トネリーはこの街随一の大商人である。
彼が現在の地位を築いたのは、並外れた商才……いや、嗅覚と呼ぶべきものによるものだった。常に目新しく、価値あるものを見極め、しかるべき時期に、しかるべき相手へと卸す。その繰り返しによって、彼は巨万の富を得て成り上がっていったのである。
その商域は広大で、彼自身が個人の商会を構えるほどにまで成長していた。だが当然、規模が拡大するにつれ、人材の不足という問題が顕在化していった。「ならば人材を募集すればよい」と、話はそう単純ではない。
商会とは、信用と信頼を基盤に金銭を扱う場である。どこの馬の骨とも知れぬ者を迎え入れるのは致命的なリスクを孕む。素性が不明な者は論外、素性が判明していても出自に瑕疵がある者、そして何より商才のない者などは門前払いが当然だった。
この厳格な選別は末端の人材に限らず、幹部にも同様に適用された。むしろ、末端の人手不足以上に、幹部層の能力不足は深刻な問題であった。商会の中枢を担う者が凡庸であれば、いかに優れた商材を扱おうとも、組織は鈍重になりやがて腐敗する。トネリーはそれを誰よりも理解していた。
そこで、トネリーが目をつけたのが息子のポポリーであった。
ポポリーは、ようやく成人を迎える年頃。もともと後継者として育ててはいたが、これまでは商談の前線に立たせることはせず、もっぱら事務方の仕事を任せていた。だが、今後を見据え、トネリーは徐々に現場での業務を増やし、着実に知識と経験を積ませる算段を立てていた。
それは、単なる親心ではない。商会の未来を託すに足る人材として、ポポリーを育てるという明確な意志の表れだった。
そして、今。
トネリーは、極めて重要な大口案件を、ポポリーに任せようとしていた。それは、商会の信用を左右するほどの取引であり、ポポリーにとっても初めての大舞台であった。
しかし、ポポリーは気の弱い青年であり、案件の重圧に押し負けそうになっていた。それは、経験不足からくる不安であることをトネリーは理解していた。だが、未来の後継者がこの程度の気弱さでは、商会の命運を託すには心許ない。
何か打開策はないものか……。そう思案していたトネリーの脳裏に、ある場所が浮かんだ。
バー『
あそこのマスターならば、きっと息子に発破を掛けてくれるに違いない。ついでに、成人したのだから酒のひとつも覚えておかねば、後々の商談で支障が出る。まさに一石二鳥の妙案と、トネリーは思った。
だが、押し付けられる側にしてみれば、迷惑この上ない話である。
そんな人々の心情など露知らず、トネリーはポポリーを連れて、重厚なバーの扉を潜ったのであった。
◇
「……というわけだ、マスター。息子にうまい酒を飲ませてやってくれ!」
軽く状況を説明したトネリーは、その大柄な体を豪快に揺らしながら『がはは』と笑った。その隣には、申し訳なさそうに身を縮める、線の細い青年がちょこんと座っている。トネリーの息子ポポリーである。親子とはいえ、似ても似つかない。
「大きな商談の前の景気付け……ですか」
バーテンダーはグラスを磨きながら静かに言った。
「カクテルに意味を求め、験を担ぐお客様も多くいらっしゃいます。悪くはありませんが……」
その言葉の余韻を残したまま、バーテンダーはちらりとポポリーの方へ視線を向けた。そして、にこりと微笑んだ。
「ポポリー様は、普段どのようなお酒を召し上がりますか? 味の好みなどございましたら、ぜひお聞かせくださいませ」
初見の、ましてや、言葉を交わすのも初めての客にはまず好みを尋ねる。それが、バーテンダーとしての基本的な礼儀であり心得でもある。
滅多にあることではないが、アレルギーや体質によって飲めない酒がある場合もある。また、苦手な味や香りがあれば、せっかくのカクテルも楽しめない。だからこそ、最初の一杯は対話から始まる。それは、グラスの向こうにいる人を知るための、ささやかな儀式なのだ。
