今の時間は、22時30分。
アパートの部屋の照明は、いつもと同じ明るさなのに、なぜか今日は薄暗く感じた。
私の心に重くのしかかる不安が、光まで吸い込んでしまっているみたいだった。
最終審査のタイムリミットまで、早くも24時間を切ってしまった。
その間、何もしていなかったわけじゃない。
昼間は、菜々子と喧嘩してしまったファミレス、3人でよく寄った楽器屋や特撮フィギュア専門店とか、他にもあの子が行きそうな所をあちこち回ったけど、結局会えなかった。
一緒に付き合ってくれたミラは、疲れたのかロフトに敷いた布団で寝息を立ててる。
カン・テイシーは、スリープモード(自称)中で、玄関で座禅を組んだままイビキをかいてた。
私はというと、リビングの窓際に座り込んで、スマホを握りしめていた。
開いているのは、菜々子とのトーク画面。
既読は付くけど何の返信もないまま、何日も経っている。
気づけば、指が自然と写真フォルダを開いていた。
その中にある1枚のプリクラ画像。
まだバンドを結成して間もない頃の練習帰りに撮ったものだった。
菜々子がセンターで、ニッコニッコ顔してて、その両隣で私と皇が、作り笑顔で変なポーズをしてる。
『ほーら、来夢ちゃんも皇ちゃんも観念してこっち来るの!今日は絶対に3人でプリクラ撮るんだからね!文句は受け付けませーん!』
そう言った菜々子の強引な腕に引きずられて、私と皇はゲーセンのプリクラ機に放り込まれたんだっけ。
狭いブースの中で、変なポーズを取らされて、訳の分からないスタンプを大量に押されてさ。
『もう、来夢ちゃんったら全然笑ってないじゃん! はーい、スマイル!スマーイル!』
そう言いながら、私の頬に指をグッと押しつけてきた菜々子の顔。
あの時の笑顔が、スマホの画面の中にある。
少しだけ垂れた目尻。あの子特有の、ちょっと天然そうな口元。
無理して笑ってた私の隣で、あんなに楽しそうに笑ってた菜々子。
本当はね?私も楽しかったんだよ!?
だって、私にとっては、2人とも同じ特撮ヒーローの音楽が好きな初めての友達だったから!
その友達と一緒に撮るプリクラが楽しくないわけないじゃん!
でも、あの時の私は何か恥ずかしくて、楽しかったくせに、楽しそうじゃないフリをしてた。
ポロポロと、涙が頬を伝って落ちていった。
「バカ!私、バカすぎ……」
その時、フワリと風が吹いたような気がして、部屋の空気が静かに変わった。
「ラーイムちゃん、泣かないで」
窓のカーテンの隙間から、ナツミがスッと現れる。
いつものふざけた調子は影を潜め、黒髪がゆっくりと揺れる中で、その表情は、いつになく穏やかで優しかった。
「全部見てたよ。あの小さい女の子や、ヤクザみたいなハゲの事は後で聞くとしてさ。菜々子ちゃんの事、Meが助けてあげよっか?幽霊なMeは、どこでも行けるから人探すの得意なの。だから、どこにいるか見つけてきてあげる」
そう言って、ナツミは手を差し出してくる。
その手は、幽霊とは思えないほど温かみを帯びているように見えた。
でも、私はナツミの手を取らなかった。
このままナツミに頼ってしまえば、楽なのかもしれない。それじゃ、きっと同じ事を繰り返す。今回ばかりは甘えちゃダメなんだ。
「ありがとうナツミ。でも、これは私の問題」
「え?」
ナツミの瞳が、わずかに揺れる。
「自分のした事は、自分で向き合って解決しなきゃ、きっと意味がないと思うの。誰かに頼っちゃいけないって意味じゃない。でも、この気持ちだけは、自分の手と足で伝えに行きたいんだ」
しばらく沈黙があった。
そして、ナツミの表情が、ふっと柔らかくほどける。
「うん、わかった。じゃあ、Meは見守るだけにするよ。ラーイムちゃんは強いな。ますます大好きになっちゃった」
その声は、これまで聞いたどんなルー語でもない、ただの‶言葉〟だった。
ふざけもなく、混じり気もない。まっすぐな優しい声。
私は驚いて、そっと目を見開いた。
「あれ?そういえば今回はルー語で話さないんだ?」
ナツミは少し照れくさそうに笑って、肩をすくめた。
「だって、今はふざけちゃいけないって思ったからさ。ラーイムちゃん、悲しそうだったから。長年ルー語で話してたから、普通の喋り方すんの結構大変なんだよ?気を抜くとルー語が出ちゃいそうだし。でも、Meって言い方だけは直せないかな?今度会う時は、いつも通り話させてもらうからね。アハハ!」
ナツミの気遣いが伝わった瞬間、心の奥がポカポカと温かくなってきていく気がした。
「ありがとうナツミ。何か救われた。さすが、私の守護霊ね」
私の言葉を聞いたナツミは、まるでお姉さんみたいに微笑んだ。
「まあね。頑張れ
そう言ったナツミは、ふわりと宙に浮き、スッと消えていく。
まるで、夜空へ帰っていく天使みたいな静かで優しい消え方だった。
〝負けんじゃないわよ!〟その最後の言葉が、私の耳に力強く残った。
ナツミの言う通りじゃない!何メソメソしてんだよ私!私は…私は自分の涙なんかに負けちゃいけないんだ!
