日が落ちて間もない都心のビジネス街の只中、空に次々と突き刺さっているかのようなビルの屋上には星が見えない。雲がかかっているという事もあるが、そもそも透き通るような空気がではない。代わりに、眼下に広がるほとんど全てが舗装された地上には、行き交う車のライトが無限の流れ星、もしくは光の川のように流れ続けている。そこにはその光を倍する人々が存在しているはずであったが、遥かなる孤高の空のここまではその声は届く事はない。
「もう逃げ場はない‥‥そろそろ終わりにしたら?」
少女の声がその薄暗い空間に響き渡る。
顔はまだ幼さが残っており、中学生ぐらいだろうか。背はそれほど高くはない。長い黒髪を金色の櫛のような髪留めで頭の両脇でまとめており、耳の脇から垂れさがる髪の房は片側だけが長い。刺繍の入った紫色の幅広の袖の着物と赤色の腰帯が特徴的ではあるが、それ以上に彼女の持つ大きな鎌が目に付く。黒の持ち手は金属の光沢を放ち、その長さからかなりの重量がある事が分かる。その先についている巨大すぎる刃は、地上の光を受けてゆらゆらと冷たい光を放っていた。
「‥‥‥政府のいぬが‥‥」
彼女が対しているのは、どこにでもいるスーツを着たサラリーマン。彼はその彼女に対して罵りの言葉を呟く。
「見ろ、この世界を! こんな作られた偽りの世界はあってはならない!」
「‥‥‥‥」
「人はどんな環境でも現実に向き合って生きていくべきだ! こんなものはただの逃げでしかない!」
「‥‥‥‥それで?」
少女は何の感心も無い抑揚のない声で返す。
「それで、あなた達、テロリストはこの世界が気に入らないから潰したいと‥‥随分と勝手な言い分ね」
鎌を持ち直すと、角度が代わり、刃の光が男の顔に当たった。
「ここは、人間が作ったユートピア。最も豊かで、幸せだった時代の復元‥‥例えそれがコンピューター上の仮想世界であってもそれは変わらない。そしてそこに住むたくさんの人々がいる。もちろん、賛同してるから接続を許可されてるんだけどね」
「そんなものは意識だけだ! 現実の体はただ横になって眠っているだけ! それで生きているとは言えない!」
男は懐から拳銃を取り出して少女に向けた。
「俺は‥‥俺の妻は‥‥全てを捨てて、こんな世界に逃げ込んだんだ!」
「それで逆恨み? 馬鹿みたいね」
「‥‥ぐ」
「要するに、あなたの奥さんは、あなたがいる現実世界より、こっちの世界の方が魅力的だって判断したって事」
一羽のカラスが少女の脇に降り立つ。
=説得は出来そうにもありませんね。‥‥それで説得しているつもりかは分かりませんが‥‥李眸‥‥拘束してください=
カラスが口を開くと、その鳥は人語を発し、彼女を李眸‥‥リシャンと呼んだ。
「元から穏便に出来るとは管理局も思ってなかったでしょ? だから私が派遣されたわけだし」
=そうですね。とにかく、あのハッカーはあちこちにバグを作ってこの空間を壊しています。回線を切って、本体の位置を特定してください。場所が分かれば局で拘束しますので=
「分かってる」
=くれぐれも気をつけてください。この世界に接続中は、そこでシャットダウンされると本体の生命活動にも影響があるのですから=
「‥‥‥‥」
少女‥‥リシャンが再び男の方に顔を向けた瞬間、男は銃を発砲した。李眸は鎌を僅かに動かし、その光の線の軌跡を脇へと反らす。跳弾が床のコンクリに穴を開けた。
「くそ!」
「そんなお粗末なプログラムでどうにかなると思う? 抵抗は無意味。大人しく捕まった方がいいと思うけど?」
「この!」
男は再び銃を構えるが、引き金を引くより速く、リシャンはすぐ脇へと移動した。
「あなたは現実に帰りなさい」
青く光る鎌を大きく振り、男を斜めに斬った。
ヒュン‥‥という風切り音が後から続く。
「ああああああ!」
血は出ない。ただ、男の姿が大きく揺れ、その場から消え去った。
