私の魂は、昨夜、自身とは無縁の美女の人生に迷い込みでもしたのか。
眠りから覚めたばかりの私は、所どころ剥がれた壁のすぐ向こうに聞こえる雨──…ではなくシャワーの音に耳を預けて、今しがたの記憶を振り返っていた。
童話から抜け出てきたかのような少女の腕に抱かれていた。
彼女の体温を連れた涙が、私の頬を濡らしていた。か細い腕は見た目によらず柔らかく、薄桃色の長い髪は、それ以上だった。愛おしさと一筋の希望、たとしえなく温かなものが私の内側を満たしていたのに反して、どれだけ見つめていても飽きないだろう高貴な顔は、悲しみと疲弊が覆っていた。
私の背中を硬い地べたから保護していた白いドレスの裾とは、似ても似つかない。ぞっとするほど粗末なシーツは赤の他人の匂いを残して、皺だらけだ。
生ぬるい湿った寝具を整えて、私は、雑駁とした中でも特にはっきりとした記憶を整理する。
高貴な少女に看取られる、玲瓏な女。そして、美しい男と宿に入って出張サービス──…早い話がデリバリーヘルスの仕事に専念していた冴えない女。
どちらかが、私だ。
後者に現実味を覚えるのは、私が今、慣れ親しんだ宿にいるからだ。
記憶は他にもある。
例えば、そこでは私の容姿を貶した客が、私を欠陥品呼ばわりしていた。
サァァァーー。カタン。ことん。
随分、シャワーの長い客だ。
浴室にいるのは誰だろう。
夢と思しき記憶の少女と考え難いのは、この宿が彼女に不似合いだからだ。
端正な顔立ち、労働などする必要のない人間特有の肢体の線、鈴を転がすような声。そして、やんごとなき生まれ育ちを象徴した彼女の身のこなしを思い起こしても、世話係の人間もなく、こんな宿の浴室で裸になれないに決まっている。
だとすれば、残る可能性は、美青年と醜男だ。
もっとも、美しかろうと醜かろうと、客は客だ。
丹念に皮膚の汚れを落としても、金で女を消費しようと考えるような野生の男だ。傲慢で短絡的な本質は、不快な欲望の匂いを強める。
「…………」
ただし、私には、自分こそこの世で最も劣っているという自覚もある。自分のことを棚に上げて、彼らだけを非難出来ない。
実際、私の容姿は、醜男でさえ顔をしかめた。
ここハンシルポは、錬金術の国だ。国民は、ゲームのアバターをカスタムするようにして、自身の容姿や装いを自在に選べる。更に上流階級ともなると、出産を控えた時点で母親は、赤ん坊が理想通りの姿かたちに生まれてくるよう準備する。結果、国民の外見レベルは、他国に比べて並外れている。
そうした中、私の容姿は悪目立ちする。
性的サービスで生計を立てる女達の中でも特に人気で、国王の愛妾にまで出世した祖母と違って、特徴もない顔立ちに、低身長、たるんだ肉体、艶のない髪、極めつけは野暮ったい衣装。それが私だ。
美少女か、美青年か、醜男か。
後者になるほどシャワールームにいる人物と考えられる。
とすれば、今いる部屋から逃げ出すべきだ。優れた容姿がいくら金で手に入るとしても、商売柄、ブスだの大金をはたく価値がないだのという口撃に、私は免疫がない。それらの批判は、私という存在を否定された気分になる。
帰り支度を始めて、頭から抜け落ちていた事柄も、ようやく思い出せてきた。
いつも着替えや荷物を仕舞っている定位置や、部屋の間取り、宿をチェックアウトする時の手順……。
ただし、金の保管場所に手を伸ばした私は、再び思考が停止した。
「何これ……」
繰り返すが、私は美しくない。つまりプライドの高いデリヘル嬢を呼べないような客を相手に、その日その日の食費を稼げていれば御の字だった。家さえあれば花屋にでも雇われただろうが、現住所もない。はっきり言って、私がこの商売をしているのは、屋根のある部屋で寝るには男の金に頼る他にないからだ。
だのに、今、私は見たこともない大金を目前にしている。
金庫は暗証番号付きで、客は誤っても開けない以上、私は無意識に盗みでもしたのか?
この予想外の展開が、私を逃げ遅れさせた。
「サエさん」
浴室から出てきた男の美声に耳がざわつく。
振り向くと、ハンシルポ陸軍制服に身を包んだ青年が、聖人のような顔を見せていた。
* * * * * *
胸まであるシルバーグレーの髪を一つに結った青年は、腹を抱えんばかりに笑った。その姿でよくデリバリーヘルスなどしようと思いついたものだ、まさかそのまま外に出るつもりではあるまい、お陰で自分は珍獣と一夜を過ごすより貴重な体験をした──…彼、もといレイモンと名乗った青年は、おおむねそうした暴言を私にぶつけた。
美しい顔が、口汚さまで相殺している。
仮に私の記憶の一片にいる醜男なら、自身を棚に上げたとして私も彼を罵って、枕の一つも投げただろうが、彼相手だとそうはいかない。もとよりその容姿にいくら金がかかったのかと考えれば、貴重な芸術品を粗末に扱えないのと同じ感覚になる。
ただし、私もお人好しではない。
「その珍獣より酷い女に、あなたはみっともなく性欲をぶつけて、こんなお金をはたいたのよね?」
私はレイモンから金庫の中身が見えるよう、立ち位置をずらす。
十七歳から男に身体を売るようになって、十一年……この間の収入の、半分に届く金額だ。貴族の施しにしても、冗談が過ぎている。彼らは贅沢や投資の金は惜しまないというが、私達のような身分の人間には、手を差し伸べる価値もないと考えていると聞く。
だとすれば、私の提供したサービスが、彼のどこかに響いたと考えるのが妥当だ。
私の肩越しに、レイモンはしばらくまとまった金を見つめていた。それから彼が、何か思い出した様子を見せて、ああ、と唸った。
「それな。あったあった、そんなこともあったなぁ、ところでさぁ。…………」
本物のサエさんは、どこに行ったの?
レイモンから不可解な言葉が飛び出した時、急に外が騒がしくなった。
人々の悲鳴、ガラガラと何かが崩れる音、邪悪な気配。…………
私以上に狐につままれた顔を見せていたレイモンが、窓に飛びつくようにして階下を見た。