早朝。
チャイム音が鳴ったので、忍び足で訪問者の姿を確認する。丸窓を覗いた先にいたのは彼女――カノンだった。
どうしてここにいるのか、そんなことはどうでもいい。彼女が自らの意思で俺の許を訪ねたことが重要なのだ。
丸窓から目を離し、呼吸を落ち着かせる。
渇いた舌に唾を出して強引に飲み込むが、すぐにまた渇いてしまう。理由は明白だ。これから起こるであろう出来事に対し、内心緊張しているのだ。
だが、後戻りはできないし、勿論するつもりもない。昨夜の時点で薄々気付いていたのだから、心の準備はできているはずだ。
「……またお前か」
「また、って。来ちゃ悪い?」
ドアを開けて声をかけると、少し不貞腐れた表情の彼女が言葉を返す。いちいち可愛いのが癪に障るが、それも含めて彼女の良さなのだろう。
「入っても……いい?」
言うか否か躊躇いを見せつつも、彼女は訊ねた。
そして一瞬だけ俺の顔を見た後、視線は足下へと落とす。目を合わせるのが恥ずかしいのかもしれない。
そんな彼女の仕草と問いかけに、俺は溜息を一つ。
拒絶はしない。できるわけがない。
「……入れ」
「うん。ありがと」
一言目とは裏腹に、拒むこと無く迎え入れる。
何故なら彼女は今話題の女子〇生探索者だからだ。
今この瞬間を他の誰かに見られているとすれば?
それは間違いなく、彼女のファンやストーカー、記者の連中に違いない。
だとすれば、悠長に押し問答を続けるのは愚策でしかないだろう。
玄関のドアを閉める際も、外の様子を確認する。
視線は一つ、彼女のもの以外には感じない。どうやら後を付けられてはいないようだ。
「貴方の部屋に入るのも、これで二度目ね」
「前回は強引に入ってきたんだよな」
「それは言わないでよ……」
照れくさそうに呟き、けれども怒ることなくついてくる。
「こっちだ」
廊下兼キッチンを通って狭い部屋へと招き入れる。散らかったままだが構うまい。今更取り繕ったところで、全てを見られているのだから恥ずかしがる必要もない。
「何か飲むか」
「ううん、いらない」
「じゃあ……」
言葉を続ける前に、背中越しに抱き着かれた。
両腕を回されて、逃げることを許さないと言わんばかりにギュッときつく抱き締めてくるではないか。
「何をしてるんだ」
「なに……って、わかるでしょ?」
少し低い位置から、耳元に吐息と彼女の声が掛かる。
と同時に、俺の背に彼女の胸が当たった。
最初から、そのつもりだったのだろう。覚悟を決めてチャイムを鳴らしたのだ。
だが恐らく、相当な勇気を振り絞って俺を誘っている。その証拠に、腰に回された両手は僅かに震えていた。
「……やめとけ」
だからまた、溜息を一つ。
「カノン、お前にはまだ早い」
「早くなんかない……だってあたし、今年で十八になるのよ?」
つまり今、彼女は十七歳。
手を出したら間違いなく、俺は警察のお世話になる。己の欲とこの先の人生を天秤に掛けるようなことはしたくない。
「気持ちは嬉しいが、俺は捕まりたくないんでな」
「大丈夫よ。あたしが黙っておけば誰にもバレないし、だから……」
彼女の手を解く。
そして振り返り、目を合わせた。
「どうしてよ……あたしじゃ、ダメなの?」
彼女は泣いている。懇願するように問い訊ね、俺の胸に顔を埋める。
俺が知らないうちに、彼女はこんなにも思いつめていたのか。
しかし、それでも俺は手を出すわけにはいかない。
彼女を……カノンのことが、既に何よりも大切な存在になってしまっているから。
※
「……あのさ、これなに?」
「何って……ネームですけど?」
「うん。だよね。ところでこれさ、何のネーム?」
「次の読み切りのネームですけど?」
「うん。ってことはつまり、十八禁のはずだよね?」
「はい、勿論そうですよ」
「じゃあ質問なんだけど、なんでエロシーン入ってないのかな?」
「……ですね」
「ですねじゃないんだよ、茶川くん!」
携帯越しに、怒りの声が響く。
俺は思わず耳を離した。
「いいかい、茶川くん? うちの雑誌が求めてるのは直接的なエロだって何度も言ってるよね? なのになんでエロシーンが入ってないのかな!? これじゃただの青年漫画だよね!」
「いやー、描いてる途中で自分でも思ったんですけどね。あれ、これエロシーン入れたらページ数超えちゃうなって。ははは」