=場所は特定しました。既に包囲しているので捕まるでしょう=
「そう」
リシャンは屋上から下界を見つめる。もちろん、今あった出来事は他の人には何の関係もない事だ。いつもと同じ日常が続いていく。
=確保しました。強制スリープされているので、体を動かす事は出来ませんでしたので=
「‥‥‥‥」
リシャンは管理局本部との会話端末のカラスの言葉には何も答えない。ただじっと見つめ、空の風に髪を揺らしている。
「クロウ、次の標的は?」
=無許可のアバターを作成し、プログラム進行に深刻なダメージを与えてるテロリストがいます。そのテロリストに独自のシナリオを依頼した者がいるようで、同じこの世界に接続しているようです。不定期接続で回線を都度、ランダムに変更していて、現実世界での特定ができません。リシャンには、そのシナリオへの介入をお願いします。くれぐれもバグを助長させる‥‥=
「了解」
この仮想世界に接続しているのは、リシャンが政府のエージェントであっても同じ事だ。だが、彼女にはリアル世界で戻るべき体がない。生成に失敗して、重度の身体障害者として生まれた彼女は統制政府預かりとなり、様々な技能を得て後、この世界でのみ活動できる事が出来るようになった。カラス‥‥クロウはそんな彼女と管理局員との連絡手段であり、監視役でもある。
現実世界はこの世界よりも何世紀も遥かに時代が進んだ未来世界という事になる。
そこでは異常気象による超温暖化、環境汚染、有害な空気の発生、通年を通して発生する巨大台風‥‥もはや地上で人が自由に活動できる場所はなくなっていた。そんな世界に絶望した人類が、希望を持って作ったのが、コンピューター内の仮想世界で、人々は意識だけをそこに移す事で既に失われた自由な世界を謳歌していた。
だが、それを良しとしない一部の人々もいる。この世界を破壊して現実を直視するべきというのが、彼らの主張だった。
統制政府は、それらの主張を一切認めず、テロリストとして一掃する事に決め、その為の管理局が立ち上げられた。
「ふふ‥‥現実とこの世界‥‥何がそんなに違うのかしらね」
リシャンは笑みを浮かべ、次の場所へと向かう。
「ねえ、ひなたもカラオケ来るんでしょ?」
「え?」
呼ばれて私はハっとしたの。
そうか‥‥そう言えば私の名前は、ひなた、だった。
何でだろう?‥‥それが何となく私の名前だって事に気が付かないなんて。
もちろん、今は、どんな状況なのか詳しく言える。
私は新山ひなた‥‥近くの高校に通う、二年生の女子。成績も運動も中ぐらい。特に目立つような事もなく、クラスの中では何人かの友達の後ろをついて歩く感じ。
家は都心の中にあるけど、特にお金持ちというわけでもなく、普通の家庭。
今は学校の帰り道、すっかり暗くなってて、交差点にある信号機の光と行き過ぎる車の光が眩しいし、人混みの中、独特の雑踏に取り囲まれている。
とにかく私は大体、普通だ。
ずっと普通に、無難に生きてきた‥‥はずなんだけど、最近、頭がぼーっとしてる。
あんまり昔の事が思いだせない。この歳でぼけるのは嫌だなあ‥‥なんて、友達の笑ってる顔を見ながら、私はそんな事を考えてる。
「‥‥どうしたの?」
「ううん、何でもない」
私は笑い返す。
大丈夫、私は私‥‥普通の女子高生。一応、友達もいるし、気になってる人も‥‥いる。
それは斜め前の席の小野君。
彼も、私と同じで目立たないけど‥‥いつだったか(一年生の時?)朝の朝礼中に私が貧血で倒れそうになった時、サっと手を添えて、ゆっくりと床に寝かせてくれた(無理に立つのを支えないのがポイント高し!)。その手際がもう見事と言うか、優しくて‥‥それ以来、ずっと彼を後ろの席から見てる。
多分、好きなんだと思う。
けれども、とてもそんな事を口に出しては言えない。
いつか言えたらいいな‥‥と思うけど、
いつかって‥‥。
いつだろ?