そう決意した私は、涙を指でぬぐって、もう一度スマホの画面を見つめる。
画面の中の菜々子が、まるで遠くにいるように思えた。
でも、必ず伝えなきゃいけない。自分の想いを音に込めて。
あの子の本物の笑顔を、もう一度見るために。
……その時、突然頭の中に浮かんできたのは、私たちが初めてバンド練習をしたサウンドスタジオ『バーニング・ビースト』だった。
古くて狭いスタジオだけど、妙に落ち着く場所。
皇に無理やり誘われて入ったのに、最終的には3人で大笑いして、菜々子が『ここ、落ち着くかも』って言ったんだ。
私は、意を決してLINEのメッセージ欄を開き書き込む。
『何度もごめん。明日の13時。サウンドスタジオ『バーニング・ビースト』で待ってる。謝りたいから!来るまで待っているから!!』
深呼吸して、送信。
送ったあと、すぐに後悔が押し寄せてくる。
ああ~!重すぎたか?うわ~既読も付かないままだったらどうしよう!?
胸の辺りがモヤモヤして、もうスマホを投げたくなる。
その時だった。
‶既読〟
そして、すぐに返信が来た。
『ナナが行くと思う?』
「え?」
思わず声が漏れた。
たった一行の、ぶっきらぼうな返事。
でも、返ってきた。
「菜々子から返事が来た!!」
喧嘩してから、初めての返信。たとえ内容が冷たくても、嬉しかった。
まだ〝終わってない〟って思えるだけで涙が出そうだったけど、必死に我慢した。
「ライ様。こんな遅くに何をしとるんじゃ?誰かと話してなかったか?」
眠そうに目をこすりながら、パジャマ姿のミラが小さな足音を立ててロフトから降りてくる。
「え?まあ、ちょっと、色々あってね」
私はスマホを胸元に引き寄せながら、少しだけ笑った。
「それよりも聞いてミラ!菜々子から、久しぶりに返事が来たの。素っ気ない内容だったけど」
「ほほぅ。それは、よかったのだ」
ミラは欠伸をしながら、私の隣にちょこんと座り、菜々子の返信が映し出されたスマホ画面をのぞき込んだ。
「ひょっとして、ナナ様は冷たく返信しつつ、本当は心のどこかでライ様と話をしたがっていると思うのだ」
「そうだったら、いいんだけどね……」
「きっと、そうなのだ」
ポツリと呟いたその言葉を、ミラは静かに受け取ってくれた。
そして、小さな手で私の頬をツンとつつく。
「ライ様。きっと、明日は良き日になるぞ。なんてったって、未来のミラは全部見てきておるからな!」
「それホント?」
「ホントホント。ベガ星の「オールマイティ預言書」に書いてあったのじゃ。『この日、ライ様の想いが報われる』って」
「そんなもんあるんだ?」
「うそじゃ」
「こらぁぁぁ!もーう!あはははは!」
私はミラの優しいウソに思わず笑ってしまった。笑えるって、こんなにも胸のつかえが軽くなるものなんだ。
「でも、ありがと!ミラ」
「ふふん!どういたしましてなのじゃ」
ミラは満足そうに胸を張ると、また小さな欠伸をして、私の膝に頭を乗せてきた。
「じゃあ、明日は、頑張るね」
「うむ。ライ様なら、きっと大丈夫じゃ。ふあぁ~あ」
私はスマホを握りしめたまま、窓の外を見る。……ミラは、いつの間にか私の膝で寝ていた。
夜の空は、どこまでも静かで暗かったけれど、不思議と、心の奥には小さな光が灯っていた。
明日は、菜々子と絶対会えますように!!