「『おいわいに、きてください』」
その時、舞台の前方に3歩進んだ篠原の声と動きが止まった。牧野が鍵盤から顔を上げて彼を見る。彼女は弾き続けたが、篠原が歌わなくなり、辻井の表情が変わったので、手を止めた。三喜雄もぎくりとして、思わず舞台に駆け寄る。
「どうしたんだ、……あっ」
三喜雄が覗きこんだ瞬間、篠原の目からぽろぽろと、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「大丈夫か、どこか痛むのか」
三喜雄が訊くと篠原は首を横に振ったが、彼が倒れてしまうのではないかと思い、三喜雄は自分よりも細い肩を咄嗟に掴んだ。
いつも白い頬を赤くして泣きじゃくる篠原が、もりやま、と人の名のような言葉を口にした。
「ごめん、ごめん……」
意味不明な謝罪に、三喜雄は篠原の様子が普通でないと察する。牧野がピアノから離れてこちらにやってきて、三喜雄と篠原を順に見た。
「休憩しましょう……辻井先生、一旦休みます」
「わかった、片山くん、こっちに来て座りなさい」
辻井が立ち上がり、用意してくれていた椅子に招く。三喜雄はふらふら歩く篠原を連れて、そちらに向かった。篠原は導かれるままパイプ椅子に腰を下ろしたが、隣に座った三喜雄は気が気でなかった。
今日は合流してから、やや篠原の口数が少なかった。しかし調子が悪いとはひと言も口にしなかったので、本番の会場に来て少し緊張しているのだろうと思っていた。三喜雄自身もそうだったから……違ったのだろうか。
泣き止まない篠原をしばらく黙って見つめていた辻井は、三喜雄に困惑の表情を向ける。篠原の身に何が起きたのか全くわからない三喜雄は、ありのままを小さく述べる。
「急に泣き始めて、もりやま、って口にして……そのあと謝ってたみたいです」
人の名のような言葉を三喜雄が口にした時、辻井の眼鏡の奥の目が驚いたように見開かれた。同時に牧野も、眉根を寄せる。
「……一昨年亡くなった篠原くんの同級生だ」
辻井の低い声に、三喜雄の心臓が跳ねた。
何だって。
篠原とのメッセージのやり取りは増えていたが、同級生を最近亡くしているなんて、彼はちらりと匂わせさえしなかった。きっかけが無ければそんな話はしないかもしれないが、それにしても。
牧野は息をついて、辻井に言う。
「先生、先に施設長と職員さんたちと打ち合わせしましょう、しばらく篠原くんは歌えないです」
「わかった、行こう……片山くん、篠原くんを頼んでもいいかな」
辻井に訊かれて、困りますとも言えず、三喜雄はわかりましたと応じる。ばくばくする心臓を持て余しながら、出て行く2人をその場で見送った。
三喜雄はピアノの傍に置いていた、自分と篠原の鞄を取りに行った。パイプ椅子に鞄を置いてハンカチを出し、篠原に手渡す。それを手に取った彼は、少し落ち着いたようだった。
「飲み物買ってくるよ」
三喜雄は篠原に声をかけて、鞄から財布を出した。部屋の外に出ると、ちょうど男性職員が通りかかったので、自動販売機の場所を尋ねる。彼は三喜雄を食堂に連れて行ってくれた。
篠原がいなくなるなどしたら大変なので、急ぎ足でイベントホールに戻った。彼がハンカチを手にして、しゃんと座っているのを見た三喜雄は、ちょっとほっとした。元々華奢な篠原は、何となく儚い風情を醸し出している。
篠原は三喜雄の差し出した、温かいコーヒーの缶を受け取り、ありがとう、と小さく言う。
「この歌をいつか一緒歌いたいなって話し合った、同いのバリトンがいてさ」
篠原は話しながら、缶コーヒーのタブを起こした。彼の隣でそれに倣いつつ、三喜雄は早まる鼓動を宥めていた。そのバリトンが、一昨年見送った同級生なのだろうか。
「そいつ……森山っていったんだけど、帰り道が一緒だったりして、声楽科の中ではたぶん一番よく話したと思う……古い歌を本格的に勉強したいって、初めて言った相手だった」
人づきあいがあまり得意でない篠原の、数少ない心許せる仲間だったということらしい。既に三喜雄は、この先の話を聞きたくなくなっていた。しかし行きがかり上、そういう訳にもいかないようだ。辛い時間になりそうだった。
「3回生の時の文化祭の企画で、一緒に有名どころの日本歌曲を何曲か歌ったんだ」
篠原は目を伏せたまま、ぽつぽつと話した。その時かなり歌いこんだので、今も彼の日本語がきれいなのだろうと三喜雄は考えた。
「歌の練習は、夏休みが終わる前から始めて……森山は後期授業が始まってすぐの頃から、時々頭が痛いって言ってたんだけど、すぐに治るみたいで、俺も深刻に受け止めてなかった」
篠原は言葉を切る。三喜雄が黙って聞いていると、彼はコーヒーをひと口飲み、溜め息をついた。
「文化祭の練習で俺が無理させたから……本番が終わって1週間後に……」
森山が朝起きてこないので、母親が部屋に行くと、布団の中で冷たくなっていたのだという。検死の結果、森山の脳内に出血が見つかった。