「‥‥‥‥」
よく分からなくなってきた。
「じゃ、ひなたも一緒に行くって事で」
「え? うん」
カラオケか‥‥実は苦手だったりする。
「実はね、大橋先輩も来るんだよ」
「‥‥‥‥」
その名前を聞いた私は、胸がズキっとする。
大橋俊介先輩は、一つ上で三年生。テニス部のエースで、勉強も運動も出来て、爽やかイケメンで他の人に気配りも出来る。家も大きな会社の社長で、それはもう非の打ちどころがない。もちろん女子には絶大な人気だ。
だけど私は別に‥‥と、思ってる。
私が好きなのは小野君。
‥‥それなのに、先輩の名前を聞くと、何て言うか‥‥意識がぼうっとしてくる。
自分ではどうにもならないこの感情は、好き‥‥っていうものに似てはいるんだけど。
何かが違う。
心の奥の奥で何かがそう叫んでる。
「良かったじゃない。ひなた、先輩の事、好きだもんね」
「え?‥‥う‥‥ん‥‥」
まるで小野君への好意への矢印を、無理矢理変えられたような‥‥。
「早く早く」
「あ、待って」
走っていく友達‥‥の姿が人の波に飲まれて消えていく。雑踏の音が重なってただザワザワと波の様に聞こえてくる。
私の伸ばした手は行先を無くして‥‥そのまま下ろしたの。
このまま、はぐれた事にして帰ってしまおうかな‥‥。そんな事を考えたけど、それは絶対にしてはならない‥‥頭の中でその言葉が響いてくる。
「‥‥‥‥」
行先は分かっているから、そんな言い訳は通じない。
意志とは逆に私の足はカラオケに向かって勢いよく走って行った。
ビルの林の中は、基本的には人の住む場所ではない。
夕闇迫る中、仕事が終わった人々は、それぞれがここではない住む場所へと帰っていく。ビルの谷間にある大きなスクランブル交差点は、そんな人々の奔流で溢れかえっていた。
そのただ中に、一人の少女が佇む。
ほとんどがスーツ姿の人々の中、少女はその場に似つかわしくない着物を着ており、その手には巨大な鎌を携えていた。
=あれが、今回の無許可アバターです=
少女の肩にとまっていたカラスが話す。
だが、その姿は他の人には見える事はなく、声もただの鳴き声にしか聞こえない。
「まるで‥‥‥普通のコみたいね」
少女‥‥リシャンは交差点を走っていくブレザーの制服姿の女子高生を見つめた。
もちろん、リシャンの姿も他人からは見えない。と言うより、見えてはいるが、そこに意識を持っていかれる事はないのだ。
=あのアバターが生成されたのは、この世界の時間で一か月前。それによって大きな歪みが生じています。早急に対処をしなければなりません=
「‥‥‥かと言って、あのコを消せば、それで良いってわけじゃないのよね」
=はい、あのアバターを消した所で、また新たに作られれば意味がありません。テロリストの筋書きはそのまま進められていくでしょう。大元の作成者を探す必要があります=
「‥‥‥‥」
走っていく彼女の後ろ姿、その前を行く友達の姿、周りに人間‥‥そこに意識を写したAIによらない本物?‥‥の人間が紛れている。一見しただけでは何も変わらない。
「ふふ‥‥まずは動向を観察しますか‥‥」
リシャンは彼女の後を追うように歩きだす。
結局ね、私は友達三人とカラオケ店の中にいるの。
「じゃ、次、ひなたの番ね!」
「‥‥‥‥」
マイクを渡されたけど‥‥流行りの歌って何だっけ?
知ってるはずなんだけど、何も思い出せない。これは完全にボケてしまったのだろうか。
とりあえずお勧めを適当に‥‥と机の上のパネルに指をかけた時、
「あ、先輩!」
「!」
さっき話してた大橋先輩が戸を開けて中に入ってきた。
「ごめん、ごめん、委員会の仕事が長引いちゃってさ。どう? 盛り上がってる?」
先輩は爽やかな感じでそう言って、持ってきたカバンを棚にあげた。
「ほら、ひなた。あなたの好きな大橋先輩だよ」
「‥‥‥‥」
私にそう耳打ちしてくるのは、友達の‥‥名前、名前‥‥知ってるんだけど。分からない。何で?
「やあ、ひなたちゃん。今日は君とデュエットしたい歌があってさ」
先輩は友達をかき分けて奥にいた私の隣に座った。
「えっと‥‥」
友達に助け船を出してもらおうと顔を向けたけど、まるで他の三人は私と先輩は存在してないかのように、話してる。
「‥‥‥‥」
何で? 大橋先輩は女性徒の人気が高いんだよね。皆、どうしてしまったの?
「ひなたちゃんの好きな歌は‥‥これだよね」
「‥‥‥え?」
知らない。題名を見ても、歌ってる人を見ても何も分からない。それでもなぜか、歌詞とリズムが頭の中に記憶されてる。
「僕はひなたちゃんの事は何でも知ってるんだ」
「‥‥‥‥」
先輩は肩に腕をまわしてきた。
私の息遣いが荒くなってくる。
先輩が好き‥‥誰よりも‥‥そう、心の中に刻まれてる。
「幼馴染だからね。僕は子供の時から、ずっと君を見てた‥‥すぐに尻尾を振ってくる他の奴らとは違って、君は僕の事なんて全く、眼中になかった‥‥」
「‥‥‥‥」
何の話をしてるの?
