それは、幸せな夢だった。
朝方。小鳥の鳴き声。すん、と鼻を鳴らすと、食事のかぐわしい匂いが鼻腔をくすぐる。
目を開けると、鼻歌交じりにタクが料理をしている。ぼたんがのそり起き上がると、タクがこちらに気付いて言うのだ。
『起きてきたな~、ぼたん。そろそろ朝飯できるから待っててな』
そんなことを言われて、ぼたんはなんだか嬉しくて、『うん……』とはにかみ混じりに答えるのだ。
それから身だしなみを簡単に整えていると、タクがちゃぶ台に朝食を用意してくれる。
今日は、可愛くておしゃれな、ガレットの朝食だった。鹿肉の燻製と、目玉焼きの乗った奴。
ぼたんは、隔離地域でこんなに洒脱な朝食は初めてで『わぁ』と目を輝かせる。するとタクは、得意げに言うのだ。
『ぼたんが喜ぶかなと思って、ちょっと作ってみたんだ。どうよ、気に入った?』
『うんっ。ありがとう、タク』
『はは、良かった良かった』
二人揃っていただきますをする。朝の陽光に包まれながら、穏やかな朝食をとる。
それから、今日は用事がないから、二人引きこもってぐーたらする。
タクはどこからか調達してきた漫画を読み、ぼたんは死にゲーの続きをする。
『んっ……く、あー……。ダメ、勝てない』
生まれてこの方味わったことのないような敗北感に、ぼたんは脱力する。それに気付いて、タクが『どうかした?』と近寄ってくる。
『このボスが倒せなくて……。おじいちゃん強すぎるよ』
『うわもうラスボスじゃん。でも分かるわ。この剣聖じいちゃん強すぎだよなぁ』
『タク、倒して』
『えー!? ここまで来といて!? おいぼたん、もうちっと頑張れよ。コツ教えてやるからさ』
そんな風に言われて、アドバイスをもらいながら再挑戦をする。
ゲームのことを教えてくれる時のタクは、ゲームに夢中になっているから、距離感が近くて、少しドキドキしながら、ボスに挑む。
『よっ、たぁっ! や、く……』
『ぼたん、いいぞ! リズムだ! 防御のリズムを覚えて、全部捌けば……!』
『うんっ! やっ、たぁ! ほっ、やっ、……とりゃあっ!』
『よし! よしよしよし! ここから一気に攻めだ!』
タクに言われる通りに頑張る。一心同体という感覚が気持ちよくて、勝っても負けても楽しかった。
何でもいいのだ。ゲームも楽しいけれど、それ以上にタクと一緒に何かするのが楽しい。楽しくて、嬉しい。
ぼたんは、タクが好きだ。直接気持ちを伝えることは、度胸がなくて、まだできていないけれど。
それでも、勢いに乗って、プロポーズまがいのことを言ってしまう程度には、ぼたんはタクが好きだった。
幸せだなぁ、と思う。タクとこうして傍にいられる日々が。血と戦闘のない場所で、安穏と彼と過ごせる日常が。
だから。
「ん……」
鉄臭い血の匂いを嗅ぎながらの目覚めは、本当に最悪の気分だった。
「……」
夢の光景が鮮烈で、現実がどちらかを見失う。
だがしばらくすると段々ハッキリしてきて、ぼたんは一筋、涙を流した。
「タク……」
涙を、拭う。
ぼたんが寝ていたのは、アスファルトの地面だった。タクに出会う前までは、寝慣れた寝床。
柔らかいベッドはここにない。……違う。ベッドそのものに、大した価値はないのだ。
ぼたんはどんな寝床だろうと、体を休めることができる。吸血鬼スキルを宿す、この強靭な体が故に。
「……」
嘘だ。ぼたんが自分に、そう言い聞かせているだけ。
ぼたんは、ただ怖いのだ。あの家に戻って、一人で寝るのが。
タクが死んでしまって、どこかで冷たく躯を晒していると、確信してしまうのが怖い。
「っ……!」
想像してしまう。最悪の事態を。
