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第30話 鬼伝説

 山深い里に、代々受け継がれる恐ろしい伝説があった。「鬼伝説」と村人たちは呼んでいた。その昔、この地を未曾有の飢饉が襲った。人々は食料を求め、山野を彷徨い、やがては人食いへと堕ちていったという。しかし、村人たちの恐怖は、人食いだけではなかった。


飢えに狂った人々の間で囁かれ始めたのは、山から降りてくるという「鬼」の存在だった。それは、人ではない、何か恐ろしいもの。鋭い爪と牙を持ち、人間の血肉を貪り尽くすという、想像を絶する怪物だった。飢饉は、人々の心を蝕み、やがては鬼の伝説を生み出したのかもしれない。あるいは、鬼こそが飢饉をもたらした張本人なのかもしれない。その真偽は、もはや誰にも分からなかった。


鬼の襲来は、必ず夜に行われた。深い闇に紛れて、村の周辺に忍び寄り、人々の安眠を襲う。鋭い悲鳴が夜空に響き渡り、朝には、血痕と、残された衣服だけが、鬼の襲来を物語っていた。


村人たちは、恐怖に怯えながら、必死に生き延びようとした。しかし、鬼の力は圧倒的で、村人たちの抵抗は、まるで無力だった。やがて、村には、鬼の恐怖を避けるための風習が生まれた。それが、節分の「柊鰯」である。


柊鰯は、ひいらぎの枝と焼いたいわしを玄関に飾る風習だ。江戸時代から続くこの風習は、鬼の弱点を利用した、村人たちの知恵の結晶だった。鰯を焼く際に立ち上る煙と、その独特の匂い、そして柊の鋭い棘。これらが、鬼を遠ざける力を持つと信じられていた。


しかし、この風習は、単なる迷信や、恐怖からの逃避ではなかった。それは、鬼という存在を、村人たちが共有する恐怖として受け止め、その恐怖と共存するための、知恵と信仰の象徴でもあった。


 現代においても、この里では、節分に柊鰯を飾る風習は、脈々と受け継がれている。都会では、その風習は、ほとんど忘れ去られているかもしれない。しかし、この山深い里では、人々は、今もなお、鬼の伝説を語り継ぎ、その恐怖を忘れないようにしている。


ある晩、私は、この里を訪れた。節分の日だった。村人たちは、夕暮れ時から、鰯を焼き始めた。鰯の独特の匂いが、風に乗って、里全体に広がっていく。その匂いは、どこか懐かしいようで、同時に、不気味さを感じさせた。


夜になり、私は、村はずれの古い神社にいた。神社の境内に、無数の柊鰯が飾られていた。その光景は、まるで、鬼の侵入を防ぐための、精巧な罠のようだった。


その時だった。遠くから、何かが近づいてくる足音が聞こえた。それは、人間のものではない、重く、鈍い足音だった。私の心臓は、激しく鼓動し始めた。恐怖が、全身を駆け巡った。


足音は、次第に大きくなり、そして、神社の境内に、巨大な影が映し出された。それは、伝説の鬼だった。


鬼は、私を睨みつけ、鋭い牙を剥き出した。その目は、血に染まり、狂気に満ちていた。私は、恐怖で、身動きが取れなくなった。


しかし、その時、鰯の煙と、柊の棘が、鬼の動きを止めた。鬼は、苦悶の表情を浮かべ、ゆっくりと、闇の中に消えていった。


私は、その場から逃げ出した。そして、二度と、この里には来ないと誓った。しかし、私の心には、鬼伝説、そして、柊鰯の記憶が、深く刻み込まれたままだった。それは、決して消えることのない、恐怖と、畏敬の念だった。


 この里の鬼伝説は、単なる昔話ではない。それは、飢饉という過酷な現実と、人々の恐怖、そして、生き延びるための知恵が、複雑に絡み合った、生きた歴史だった。そして、その歴史は、今もなお、この里に、影を落としていた。

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