幼馴染? 先輩と?‥‥あれ‥‥そうだったのかな‥‥そうだったかも‥‥そうだった。忘れてた。
先輩の言葉は私の心に響いてくる。
絶対正しいって‥‥どこからか連呼される。
「ようやく夢が叶う‥‥ほら、ひなたも、僕が好きだろう?」
「‥‥うん」
いつの間にか呼び捨て‥‥嬉しい。
先輩は当たり前の事を言ってるだけ。
「‥‥ひなた‥‥」
「‥‥‥‥」
先輩の顔が近づいてくる。友達は全く見えていないのか、カラオケに歌を入れて勝手に歌ってる。不思議な事にその歌声も音楽も私には何も聞こえてこない。
全くの無音‥‥。
先輩の唇が、私に触れようとした瞬間、
「‥‥‥‥!」
小野君の背中が浮かび上がってきて、気が付いたら両手を出して先輩を弾いてた。
先輩は勢い余って、椅子から落ちた。
「‥‥なっ!」
立ち上がった先輩は、凄い表情で私を睨んでる。
「ば、馬鹿な! プログラムがちゃんと動いてないじゃないか! どういう事だ!」
“‥‥ふふ‥‥”
「‥‥‥‥」
無音の室内に笑い声が響いてくる。
「随分と、良い若者になってるじゃない」
片側の壁が真っ暗に‥‥暗いというか、何もなくなってぽっかりと穴が空いた。そこから、人影が浮かび上がってくる。
「‥‥‥‥」
友達がマイクを持ったまま止まってる。
硬直とかじゃなくて、時間が止まってるみたいな。
出てきたその人物は女性‥‥多分、私よりも若い女の子。薄紫色の着物に朱色のラインの入った袖と、同じ朱色の大きな帯をつけてる。顔は真っ白だけど、うっすらと唇と目じりに朱色のラインがひいてある。若そうだけど‥‥笑ってるって言うより、嘲笑してる表情は、大人びてる。
それに‥‥手に持ってるのは‥‥鎌? 刃の金属の部分に反射した光が眩しい。
「‥‥死神‥‥」
私が思い浮かんだのはそれ。あの大きな鎌で人の魂を刈っていく。でも私が知ってる死神は骸骨だけど、あれはどう見ても‥‥女の子だ。
「死神?‥‥あは‥‥そうとも言えるかもね。さて‥‥」
彼女は笑って、それから先輩に体を向けた。
「ワールドへの無許可アバターの配置と、周囲のアバターの行動変更。加えて自身の参加も未許可‥‥罪状多数ね」
「お前は‥‥‥まさか‥‥管理局?」
先輩は腰を抜かして後ずさりする。私には何を言ってるのか分からないけど。
「セキュリティーを突破してこれだけの事をするからには、相当の知識と組織的力が無ければ出来ないはず。あなたの希望を依頼した者達がいるはずよね。詳しく話した方が身のためだと思うけど?」
死神の少女は笑ってる。
「し、知らない‥‥俺はただ‥‥」
「幼い日の失恋の葛藤を、この世界で晴らそうとしただけ‥‥ってわけ?」
「別に構わないだろ! こんなのはただのゲームだ!」
「‥‥‥‥」
目を細めた少女の瞳が炎の様に揺れて、それから表情が無くなった。
宙に浮かんでいた彼女は、床に降りた。コツコツ‥‥と、軽そうな、小さな足音を立てて先輩に近づいていく。
「場所が特定されれば、身柄はすぐに確保されるでしょうね。そこで話しなさい」
「ひっ!」
少女は鎌を振り上げた。鎌の刃が青色に輝く。先輩は腕で顔を覆ったけど、その上から鎌は振り下ろされた。
「‥‥‥‥」
先輩を助けないと‥‥そう思ったのに全く動けない。真上から二つにされて、消えていく先輩の姿をただ黙って見てた。
「‥‥‥‥」
消えた瞬間、私の先輩に対する愛情のようなものは全て無くなった。
=何も聞きだせなかったようですね。先にクライアントを処理してしまって良かったのですか? 拘束しても恐らく彼は依頼先のテロリストの事は何も知らないでしょう=
クロウが目の前の灰色の世界を、その真っ暗な瞳に写しながら話してくる。
この室内‥‥限られた空間はエージェント権限で時間を止めていた。この部屋の以外の世界は普通に動いている。中にいた数名は解除後に自分の時計が遅れている事に気づくだろうが、その理由を知る事はない。
テロリストによって創られたアバターの少女だけは、まるでこちらを捉えているかのようにこっちを見ている。
