠、ここはあまり面白くないから、裏道へ行こう」
そう声をかけたが、鞠はさしてショックを受けたふうはなかった。
「皆、消えちゃったのね」
少女らしくない乾いた声で言う。Kは一瞬ぎょっとした。鞠の髪飾りのバラの細工が目に飛び込む。
Kは思う。もし自分がこの位の子供だったら、この、人間が消滅していく現象をどうとらえるだろう。家族も皆消滅したという状況でどう受け止めるだろう。
子供にとっては、そのままに受け入れるしかないのではないか。
そう思い当たった。「おかしい」とか「ありえない」とか言う前に、その状況に無防備に放り込まれたら、受け入れるしかないだろう。ちょうど戦時下の子供たちのように、疑いなく、呪うこともなく従順に。
Kはより一層鞠が不憫に感じた。
そして、もし自分が消えたら、鞠はどうなるのかと考えた。当初は自分の消滅を見守ってくれる存在を求めたにすぎなかったKの意識は変貌していた。自分が消えた後の鞠を思うと心が冷える。鞠が先に消える可能性については無意識に回避した。とにかく、何とか、自分は消えないでいたい、鞠のために。
いつしかそういう思いがこみ上げてきていた。