「ははは、じゃないから! 入れてよ、エロシーン! 挿れてよ、×××を! 何の為のエロ漫画だと思ってんの! うちの雑誌に載せたいならちゃんと△△△△しないと!」
携帯越しとはいえ、恥ずかしげもなく×××とか△△△△とか、よく言えるよな。さすがはエロ漫画の編集さんだ。俺も全力で見習いたいね。
「……分かりました。じゃあまた一から描き直してみます」
「ああいや、描き直すのは勿論だけど! 全部ボツってわけじゃないから、そこは気を付けて!」
「え、全部じゃないんですか?」
いつものように……というと、何だかとても悲しい気分になるが、例の如く全ボツを食らったと思い込んでいた。だが、今回は違うらしい。
「うん。いや、まずさ、先週出してもらったプロットと雰囲気が全く違うでしょ? 女の子の見た目と口調もいつもの茶川くんのキャラクターとは全然違うし、どうして?」
「どうしてと言われましても……そんなに違いますかね」
「違う違う、全くの別物だよ! いつもはほら、お姉さん系と○○○するよね? それが急にJKになってるし! ……あ、ひょっとしてだけど、彼女さんとの交際に何か変化でもあった?」
「いねえよ!」
おっと危ない、思わず心の声が表に出そうになったけどギリギリセーフ。
……じゃないな。
「ちゃ、茶川くん? えーっと、大丈夫?」
「いやあの、すみません。まあ、変化というか……モデルになってもらった人がいるんですけど、その結果……一悶着ありまして」
「モデル!? しかも一悶着!! いいねいいね、それが茶川くんの作風に変化をもたらしたんだね! 相変わらず導入が長くてエロ漫画向きじゃないのが欠点だけど、前回指摘したことをちゃんと実践してるし、いい傾向なんじゃないかな! 彼女さん……じゃなかったね、ええと、よく分からないけど、誰かをモデルにするとリアル感が増すし、この手のキャラだと需要があるよ! 名前は……カノンだっけ? この子が△△△△に×××を突っ込まれる絵が早くみたいね!」
興奮気味に捲し立てられる。話の筋はともかく、キャラクター自体は褒められているようだ。
しかしながら、ついさっきも思ったことだが、よくもまあ大きな声で×××とか○○○とか口にできるな。同僚に引かれないのだろうか。……いや、同僚も同類だったな。そして勿論、俺も同類でお仲間です。
「でもさ、まだ描きなれてない感が出てるよね? 彼女さん……ああじゃなくて、もっとこの女の子を描いて描いて描きまくってさ、体の隅々まで、それこそホクロの数まで共有できるようにならないとダメかな。つまり、モデルになってくれてる人と○○○できるならヤっちゃって、経験値を貯めること、いいね?」
モデルの子を相手に経験値を貯めようものなら即御用だよ。
「よし! それじゃあネームを描き直したらもう一回送って! 楽しみにしてるよ!」
それだけ言い残し、打ち合わせは終了となった。
正直な感想を言うなら、好感触だったと思う。但し、問題が一つ浮上する結果にも繋がった。モデルの子と、もっと関係を深めて経験値を貯める必要が出たということだ。
モデルの子――御剣楓音。
現役の女子高生で、探索者ランク十一位の上位ランカーだ。
昨日、モデルを頼んだらぶっ飛ばされたから、もう一度頼むなんてことはできそうにない。
ではどうする?
どうすれば彼女をモデルにすることができる?
無論、答えは一つのみ。
「……無理だな」
うん、諦めよう。
未成年の女の子を部屋に連れ込んでエロいポーズさせようとしたんだ。あいつも言っていたが、捕まらなかっただけでも御の字、儲けもんだ。
モデルは無理だが、少しとはいえ言葉を交わしたし殴られ……肌も触れ合ったし、あとは持ち前の妄想力で補うことができるだろう。
しかしそれだけではまだ足りない。
高みを目指すには、あと一歩前に進む必要がある。
「お宝探しの時間だな」
よし、決めた。
インスピレーションを得る為にも、足を動かすべきだ。お宝もといエロ漫画の資料を探しに出掛けようじゃないか。
目的地は中野ブロードウェイでいいだろう。最近忙しくて行くことができなかったからちょうどいい。この調子なら、次のネームでGOサインが出そうだし、前祝いがてらブロードウェイを散策しよう。
そうと決まればダラダラしている暇はない。時間は無限じゃなく有限だ。
俺は手早く身支度を済ませて靴を履き、玄関を出る。
今日は一軒一軒じっくりと舐め回すように見て回るぞ。
「待ってろよ、まだ見ぬお宝達よ……!」