「糸はつけてあるから。辿っていけばいいのよ」
リシャンは鎌の先の水色に光る糸を見つめる。
糸は遥か孤高の空へと伸びて消えている。
=そううまくいきますか? 奴らもプロです。追跡されている事を知ったら、すぐに場所を変えるでしょうし=
「それなら別の機会に捕まえればいいだけ」
フン‥‥と鼻を鳴らす。
「今回、逃がしたとしても、また彼らはどこかで歪みを作るでしょう。いつも自分で自分の存在を示すしかない‥‥自分が捕獲されるその日までね。それが今日になるか明日になるかの違い。つまり彼らの未来は決まってる」
=クライアントを確保したと報告がありました=
「‥‥‥‥」
クロウの言葉には何の興味を示さずにリシャンは、違法アバターの少女の前に立った。
=管理局規定により、違法アバターを二十四時間以内に消去してください=
「‥‥‥‥」
少女の黒い瞳がリシャンを見つめている。時間が止まっているので、それはあり得ない事だったが、彼女のその表情が何かを言おうとしているように見えた。
「‥‥空間隔離、限定解除」
=リシャン?=
少女の瞳に色が戻っていく。
どうして今まで、先輩の事を好きだと思っていたのだろう。
今では同じ学校の人‥‥ぐらいしか思わない。
「‥‥‥‥」
先輩は消えてしまって、後ろを振り向いたけど、友達は止まったまま。
私は先輩を鎌で切った少女をじっと見つめる。
「お前は‥‥」
ここには私しかいない。だから彼女の問いかけの先は私。
「その男に好意を持っていたはずよね。どうしてその彼を拒絶したのかしら?」
「‥‥‥‥」
鎌で切られるのかと思ってたけど、いきなりそんな事を言ってきた。
「‥‥それは‥‥他に好きな人がいたから‥‥」
「‥‥その好意がテロリストのプログラムを超えたというの?」
「?」
「一つ聞きたい事があるの‥‥この世界での幸せの多くは、お金、栄誉、少々の健康、それによる円満な家庭‥‥。やり方はともかく、さっきの男の方が、お前の想い人よりも多くの幸せを与えてくれたかもしれない。それでもあなたは自分の想いを通したい?」
「‥‥‥‥」
先輩と小野君‥‥比べた事もない。
だから私は大きく頷いた。
「‥‥ふふ」
少女は私のすぐ目の前に立った。すぐ近くまで来ると、彼女の人間離れした人形のような容姿に釘付けになる。
「‥‥私も‥‥斬られるの?」
「それがあなたの望み?」
少女は鎌の先を私の喉に当てた。
ちょっとでも引いたら‥‥私は終わる。でも‥‥なぜか分からないけど、彼女はそうはしないような‥‥そんな気がしてる。
だから怖くはない。
「あは‥‥いい表情ね」
笑って鎌を引っ込めた。
「なら、試してみなさい。あなたの選択肢が正解かどうだったか」
「‥‥‥‥」
「その時、また答えを聞きにくるから。それまで良い人生の旅を‥‥ね」
「‥‥‥‥」
真っ白な光が部屋いっぱいに広がって、私は目を瞑った。ゆっくりと目を開いたその時‥‥。
「どうしたの?」
友達が私の顔を覗き込んでる。
「え?‥‥あ‥‥」
何?‥‥見渡せば、いつものカラオケボックスの中。歌い終わったので、画面が止まってる。
「‥‥あの‥‥先輩が‥‥」
「先輩?‥‥誰?」
「大橋先輩だよ。さっきまでここに‥‥」
「知らないけど。そんな人」
「え?」
「ねえ! 誰か知ってる?」
他の二人は首を振ってる。知らないふりをしてるってわけでもなさそうで、本当に大橋先輩の事は忘れてしまってる。
「それより、ひなたの番だって! 早く予約を入れてよ、時間がもったいない」
「う、うん‥‥」
友達にぐいぐい来られて仕方なく適当に歌を選ぶ。
あの死神の少女は本当にいたんだのだろうか、こうしてると分からなくなってくる。
でも彼女は言ってた。答えを聞きにくると。何の根拠もないけど、いつかは本当に来ると思う。
その日まで‥‥私は生きていく‥‥私の人生の旅を‥‥。
「次は私!」
マイクを手にして歌いあげる。
日の落ちかけた街の中。帰宅を急ぐ人々を尻目に、リシャンは立ち並ぶビルを眺めていた。
