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第5話 お礼と言われても

 カフェを出ると、雨はやんでいた。

 外はすっかり夜の色になり、街には至るところで明かりが灯されている。

 日中は汗ばむくらいの陽気だったが、日が沈んで気温が一気に下がった。

 雨が降ったせいもあるのだろう、前日よりも肌寒く感じる。


 葵人は湿っているジャケットを片手に持ち、舞美に向き合った。


「今日は相合い傘をしてくれて、ありがとうございます」


 相合い傘?

 そんなことをしてつもりはないけれど……そう言われると、照れくさい。

 頬が熱くなった舞美がなにも返せないでいると、葵人が言葉を続けた。


「傘に入れてくれたお礼をさせてください」

「えっ、お礼?」


 たいしたことをしていないのに、お礼?

 一瞬だけ熱くなった舞美の頬をひんやりした風がさます。


 葵人は外灯の下で「はい」と穏やかなに頷いた。


「夕食をごちそうさせてください。これからどうですか?」

「あー、夕食は姉と食べる予定なんです。私、姉と住んでいるので」

「お姉さんと暮らしているのですね。では、おうちまで送ります。車、御社の駐車場に止めさせていただいていますので、すぐそこにあります。ぜひ遠慮せずにお乗りください」


 舞美はぜひ遠慮させていただきたいと思った。


「あの、今日は外で食べる予定で、駅の向こう側で姉と待ち合わせしているんです」


 舞美は徒歩七分のところにあるJRの駅の方向に顔を向けた。

 咄嗟についた嘘を見破られないよう、葵人から顔を背けたのだった。

 葵人は待ち合わせ場所まで送ろうとしたが、駅の反対側に車で行くには遠回りになってしまう。舞美はそのことを話して、やんわりと断った。

 葵人が残念そうな顔をする。


「お姉さんとのお食事、お楽しみください。それでは、お礼は月曜日にさせていただきます」

「お礼なんて、いらないですよ」

「舞美さんに喜んでもらえるものにしますので、楽しみにしてください。私も舞美さんからのお返事、楽しみにしています」


 舞美はなにも楽しみにしていない……。


「楽しみにされても、困ります」

「大丈夫ですよ。どんなお返事でも受け止めますから。それでは、素敵な週末をお過ごしください。おやすみなさい」

「えっ、あ……」


 葵人は言うだけ言って、早々と駐車場に向かってしまった。角を曲がる前に振り返り、手を振る。

 名残惜しそうにするわりには、切り替えが早いというか……。

 呆気に取られていた舞美は会釈することしかできなかった。そんな会釈でも満足したのか、葵人は嬉しそうに口もとを緩ませていた。


 今夜、奈美は学生時代の友だちと飲み会だった。舞美は、ひとりの夕食を簡単なチャーハンで済ませた。

 舞美よりも遅くに帰宅した奈美は酔っていて、ご機嫌だった。


「わー、オレンジ色が増えてるー。カラフルだー」

「お姉ちゃん、お帰り」


 すでに入浴を済ませた舞美はパジャマにパーカーを羽織っていた。

 一輪挿しに二本ならなんとか飾ることができたが、増えた五本は入らなかった。全部をガラスの花瓶に移し替えて、リビングのテーブルで眺めていた。


「ねえねえ、今日の薔薇にはどんな花言葉があるの?」

「信頼、絆だって」


 奈美は「わかった!」と右手の人差し指をピンと立てる。


「絆を深めたいと言われたんでしょ?」

「それだけじゃないけど、当たり……」

「お、当たった-」


 奈美は緩んだ顔でキッチンへ行く。千鳥足の奈美を心配した舞美は、あとを追った。

 冷蔵庫から出したミネラルウォーターをコップに注いで、奈美に渡す。奈美は、それをゴクゴクと飲み干して「はー」と息を吐いた。


「まーいみ、どうしたのよ? 浮かない顔してるけど」

「困ってるの」

「困ってる? どんなことに……あ、待って。トイレ、行きたい。ちゃんと聞くから、ちょっとだけ待ってて」

「うん」


 舞美は奈美が使ったコップを片付けて、リビングのソファに座った。

 なかなか奈美が戻ってこない。

 もしや、トイレで寝てしまったのでは?

 様子を見に行こうと立ち上がったとき、トイレのドアが開く音が聞こえた。


「ごめん、うとうとしてた。あー、眠い」


 奈美は舞美の隣に腰を下ろし、膝を抱えた。まぶたが今にも閉じそうだった。

 こんな状態の人に相談しても、まともな返事が聞けるとは思えない。葵人とのことを相談したかったが、今夜は諦めるしかないだろう。

 舞美は、虚ろな目をする奈美の肩を揺すった。


「お姉ちゃん、メイク落として寝なよ」


 奈美はハッと目をしっかりと開けるが、ゴロリと横になった。


「ちょっとー、起きて。着替えないと。そのまま寝たら、お肌が荒れるよ」

「んー、起きる……。ごめん、話はあした、聞くね……」


 舞美に腕を引っ張られて、どうにかこうにか体を起こした奈美は自分の頬を叩いた。

 洗面所から戻ってきた奈美は「おやすみ」と自分の部屋に入る。

 舞美は大きく伸びをして、寝ようとリビングの明かりを消した。


 何日も悩みたくないから、早めにどうするか決めたかった。決めるのは舞美自身だが、誰かの意見を聞きたかった。

 ベッドで友だちに相談しようかとスマホを操作するが、日付が変わる時間になっていたので迷惑になると考えて、やめる。

 ひと晩寝て、考えよう。

 大事なことは時間を置いてから、考え直すのがよいはずだ。

 そうしたら、明日には最適な答えが出るだろう。

 しかし、いくら考えても、奈美に相談しても答えを出せないままで週末が過ぎていった。

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