「す、すみません……。実は……あまりお酒が好きではないのです。
ポポリーは申し訳なさそうに言葉を選びながら正直に打ち明けた。
「なんと、ポポリー! お前は酒が嫌いだったのか! いかん! それはいかんぞ!」
トネリーはさも今初めて知ったかのように、少々芝居がかった口調で声を上げた。
「接待、歓待、商談のすべては、酒の席から始まるのだ。戦いは、交渉の前からすでに始まっておる。それなのに酒が飲めぬとは、相手に対して失礼というものだ!」
だが、そんなことは百も承知の演技である。父親が息子の酒の好みを知らないはずがない。
バーテンダーは察した。これは、商談の景気付けなどではない。トネリーは、酒を飲めるようにしてくれと頼んでいるのだ。ああ、また面倒な頼み事だ……。バーテンダーは、誰にも気づかれぬように、小さくため息を吐いた。
「……でしたら、まずはアルコール度数の低い、甘口のお酒から始めるのがよろしいかもしれませんね。当店でお召し上がりいただく分には差し障りはございませんが……。他店をご利用なさることもあるとなれば、
そう言って、バーテンダーは一瞬だけ考える素振りを見せた。そして、何かを思いついたように冷蔵庫へ向かい、一本の瓶を取り出した。それは、黄金色に輝く液体の入った瓶だった。
「こちらは、
バーテンダーは冷えた
「お待たせ致しました。『シャンディ・ガフ』でございます。
差し出されたグラスに入っていたのは、一見するとただの
ポポリーはグラスを受け取り、静かにゆっくりと口をつけた。
口内に炭酸の弾ける感覚が広がる。そして彼が苦手としていた、あの独特なホップの苦味……それが、なかった。代わりに感じたのは、スパイシーな風味と柔らかな甘味。その甘味が、苦味を中和し、なおかつそれを凌駕していた。喉を通る頃には、微かに生姜の香りが余韻として残る。それは、もはや酒とは思えないほどに穏やかで、アルコールの存在をほとんど感じさせない、不思議な飲み物だった。
「これは……?
ポポリーは、驚きと戸惑いを混ぜた声で尋ねた。
「ええ、もちろん
そう言って差し出されたのは、またしても黄金色のグラスだった。先ほどのものと比べれば、わずかに色合いが濃いようにも見えるが、見た目だけではさほど違いは感じられない。
ポポリーは再び、グラスを口に運んだ。
今度の一杯は刺激的だった。
「こっちは刺激的ですね……。これは一体?」
ポポリーは、驚きと興味を込めて尋ねた。バーテンダーはにこりと微笑み返した。そして、静かにポポリーに告げた。
「最初にお召し上がり頂いた『シャンディ・ガフ』と同じく、こちらも『シャンディ・ガフ』でございます。ただし、こちらは原初のレシピでお作りしたもの。
「ええ、確かに……こちらの方が、
ポポリーは、驚きと喜びを込めて答えた。
「はい。最初は甘口の『シャンディ・ガフ』で慣れていただき、次に生姜の風味が強い『シャンディ・ガフ』へ。そして最後に、
その言葉を隣で聞いていたトネリーは、またも『がはは』と大きな体を揺らして笑い出した。
「結構、結構!
「えっ、毎日ですか父さん! さすがに、それは……」
そんな親子のやり取りに耳を傾けながら、マスターは静かに、布巾でグラスを磨き続けていた。
人間誰しも苦手なものはあるものです。無理に克服する必要はありませんが、もしそれがお酒ならば一度バーテンダーに相談してみませんか? きっとよい処方箋を出してくれることでしょう。
ここは異世界のバー『
◇
『シャンディ・ガフ』
ビール 1/2glass
ジンジャー・エール 1/2glass
冷やしたピルスナー・グラスに冷やしたビールを注ぐ。
ビールの泡を崩さないよう冷やしたジンジャー・エールで満たす。
軽くステアする。
ナツメ社 「カクテル完全バイブル」より抜粋