目次
ブックマーク
応援する
8
コメント
シェア
通報

第九幕 初陣の朝、別離の陰

真田の屋敷はにわかに活気づいていた。

それもそのはず、間もなく嫡男である源太左衛門の初陣が控えているのだ。


「鎧櫃はこっちだ!」

「馬の轡はもう一度、油を塗っておけ!」

「槍の穂先は、念入りに研いでおけよ!」


使用人たちが声を張り上げ、忙しなく屋敷の中を駆け回っている。

鎧、馬具、武具……。それらは入念に手入れされ、今日の良き日を待ちわびていたかのように静かな輝きを放っていた。

中庭では屈強な若者たちが、真新しい鎧を纏った源太左衛門の愛馬を丁寧に、そして愛情を込めて洗い清めている。


「源太左衛門様の初陣、華々しいものにせねばな」

「ああ。真田の名に懸けても、必ずや、武功を上げて頂かねば」

「御屋形様もさぞや、お喜びであろう」


使用人たちの会話も自然と弾んでいた。彼らの顔には誇らしさと期待、一抹の不安が入り混じりその表情は、いつになく引き締まっている。

しかしそんな喧騒の中で、ただ一人……暗い表情を浮かべている女性がいた。

──琴である。


「あぁ……源太左衛門。どうして、戦場などへ行かねばならないのです」


源太左衛門を前に、琴はおいおいと泣き崩れていた。

その瞳からは大粒の涙が次々と溢れ出し、美しい頬を濡らしていく。


「あのな、母上。俺はもう、元服したんだ。武士の子が戦に行くのは当たり前のことだろう」


源太左衛門は困ったように頭を掻きながら母を宥める。

しかし琴は息子の言葉に耳を貸そうとはしない。その様子は、幼子が駄々をこねるかのようであった。

元服を終え精悍な顔つきとなった青年に過保護なまでに接する琴。それは武家の妻として相応しい態度とは言い難い。

しかしそれこそが琴という女性なのであった。


そんな時、虎千代が呆れたように琴を見上げ言った。


「母上、いつまで泣いているのだ? 源兄上は簡単には死なぬ。心配するだけ、無駄だってば」


幼いながらもどこか達観したような虎千代の言葉に、琴はたじろいだ。

こんな幼い子に諭されるとは……。武家の妻でありながら、この様はなんとも情けない。

そうだ、自分は武士の妻なのだ。ならば毅然とした態度で我が子を笑顔で送り出してやらねば……。

そう、頭では分かっている。

しかし……。


「死ぬときは、あっけなく死ぬものだ。……諦めて、兄上が、もうこの世にはいないものと思っておれば、気も楽であろう?」


虎千代は無邪気な笑顔でそう続けた。

その言葉は、無慈悲な刃のように琴の心を深く抉った。


「うっ……うぅぅ~!!」


再び、琴の瞳から大粒の涙が溢れ出した。


「こら虎千代! 母上をからかうな!」


源太左衛門は弟を叱りつけた。

我が弟ながらなんと無神経な、配慮のないやつよ。


「別にからかってなどおらぬ。事実を言ったまでだ」


虎千代は悪びれる様子もなくそう言い返した。

そう。こればかりは、母に耐えてもらわねばならない。真田という武家に生まれた以上、避けては通れぬ道なのだ。

これは運命。

源太左衛門が戦に行くのも、虎千代が寺に入るのも全ては決められた運命なのだ。


「あぁ……源太左衛門は戦場へ……虎千代は矢沢の家に行き、寺に……そして胡蝶までもうすぐ元服……。皆、皆……私のもとを離れていってしまう」


琴はまるでこの世の終わりを嘆くかのように悲嘆に暮れ力なく呟いた。


そう源太左衛門が初陣を迎えるように、胡蝶にもまた元服の時がすぐそこまで迫っていた。

それは琴の父、海野棟綱の直々の命。さすがの琴も父の命とあれば背くわけにはいかない。

これまで琴は密かに胡蝶を元服させまいと、様々な策を巡らせていた。真田の姓を継げば、いずれ必ず武士として戦場に赴かねばならぬ。それならばいっそ、里の農民の養子にでもしてしまえばテそうすれば、いつまでも自分の手元に置いておける……などと、本気で考えていたのだ。


しかし、それらの策略も、棟綱の命の前には、全て、泡のように、儚く消え去った。そして、そのことが、余計に、琴の悲嘆を深くしていた。

その様子を見ていた源太左衛門と虎千代は、顔を見合わせ、やれやれと、呆れたように、小さくため息をついたのであった。




♢   ♢   ♢




源太左衛門の初陣、そして胡蝶の元服という真田家にとって重要な出来事が迫る中、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っている。