もうすぐ日は完全に落ちる。今はまだ辛うじてオレンジの光に照らされてはいるが、ものの数刻で黄昏の光は夕闇に競り負ける。
=どういうつもりなのですか? 違法アバターをそのまま放置しておくなんて=
「放置はしない。処分期限は発覚してから二十四時間。まだ時間があるじゃない」
=それはそうですが=
クロウはいつも細かい事を言ってくる。それもそのはずで、クロウの言葉は本部にいる局の職員が直接話している。頭が固いのは当然だ。
だからリシャンはクロウの言葉を意に介さない。
「それよりも‥‥あそこ‥‥」
鎌の刃の先には細い糸がついている。その糸はまるで何かに引っ張られているかのように、空へと張り詰めていた。その向かっている先には一つの大きなビルがある。屋上付近に赤色の光が点滅を繰り返しているのが見て取れるが、それは航空機に注意を促す注空灯だ。
=あそこがテロリストの居場所ですね=
「案外、甘いのね。凄腕ハッカーって言われてる癖に」
=気を付けてください。この世界で破壊されると、本体にも影響があります。最悪‥‥=
「安全な本部にいるあなたが言っても説得力はないわね」
リシャンの体の輪郭がぶれる。次の瞬間には目的地である。屋上の上にいた。
ここはもう空の領域。遥か下にどれだけの人がいようが、その音はここまでは届いてこない。聞こえるのは風の音、そしてその風に揺らされた事による、注空灯の鉄骨の軋む音だけだ。
一人の男がそれでも、下界を覗いている。腕組みしたまま、何かを考えているようだ。
リシャンは無造作に近づく。ここに三番目の音、足音が加わった。
「あなたが、違法プログラムをこのワールドに持ち込んだテロリストね」
「‥‥‥‥僕はテロリストではありませんよ」
リシャンの姿を見ても男は慌てる事もなく、穏やかな口調でそう答えた。
「自分の利益だけの為に、秩序を破壊する‥‥これがテロリストでなくて、何だというのかしら?」
「残念ながら、その認識は間違っています。僕は自己の利益は求めてはいません。もちろん、多少は依頼者からは頂いていますが、それは全て活動資金の為。そして依頼者の希望を叶える為なのです。我々はこの世界を壊すのが目的ではない。むしろ現実では叶えられない事を可能にする、素晴らしい世界だと考えています」
「あは‥‥その依頼者の願いとやらが、この素晴らしい世界とやらを壊していくんだけど?」
「ある程度のシナリオと方向性を与えなければ人は幸せにはなりません。そのままなすがままに任せれば人は必ず不幸になります。私に仕事を依頼してきた彼は現実では初恋の人と結ばれる事はありませんでしたが、あのままシナリオが進めば、確実に幸せを手に入れる事ができました。人を不幸にしているのは管理局です」
「‥‥‥へえ‥」
もっともらしい事を言っているようだが、リシャンは彼の言葉を聞いていると、怒りが込み上げてくるのを感じた。
「じゃあ、彼の強引なシナリオ変更によって不自然な方向に人生を狂わされたアバター達はどうなるの?」
「アバター?‥‥あれはただのAIですよ。プログラム通りに行動しているだけの存在です」
「‥‥‥‥」
「アレらに人生と呼べるものは無いのです。精神接続した本物の人間の為のマネキンに過ぎません。人の役に立つ為だけにあるものです」
「‥‥そう」
リシャンは鎌を持つ手に力を込めた。青く光っていた鎌の刃の輝きが強くなる。
「僕を拘束するのですか? 無理だと思いますよ」
「そうかしら?」
「‥‥‥ではまた何れ何処かの世界で‥‥‥」
男は躊躇なくビルから飛び降りた。
「ん?」
だが、すぐ下で落下は止まる。見えないガラスのようなものに遮られた。夕闇に覆われた空の世界の真下。車の光が線のようにあちこちに伸びていた。
「‥‥‥‥」
男は見えない壁を砕こうと試みたが、傷どころか音一つ立たない。
「空間ロックですか‥‥」
「‥‥‥‥」
リシャンも透明な床の上に降りる。
「時間をかければ突破は出来ると思うけど、そんな時間を与えると思う?」
「‥‥‥管理局のいぬが‥‥お前達こそ、不幸の元凶だというのに‥‥」
「あなたの思想に私は興味がない」
