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第10話

 片山くんは歌曲か、と、篠原は呟く。

「オペラの作りかたとはちょっと違うなと思ったんだけど、歌詞がわかりやすかったのは納得……」

「俺たち何語でも歌詞命で、摩擦音強めだから」

 嫌味のつもりはなかったが、それを聞いた篠原はごめん、と小さくなった。三喜雄も機会を逃さず、謝る。

「こっちこそいろいろ言ってごめん……確かにこないだ、気合い入れ過ぎてちょっと発音強かったと思う、後で合わせた時のほうが自然だったかな」

「あ、2回目は割と気持ちよかったかも」

 やっぱりそうか。三喜雄は反省する。あの時1回目と同じ調子で歌っていたら、篠原のほうから、あいつとは歌いたくないと言い出したかもしれなかった。

 2人のカップからコーヒーが無くなったのを見計らって、三喜雄は言った。

「練習室空いてたら、ちょっと歌おうか? 動きも、俺たちである程度決めていいと思うから」

 篠原は笑顔で頷いた。やっぱり歌うのが好きなのだなと思う。だいぶ打ち解けてくれたから、今日は乗ってくれるだろうか。一緒に立ち上がり、カップを返却に行った。


 練習室の防音扉を閉め、ピアノの鍵盤蓋を開けた。各々軽くウォーミングアップをして歌い始めると、篠原がもうほとんど暗譜していることがわかった。

 やめるどころか気合いを入れて練習していた様子だが、何にせよ暗譜が早いのは感心だ。三喜雄もなるべく楽譜を外して歌うようにする。芝居は苦手で、やっていていたたまれないと言いつつ、篠原は歌いながら少し手振りをつけ、身軽にくるくると歩き回ってみせた。

「えっと、この時くじらは下手しもてのほうがいい?」

「1回場所チェンジする? 4小節かけて入れ替わるとかどうかな」

 こういう時は、オペラの実技の授業が役に立つ。大嫌いだと口にした篠原だが、必修の授業で学んでいるのだろう、彼の提案する動きはオペラの場当たりの原則……舞台にいる人物が客席から見て縦に並ばないように位置取りしたり、移動の際に後ろ向きで歌うことにならないようにしたりといったことを、きちんと守っていた。

「くじらは身体が大きいし、性格もおとなしいから、あまり動かないほうがいいな……動きはいるかが作ろうか」

 言いながらこちらにやって来る篠原の足許はやけに軽い。只者ではないと感じたので三喜雄が確認してみると、小中学生の頃、ジャズダンスを習っていたという。学部生時代に演技は少し齧ったけれど、ダンスのたしなみがほぼ無い三喜雄は、これは負けるなぁと咄嗟に思う。

「動くの得意なんだな、オペラもいけるじゃん」

「得意じゃないし、生臭い歌は嫌いなんだって」

 篠原が頑なに言うのが、ちょっと子どもっぽくて面白い。高校時代、人生3回目のような落ち着き払った態度をよく見せた高崎とは、そこは全く違った。

 ふと三喜雄は、いつも篠原を後輩と比べている自分が少しおかしいと思った。篠原は高崎に雰囲気が似ているし、高崎が今どうしているのかは、今でも気になっている。しかしたぶんこの華奢なテノールは、後輩が無欲でどこか達観していたのとは全く違う。好き嫌いがはっきりしていて躊躇わずにそれを口にするし、今日は最後まで大まかな動きを三喜雄と決めるのだという強い意志が伝わってきた。

 曲調が変わる場面に入った。くじらが恋する相手について語る箇所で、三喜雄が先導する掛け合いになる。

「『あのひとと散歩すると、あぶなくないかどうか』」

 いるかの篠原が楽しそうに追いかけてくる。三喜雄は顔の前に手をかざし、上半身を前に傾けた。

「『いつも遠くを、みはっているのさ』」

 そこを歌った時、三喜雄の胸の深いところがいきなりきしんだように感じた。突然のことに、集中力がぷつんと途切れる。

 待って、これ何だ?

 聴覚から音が消え、代わりに脳内に忍び込んできたのは、昔何度となく繰り返した後悔だった。

 どうしてあの時、高崎が危ないかもしれないと予感したのに、ちゃんと見ておいてやらなかったんだろう。俺があの時すぐに美術室に行ってさえいれば、あんなことにはならなかった――。

 次の音楽で三喜雄が入ってこないので、篠原も歌を止める。

「どうした? 大丈夫か?」

 覗きこんできた目は長い睫毛に縁取られ、心配そうな色を湛えていた。高崎もこんな目で、そう訊いてきたことがあった。

 ――片山先輩、大丈夫ですか?

 今どうして、昔のことがフラッシュバックするのか。軽く心臓がどきどきしている。

 こんな風に歌が切れてしまうのは初めてで、三喜雄は動揺した。しかし篠原に向かって、無理に笑いを作った。

「……ごめん、ちょっと気が散った」


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