週が明けても気分が晴れないなんて……舞美はオフィスの前で、自分の心と裏腹に晴れ渡る青い空を見上げた。
なにはともあれ、仕事をしよう。
一歩を踏み出そうとした舞美の肩を「おはよー」と慎平が叩いた。
「桑名くん……おはよ」
「どうした? 朝から暗い顔して。そうそう、金曜日はどうだったんだ? また薔薇をもらった?」
「もらったよ。オレンジ色だった」
無表情で答える舞美に反して、慎平表情は楽しげだ。
「オレンジ色かー。で、どういう意味だって?」
「信頼、絆」
「わかったぞ。絆を深めたいち言われたんだろ?」
奈美と同じで慎平も冴えている。
わかりやすいのだろうが。
舞美は無言で頷いた。
「それで、絆を深めることになって……いないか」
「うん、なっていない。だけど、お互いを知るために食事するとかお出掛けしませんかって言われたの。どう答えていいか迷って、返事を今日まで延ばしている」
「別に食事くらいしたらいいじゃないか? 悪い人ではなさそうだし、もしかしたら気が合うかもだしな」
「気が合うとは思えないけど」
「合うかどうかは話してみないとわからないだろ?」
慎平の言うことは、もっともだ。
葵人のことは真面目で、ただ薔薇を贈ってくる人としか知らない。
カフェではたいした話をしていなかった。ひたすら葵人が願いを語っていただけだ。
返答に困る願いばかりだった。
どこの誰だかわからない人だったら、つきまとわないでほしいと拒絶しただろう。
葵人の身分は確認できている。高見澤グリーンの部長で、実咲の幼なじみだ。
言動は怪しいけれど、不審者ではない。
「そうだよね……話してみないとわからないよね」
「だろ? 今日はどこで返事をする約束だ? 俺が立ち会ってやるよ」
偉そうに胸を張る慎平の前で、舞美は顎に手を当てて考えた。
「そういえば、どこで会うとか決めてないかも……」
別れ際に葵人が言っていたことを必死に思い出した。
たしか……。
「お待ちしていますとは言っていた。けど、どこでと場所は言っていなかった」
慎平が笑って、地面を見ながら右足をコンコンと動かす。
「だったら、ここだろう」
こことは、オフィスの前だ。
「また、ここ? でも、ここしか考えられないよね」
舞美はうんざりしつつも、納得した。
夕方、業務を終えた舞美は急いで、帰り支度をした。
課長から突然頼まれた業務に時間がかかり、舞美の退勤が遅くなってしまったのだ。
スマホに慎平から『ロビーで待ってる』とメッセージが届いているのを確認して、エレベーターに乗る。
ロビーでは、丸いテーブルを囲んで和やかに話す二人の姿があった。葵人の横の椅子には洋菓子店の紙袋が置かれていた。
舞美は二人がいる場所に急いだ。
「ごめんなさい。遅くなってしまって」
「舞美さん、お疲れさまです!」
葵人は立って、丁寧にお辞儀をした。
慎平も「お疲れさま」と言い、葵人と慎平の間にある椅子を軽く叩く。
「座りなよ。ここで、話したら?」
「そうね」
舞美は腰を下ろして、バッグを膝に置いた。
誰も口を開こうとせず、沈黙が流れる。
葵人は期待に満ちたまなざしを舞美に向けていた。
まず、自分が発するべきなのか……舞美は救いを求めて、慎平を窺う。
舞美と目が合った慎平はうんうんとなにかを理解しふうに頷くが、なんの頷きなのか舞美は察することができなかった。
舞美はなにかを言わなくちゃと思うのだけれど、異様に口が渇いてすんなりと声が出てこない。
なんとか発した声は掠れた。
「あの、今日は、お返事を……しようかと……ん、コホッ。ごめんなさい……」
喉の調子を整えようとバッグから水筒を取り出し、冷えた緑茶で喉を潤す。気持ちを落ち着かせようと小さく息を吐く。
待たせているのが申し訳なくて、急いで来たために心臓の動きが速くなっていた。
舞美は水筒をテーブルに置いて、葵人を見据える。葵人は舞美からの返事を聞き漏らさないようにしたのか、姿勢をさらにビシッと正して瞳を輝かせていた。
「高見澤さん」
「はい!」
「土日で考えたのですが、私は高見澤さんと絆を深めたいとは思いません」
「あ、そうですか……」
葵人の顔に落胆の色が現れる。
「でも、高見澤さんがどんな方なのか、少しだけ興味があります」
「本当ですか!」
葵人の瞳に輝きが戻った。
自分がこんなかっこいい人を一喜一憂させていると思うと、なんともいたたまれない気持ちになるが、舞美は苦笑した。
「少しだけですよ」
「少しでも構わないです」
「どこかにお出掛けは受け入れがたいのですが、食事はしてもいいかなと思いまして」
「お食事だけでも全然構いません。むしろお食事していただけるなんて、光栄です!」
葵人は興奮していた。
舞美と食事をする機会を得たことがよほど嬉しいようで、紅潮させた顔を両手で覆って喜びを噛みしめていた。
こんなにも喜ばれるとは……舞美は葵人の反応に戸惑い、慎平を見た。
慎平は口もとを手で覆って、笑いを堪えていた。肩が揺れていたから、堪え切れていない感じだが。
そんな慎平を舞美は軽く睨んだ。
こっちは困っているというのに……。
葵人が自分の胸に手を当て、「ふぅ」と息を吐く。
高揚していた気持ちが落ち着いたようで、ポケットからスマホを取り出した。
「では、今後お食事の約束をするために連絡先を交換しましょう」
「連絡先……そうですね」
約束を取り付けるために毎回、オフィスに来られるよりはスマホで連絡を取り合うほうがいいのは理解できる。
でも、舞美には安易に連絡先を交換してもいいのだろうかとためらう気持ちもあった。
慎平が不思議そうに聞く。
「氷室、スマホを出さないのか?」
「だ、出すよ。わかりました、交換します」
今ここで連絡先の交換くらいことを深く悩む場合ではないだろう。早めに話を終えて、帰ろう……。
舞美がスマホのメッセージアプリを開いていると、コツコツとヒールで歩く音が近付いてきた。
「やっぱり、舞美と桑名くんだ。あ、葵人くんも……」
近寄って来たのは、実咲だった。夕方になっても化粧崩れをしていない実咲は、舞美と慎平には笑顔を見せたが、葵人を見て瞳を揺らした。
葵人もまた実咲の登場が予想外だったようで、腰を浮かせて驚いた顔をする。
「実咲……」
「葵人くんもいるとは思わなかった。そっか、舞美に会いに来たんだね。葵人くん、久しぶり」
「ああ、久しぶり……あっ」
つかの間、放心状態だった葵人は我に返ったように慌てる。テーブルに置いたスマホをジャケットのポケットにしまい、舞美と実咲を交互に見た。
突然行動がおかしくなった葵人に、舞美は目をパチクリさせる。
まだ連絡先を交換していないのに、どうしたのだろうか。
なにをそんなに慌てているのか。
実咲となにかあるのだろうか……。