リシャンが見えない床を歩くと、彼女の足音だけは音として響く。
「ふん‥‥当たり前の事を言っているだけだというのに‥‥人の幸せの為に作られたAIが人の為の犠牲にならないとすれば、それは間違った世界だ。そんなものは淘汰されてしかるべきだ」
「‥‥‥‥」
リシャンは男のすぐ近くで足を止めた。
手を伸ばせば刃は男の首に届く。
「オッケー、降参です。僕は自首します。この空間ロックのプログラムを解くより、そっちの方が早そうですから、そうします。それによって刑は減免されて‥‥で、早々にまた戻ってきますよ。無意味なアバターを除去する為にもね」
男は笑って手を上げる。
「‥‥‥‥」
リシャンは男の顔を見つめる。冷たい色を放っていた瞳が赤く染まった。
「‥‥‥‥お前はリアルに返さない‥‥」
鎌の刃の色が青から赤色に変わる。
「魂ごと、切り刻んであげる」
「‥‥え?‥‥ま、待て‥‥管理局はそんな‥‥」
「‥‥‥‥ふん!」
「ぎゃあああああ!」
振り下ろされた赤い刃で二つに裂かれ、炎につつまれて燃え上がった。
しばらく断末魔の悲鳴を上げていたが、それもすぐに消え去り、跡には灰すらも残らない。
=‥‥リシャン‥‥=
クロウが飛んできた。
=いきなり空間がロックされたと思えば‥‥=
「事故はつきものね。局員たちも危険だからデバイス越しでしか接してこないわけだしね」
=全く‥‥被疑者死亡では、テロリスト組織の何の情報も得られないじゃないですか=
リシャンの嫌味にも、クロウは全く動じない。
「‥‥‥‥作られた幸せと、自由な不幸せ‥‥どっちがマシなのかしらね」
=ん?=
「ふふ‥‥あははは!」
リシャンの笑い声は孤高の空へと響き渡った。
思えば高校生活はあっと言う間だった。
結局、三年間、告白出来ずに終わりそうだった。だから卒業式の日、思い切って、それこそ、これが駄目なら人生終わり‥‥って感じで、小野君に思いを伝えたの。
『喜んで‥‥実は僕も前から‥‥』
そんな返事をもらって‥‥あの時は嬉しかったなあ。
ついに私の時代が来た! とか思ってたし。
それからはね、私も小野君も進学しないで就職したの。私は小さな商社、小野君は鉄工所、二人とも地元の会社に就職したの。
場所は近かったから、頻繁に会う事が出来たの。それが功を奏したんだと思う。
『安物なんだけど‥‥受け取ってほしい』
高校卒業してから三年ぐらい経ったある晴れた日の午後‥‥小野君は、そう言ってきて指輪を出してきた
『ひなたさん、僕と‥‥結婚‥‥してくれますか?』
『喜んで』
またまた私の時代が再びきた!
私も小野君(私も小野になったんだけど)も、給料はそんなに高くはなかったんだけど、最初の結婚記念日の日に彼が言ってくれたの。
『前に、海の見える丘に住みたいとか言ってたよね』
『うん』
『頑張って貯金して、いつか二人でそこに住もうよ』
『うん!』
私は嬉し泣きしながら思いっきり抱き着いたの。それはもう彼の背骨が折れるぐらい強く。
嬉しかったのは、いつかそんな家に住めるかもしれないって事だけじゃなくて、彼が私の事を凄く考えてくれてたって事が、凄く身に染みたから。
それから何年か‥‥。少しづつだけど貯金は出来てきたんだけど、いい所まで貯まったあたりで、車が壊れたり、大雨で家が倒れたり‥‥色々あって貯まらないもので‥‥。
何気ない毎日‥‥。特に何のサプライズもない日々がどんどん過ぎていく。
気が付けば私も彼も白髪になってる。
結局、子供が出来なかった。申し訳ないと思うけど、それはそれで楽しい。
彼が定年してからは、ほんとに二人だけの日々。
『どうしたの?』
彼が棚の上に置いてある絵を見てる。海の上の一軒家の絵。
実は今も買えていない。二人とも少ない年金で暮らしてるから、これからも貯まりようがない。
『‥‥‥‥』
寂しそうな彼の表情を見てると、何を考えているのか分かる。
もうすっかり昔の事で、諦めてた夢の事。
お願いだから、そんな顔をしないで。
私はあなたの思いに包まれてたのだから、それで十分。