屋敷の一室部屋で頼昌と胡蝶は向かい合っていた。


頼昌の顔つきはいつもの、優しげな父親のそれではない。長年、戦乱の世を生き抜いてきた歴戦の武将の精悍で、厳めしい表情。

これから兵を率い戦場へと赴かんとするその覚悟と決意が、ありありと浮かんでいた。


「父上。此度は戦場へ赴かれるとのこと」


胡蝶は静かに、真っ直ぐに頼昌を見つめ問いかけた。


「あぁ。諏訪の軍勢が我が領地を荒らしておるようでな。迎え撃たねばならぬ」


頼昌は短く答えた。その声は静かだが確固たる意志の強さを感じさせる。


「……」


一瞬の静寂。

それは長くは続かなかった。静寂を破ったのは胡蝶であった。


「父上。この胡蝶めもお供させてくださいませ」


胡蝶の静かな言葉が、室内に響いた。


「ならぬ」



胡蝶の言葉を最後まで聞くこともなく、頼昌は強い口調でそれを遮った。胡蝶が何を言おうとしているのか最初から分かっていたかのように。

父の強い拒絶に胡蝶は小さくうなだれた。それもそうだ。まだ元服もしていない未熟な身。

このような身で戦場に出ることなど、叶うはずもない。

そんなことをすれば、父の顔に泥を塗る。元服前の未熟者を戦場に出すとは真田も落ちたものよ、武家の風上にも置けぬと嘲笑されるのが落ちだ。


だが、それでも胡蝶は諦めきれなかった。父と義兄、源太左衛門が戦場へ赴くというのに、自分だけがこの安全な家に残り、ただひたすらに帰りを待つなど……耐え難い。

胡蝶のそんな思いを見透かしたように頼昌は優しく、諭すように語りかけた。


「お前が家にいてくれるからこそ、ワシは安心して戦場へ赴くことができる。琴を頼んだぞ」

「……はい」


短く返事をする胡蝶。その俯いた表情にはありありと深い失望が浮かんでいる。

そんな胡蝶の様子を見て頼昌は小さく、温かな笑みを漏らした。


「そう気を落とすでない。お前の元服の準備も着々と進めておる。焦らずとも、時はすぐに来る」


その言葉に胡蝶は小さく頷いた。

海野の棟梁様が直々に自分を元服させよと命じた、という話は胡蝶の耳にも届いている。すでに真田の家ではその準備がひそやかに進められていた。

一月か、二月後には元服の儀を執り行うという。そんなに時間のかかるものだったか……?と一瞬疑問に思ったが、いずれにせよもう少し待てば自分も一人前の武士として認められるのだ。

その上、真田の姓まで与えてくれるという。

顔も見たこともない海野の棟梁様に、胡蝶は心から感謝していた。


「まぁ、案ずるな。今回の戦はすぐに終わる。相手は百にも満たぬ小勢。こちらも矢沢と幾つかの家を連れてすぐに追い払ってくれよう」

「矢沢……と、申しますと、虎千代が養子に入る予定の矢沢家でございますか」


矢沢家は真田郷に隣接する矢沢郷を治める武家。

元々は諏訪の配下として真田、ひいては海野と長年敵対関係にあった。しかし、虎千代を養子として矢沢家へ迎え入れることでその関係は大きく変わったのだ。

つまり虎千代は寺へ預けられる前に、別の武家へ養子に出される……ということ。

まだ幼いというのに母・琴から引き離され、そして今度は慣れ親しんだ真田の家からも離れる。そのことを思うと胡蝶は胸が締め付けられる思いがした。


その時、一抹の疑問が胡蝶の胸に波紋のように広がった。

矢沢家へ養子に出す。ならば本来、虎千代を寺へ預ける必要などないのでは……?

……いや、家の事情というものは複雑怪奇。拾われた身である自分が軽々しく口を挟むべきことではない。

そう、頭では理解している。しかし幼い虎千代の寂しげな表情がふと脳裏をよぎる。胸の奥がちくりと痛んだ。


「此度の出陣で、虎千代も、矢沢の家へ向かうことになる。まぁ、これも、運命よな……。良い機会だったやも知れぬ」


頼昌はそう言って寂しげに笑った。

虎千代は出陣する頼昌、そして源太左衛門と共に行動しそのまま矢沢の家へ向かう手筈となっている。

つまり……この、真田の屋敷には、母・琴と胡蝶だけが残されることになるのだ。


途端、胡蝶の脳裏に妙に寂しい光景が浮かんだ。

出陣の準備で、これほどまでに活気づいていた屋敷。それが祭りの後の静けさのようにがらんどうになり、ぽっかりと大きな穴が空いてしまったかのような……。

そして母である琴の心情を思うと胡蝶は胸が締め付けられる思いがした。

源太左衛門の初陣に、取り乱し嘆き悲しんでいた母。その上、虎千代までもが家を離れるのだ。

その嘆き、悲しみはいかばかりであろうか……。


(母上は……耐えられるのであろうか……)