モンスターの胃の中からこぼれ出るタクを。バラバラにアタッシュケースにつめられたタクを。廃人同然になって目の前に立ちふさがるタクを。
ぼたんは、かぶりを振る。
―――山王との激突から数日。
あの巨体と痛み分けをしたぼたんは、ボロボロの姿のまま、近辺をうろついていた。
昨日もずっと、タクを探し回っていた。そしてその末に、倒れるようにここに眠ったのだ。
そんなことを思い出しながら、ぼたんは立ち上がる。
視界一面にあるのは、ぼたんが殺し尽くした、無数のモンスターたちの死骸だ。
この辺りを根城にしていた、無数の高レベルモンスターたち。ぼたんはそれをうまく呼び寄せ、皆殺しにした。
目的は、タクを食べたモンスターを見つけることだった。タクが食べられていれば、この数日間の内ならば、胃の中に何か見つかるはず。
だが、おびただしい死体の山を築いたはいいものの、そのような痕跡は見つからなかった。
それにぼたんは、タクはモンスターに食べられなかったのだ、と安堵して、眠りについたのだった。
「……髪も服も、血でベトベト」
うざったい、と思う。だが、別にいいか、とも。
おしゃれをするのは、タクに可愛いところを見てもらいたいからだ。タクが居ないのならば、その意味はない。
それに、どうせ、この程度で戦闘の支障になることはないのだし。
「タク……どこ……」
半分寝惚けた足取りで、ぼたんはモンスターの死骸を乗り越え、その場から離れる。
思うのは、タクの血の匂いを覚えておけばよかった、ということ。
そうすれば、吸血鬼スキルですぐに見つけられたはずなのに。
「もう、誰かに亡骸を回収されちゃったのかな……」
涙がにじむ。血まみれのボロボロの服で、それを拭う。
ぼたんの涙に価値がないことは、ぼたんは誰よりも理解していた。
「……誰かに、回収されたのなら」
ぼたんは、顔を上げる。
「人がいる、都市部の方を、探そう。隠しているのなら、暴けばいい」
マスタースキル保持者の亡骸だ。莫大な価値がある。つまりは、どう転んでも隠し通せないものとなる。
ならば、暴けるはずだ。ぼたんに、正面から相対できる敵など、ほとんどいないのだから。
そう考えていた折、曲がり角から、モンスターが現れた。
巨大な、イノシシだ。全身に梵字。
神従獣ムリガンタラの同胞、神従獣ヴァラーハンタラ。
ムリガンタラの一つ上、AA級モンスターだ。
狩り残し、とぼたんは思う。あるいは、強烈な血の匂いに引き寄せられてきたのか。
「ヴモォォオオオ……」
イノシシは、ぼたんを見つけるなり地面を掻いた。いつでも突進のできる、臨戦態勢だ。
ぼたんは軽くため息をついてから、手近な武器を探す。
そして、近くの道路標識を掴み抜いた。
「この辺りは、厄介なモンスターが多くて、本当に面倒。―――あなたは、タクを食べてないよね?」
「ヴモォォオオオオオオオ!」
イノシシは、猛烈な勢いで突進してくる。その速度は、ともすれば音速に迫るようなそれ。
だが、たった一匹では、ぼたんの敵ではなかった。
「……食べてないみたい。良かった」
道路標識の看板部分で、突進してくるヴァラーハンタラを、ぼたんは縦に二つに切り裂いた。
きれいに二分割された胃が、倒れたイノシシの中からこぼれ出る。中身は空。人間を長らく食っていないモンスターの特徴だ。
それを、背後をチラと確認するのみで判断し、ぼたんは呟く。
「この辺りのモンスターは、あらかた始末した、はず。それでも見つからないってことは、やっぱり人間に回収された説が濃厚みたい」
道路標識を捨てて、ぼたんは言う。
「……待ってて、タク。すぐに見つけ出してあげるから」
そうしてぼたんは、再び駆けだした。人間には認識できないような高速で―――吸血鬼スキルの力を、十全に発揮して。