そんな日々も長いようで短かかった。
私の人生の旅もそろそろ終盤‥‥。
『この度は‥‥』
それは弔問の言葉。
彼と私の少ない知り合いの人が弔問に訪れる。
灰色の写真の中で、彼は真顔のままだけど、私にはなんだか。ゴメン‥‥って謝ってるような表情に見える。
違う違う。
私は心の中で訂正を求める。
そして言い返すの。
ありがとうって‥‥。
彼の写真の隣に、海の家の絵を寄せてそう呟いたの。
『‥‥‥‥』
一人で戻ってきた家は、こんなにも広かったのかと驚いた。
これから何をして暮らそうか。
趣味の刺繍をする。
読書をしてもいい。
時間はたっぷりある。
そう思ってたけど。
「‥‥‥‥」
気が付いたら私は今、病院にいる。何とかという難病で、まだほとんど例がなくて、治療法もないとか‥‥運が悪かったらしいけど。
「じゃあ、また来るから」
高校になったばかりの親戚の子が病室から出ていく。そう言えば、私もずっと昔はあんな感じだった‥‥と、思うと随分と年月が経ったんだなって実感する。
「‥‥‥‥」
真っ白な病室。棚の上にはおじいさんになった彼の写真と、一枚の絵が置いてある。
時間的にはお昼を過ぎたあたり。季節は初夏で、開けた窓から入る風が、レースのカーテンを静かに揺らしている。
心地良い空気が顔を撫でていく。それだけが時間の経過を分からせてくれる。
「‥‥‥‥?」
誰かが、部屋の中にいるようなそんな気がして、私は横を向いた。
そこにいたのは、着物を着た黒髪の少女だった。相変わらず体より大きい鎌を持っている。
「‥‥‥‥そう‥‥迎えに来たのね」
遠い昔‥‥いつかまた会う約束をした事を思い出した。
「あなたは、ちっとも変わらないのね」
「‥‥‥‥」
私が話しても、死神の少女は何も返してこない。ただじっと私の顔を見つめている。
選択肢‥‥あのとき、そう言ってた。
結果的には、どうだったんだろうか‥‥。
他人より苦労して、それでも目的は果たせなくて、最後はこんな感じ‥‥。
客観的に見れば間違ってたって事になるのかもしれないけど‥‥。
ううん。違う。
「私の‥‥選択は‥‥」
「‥‥‥‥」
息が苦しくなってきた。そろそろ迎えがきたのかも。
全く‥‥遅いよ。
「‥‥どうだったの‥‥か‥‥な」
「‥‥‥‥」
私の意志には関係なく目が閉じていく。少女の姿がぼやけていって‥‥。
=活動が停止しましたね=
「‥‥‥‥」
リシャンは、かつて、ひなたと呼ばれたAIアバターを黙って見つめる。
=結局、どうだったのですか?=
「何が?」
=確か‥‥作られた幸せと、自由な不幸せ‥‥どっちがマシかという話だったかと=
「‥‥ふふ‥‥そんな事‥‥」
リシャンは彼女の頭を撫でた。
「この表情を見れば分かるんじゃない?」
=‥‥まあ、それは‥‥=
満足した顔で目を閉じている。クロウは普通のカラスのようにそっぽを向いた。
「‥‥‥限定空間モード終了‥‥‥」
リシャンは手の平を上に広げる。そこに、部屋の全てのものが凝縮されていく。
最後には小さな四角形の立方体が浮かんでいた。
そこは初夏の田舎町ではなく、深夜の都会の上空だった。
生暖かい風が、人間が到達出来ない虚空を拭き渡っている。風がリシャンの耳脇の髪の房を時折揺らす。
=小さな空間の中とは言っても、かなりの高速で時間を進めましたからね。まさか数十年を一日で終わらせるとは‥‥それでも規約までの時間ぎりぎりでしたが=
「‥‥‥‥」
リシャンはその小さな立方体を空へと放つ。それは夜空の星に紛れて、すぐに見えなくなった。
弱々しい星空の対比で地上の光が眩しく映る。
あの無数の光の中、無数のAIアバターと、少しの人間が暮らしていて、それぞれに人生があり、それぞれの人生の旅を歩んでいる。そう思えば、この世界は何と広大な事だろう。
リシャンはその奥深さを感じずにはいられなかった。
「ねえクロウ」
=はい、何でしょう=
「リアル世界と、この仮想世界‥‥どこが違うんだろうね」
=さあ=
「ふふ」
リシャンは吹き抜ける風の中、ただ笑って眼下の人々を見つめ続けていた。