そして、ふと胡蝶はこの先に待ち受ける、自分自身の運命を思った。

母は、元服を酷く嫌がっている。しかしそれももうすぐ終わる。

間もなく自分は真田の姓を与えられ、一人前の武士として歩み始めるのだ。


(しかし……そうなれば……)


胡蝶は自分が元服し、武士となった後の母の姿を想像し、その胸中は複雑な思いで満たされた。

もし自分が戦場へ赴くことになればこの広大な屋敷には母が、ただ一人取り残されることになる──。


その時の寂しげな母の表情が脳裏に浮かび、胡蝶は小さく頭を振った。


違う。


自分は決して母を悲しませるために、武士になるのではない。

戦場へ赴き、敵と戦う。それらは全て真田を守り、ひいては母を守るため。


(そうだ……私は……強くならねば……)


胡蝶は固く拳を握りしめた。


「さて、胡蝶。話は終わりだ。ワシはそろそろ支度をせねばならぬ」


頼昌はそう言うと立ち上がった。


「……はい、父上」


胡蝶は小さく返事をし深々と頭を下げた。

障子の向こうでは家臣たちが、頼昌と源太左衛門の出陣準備を整えている。

鎧を磨く音、刀を鞘に納める音、馬の嘶き……それらの音が胡蝶の耳に心地よく響く。

頼昌は部屋を出ると、家臣たちに手早く指示を出し自らも戦支度を始めた。

慌ただしい使用人たちの声が響いてくる……。


「急げ! 源太左衛門様の晴れ舞台ぞ! 粗相があってはならぬ!」

「御屋形様の武具は磨き終わったぞ!」

「虎千代様の御支度も、忘れずにな!」


源太左衛門の初陣、そして、虎千代の矢沢行き。

使用人たちは朝早くから夜遅くまで屋敷内を忙しなく駆け回り、その額には大粒の汗が光る。


「お三方のためにも我ら精一杯、務めを果たさねば!」


使用人たちの熱のこもった会話が屋敷のあちこちで交わされている。

その声は時に真剣に、時に楽しげに、そして時に寂しげに響いていた。

そんな喧騒も日が沈むにつれ、次第に静まっていく。


ふと窓の外に目をやると西の空は燃えるような茜色に染まり、沈みゆく夕日が最後の輝きを放っていた。


「……!?」


その時。


不意に、胡蝶の視界がぐらりと揺れた。舟に乗っているかのように足元がおぼつかない。

胡蝶は咄嗟に、近くの柱に手を伸ばした。


途端───。


胡蝶の脳裏に鮮烈な光景が流れ込んできた。


それは胡蝶の知るはずのない、しかし妙に懐かしい光景。


窓の外は空高くそびえる灰色の壁。

空を切り裂くように空に伸びる壁には、幾つもの小さな窓が規則正しく並んでいる。

見知らぬ形の、見たこともない色の、異様な服を着た年齢の近い者たち。


そしてその中で、誰かと言葉を交わしていた。


『なぁなぁ、聞いてくれよ! 俺、最近、矢沢頼綱って武将に、どハマりしててさ!』

『矢沢? 誰それ、聞いたことねーな。どんな奴なんだ?』

『それが、めっちゃくちゃ強くて、カッケェんだよ!圧倒的に少ない兵で、何度も、北条の大軍を、追い払ったんだぜ!?』

『……へぇー。それって、そんなにスゴイの?』

『はぁ!? お前、マジかよ! 当時の北条に、単独で勝てる奴なんて、そうそういねーって! たった数百の兵で、何万もの北条兵を、相手にしたんだぜ!?信じられるか!?あぁ、元々は真田家の生まれだったらしいけど、矢沢家に養子に……』


──そこで記憶は、ぷつりと途切れた。


「はっ……! はっ……!」


気がつくと胡蝶は床に膝をつき、肩で荒い息をしていた。

全身から脂汗が噴き出し、着物は水に濡れたかのように肌に張り付いている。


「な……なんだ……今の、光景は……? あの、会話は……?」


胡蝶は震える声で呟いた。その瞳には恐怖と困惑の色が浮かんでいた。

まるで白昼夢でも見ていたかのような……。

いや、夢にしてはあまりにも鮮明で……あまりにも現実味を帯びすぎていた。


(矢沢頼綱……北条……撃退……?)


聞いたこともない言葉の羅列。

しかしなぜか、その言葉は胡蝶の心の奥深くに重く、鋭く突き刺さる。

胡蝶はゆっくりと立ち上がった。しかしその足取りは酷く覚束ない。


(私は……一体……どうしてしまったのだ……?)


自分でも理解できない。何かが自分の身に起こっている。

ふらふらと、おぼつかない足取りで胡蝶は部屋を出た。

その時、不意に強烈な吐き気が胡蝶を襲った。


「……うっ……」


胡蝶は咄嗟に口元を手で覆った。

しかし吐き気は治まるどころかますます酷くなる。


まるでこの先に待ち受ける、過酷な運命を暗示するかのように──。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?