舞美と葵人が出会ってから四日目の今日は、金曜日だった。
重い足取りで出社した舞美はパソコンに向かいながら、帰りのことを考えた。
なんとか穏便にやり過ごせれば、週末はゆっくりと休める……がんばろう。
いつになくテキパキと業務を進める舞美を、上司の
「氷室さん、張り切っているね。もしかして、今日も高見澤部長が待っているのかな?」
「えっ?」
舞美は入力していた手を止めて、横に立つ丸顔の松原課長を見上げた。ダイエットをしようと思うが、妻の料理が美味しくてなかなか痩せられないとぼやく課長はお腹も丸い。
そんな課長が楽しそうな顔をした。
「昨日、見ちゃったんだよ。氷室さんが薔薇を渡されているところ。どこかで見たことのある顔だなと思ったら、高見澤部長でビックリしたよ」
「あ、あの……」
人に見られない隅のほうに移動したつもりだったが、見られていたらしい。
実咲が気付いたくらいなのだから、他の人に見られていても不思議はない。
課長以外にも見た人がいるのでは……舞美は狼狽えて、周囲を見渡した。何人かの視線が自分に集まっているのを感じる。
直接見ていなくても、噂になっているかもしれない。
「あんなイケメンに見初められるなんて、舞い上がるのも仕方ないねー」
「いえ、私は舞い上がってなんか……」
舞美は肩をすくめて、否定した。課長は舞美が断った場面は見ていなく、告白を受け入れたと思っているらしかった。
「照れなくてもいいよ。あれこれ言うとセクハラになっちゃうから、温かく見守らせてもらうよ」
「あの、ほんと違うんです!」
勘違いされたままではいられない。
舞美は立ち上がって、再度否定した。強い口調になった舞美に驚いて、課長は後ずさりする。
「違うって、なにが?」
「私、お断りしたんです。だから、あの、付き合っているわけではないです」
「お断り? あんなイケメンを?」
イケメンだから、ホイホイと受け入れるわけではない。イケメンの笑顔にはドキッとしてしまったけれど……。
「顔と名前しか知らない人なんです。怪しそうで……ちょっと怖くて……」
「そうか。うーん、知らない人に言い寄られたら、警戒するよね。悪かった、事情を知らないくせにはやし立ててしまって」
心底申し訳なさそうにする課長に対して、舞美は罪悪感を抱く。
「いいえ、私のほうこそすみません。事情を説明しないで、苛立ってしまいました」
「いやいや、こういう事情は説明できなくて当然だよ。困ることがあったらいつでも相談して。対処を考えるからね。でも、高見澤部長はいい人だと思うよ」
「そうですか」
「ああ、悪い! また余計なことを言ってしまったね」
「いいえ、そんな……」
ちょっと馴れ馴れしい人ではあるが、部下思いの頼りになる課長だ。自分の席に戻っていく課長に舞美はホッとして、椅子に座り直した。
一週間の業務が終わり、舞美は「お疲れさまでした」と挨拶をしてエレベーターに乗った。
一階に降りて、葵人の姿を探すが見当たらない。もしかして、来ていない?
それならば、サッサと帰ろうとオフィスの外へと急いだ。昨日、明日も来ると言われたが、約束をしたのではないから待つ義理はない。
外は小雨が降っていた。昼間は晴れていたのに、いつ降り出したのだろう。
舞美が折りたたみ傘を広げていると、正面から「舞美さん!」と呼ばれた。
そこには傘を持たず、薔薇だけを持つ葵人がいた。
葵人の髪には細かい雨粒がのっている。舞美は広げた傘を葵人の頭上に持っていった。
葵人が慌てる。
「あ、舞美さんが濡れます。私は大丈夫ですから、舞美さんが差してください」
葵人は傘の棒部分を舞美のほうへと軽く押した。
そのとき、雨あしが強まり、大粒の雨が地上へ落ちてきた。
「わ、わわわっ」
舞美は思わず身を葵人に寄せて、二人で傘に入る。
「この傘、小さいのでこのままだともっと濡れてしまいます。なので、えっと、あそこのお店に入りましょう」
舞美の視線の先には五階建てのビルがあり、一階がカフェだった。
葵人が「はい!」と声を弾ませる。
「私はどこにでも付いていきます! 傘、持たせてもらいますね。舞美さんはこちらをお持ちください」
背の高いほうが傘を持つほうがいいのはわかるが、さりげなく渡された薔薇を持つのはどうだろうかと舞美は思った。
今日の薔薇は鮮やかなオレンジ色が五本だ。
カフェの奥の席に座り、舞美はバッグからハンドタオルを出した。舞美は足もとが濡れただけだったが、葵人は片側がびしょ濡れだった。
舞美のほうに傘を向けてくれていたのだろう。
「これ、使ってください」
「ありがとうございます」
スーツのジャケットを脱いでいた葵人はタオルを受け取り、手を拭いた。
「あの、上着も拭いたほうがいいですよ」
「ああ、大丈夫ですよ。そのうち、乾くでしょうから。それよりもタオルが濡れてしまったので、あとでお返ししますね」
「いえ、そのままで……」
「汚れたのを返せません」
「あ、そうですか」
返してもらうためにはまた会わなければならない。舞美は今日、二度と訪ねてこないでほしいとお願いするつもりでいた。
まさかこんな事態になるとは……。
雨のせいだ。
サッサと帰ろうとしていたのに、足止めされるなんて……。
しかも、二人でカフェに入ることにまでなった。
想定外だ。
自分から入りましょうと提案したが、舞美はかなり後悔した。
頼んだ紅茶は、ティーポットで運ばれてきた。
二人はほぼ同時にカップに紅茶を注いだ。舞美は角砂糖を入れるが、葵人は何も入れずに飲む。
ひと息ついたところで、葵人が舞美の横に置かれた薔薇に目を向けた。
「つい渡してしまいましたが、今日も受け取ってくれてありがとうございます」
「受け取ったわけではなくて、ちょっと預かっただけです。なので、お返し……」
舞美が薔薇を取ろうとした手を葵人は制止する。
「それは舞美さんのために持ってきたものです」
「私、受け取るつもりではなくて」
「オレンジ色の薔薇の花言葉は、絆や信頼です。私には望みがあります。舞美さんに信頼してもらい、絆を深めたいです。舞美さん、私のことを警戒していますよね?」
舞美は頷き、紅茶に口を付けた。
「私のことを知らないのですから、警戒するのは当然です。ですから、お詫びいたします」
「お詫び、ですか?」
葵人はフッと柔らかな笑みを浮かべる。
そのとき、舞美の心臓がドクンと揺れた。
な、なにを動揺しているの……。
魅力的な笑顔に惑わされてしまいそうになり、気を引き締めるために姿勢を正した。
「自分のことを知ってもらうこともしないで、迫ったことを反省しています。すみません!」
「あ、はい……」
顔がテーブルに付きそうなくらい頭を下げられて、舞美は戸惑うしかなかった。
実咲や慎平が言っていたとおりで、本当に真面目な人だ。舞美自身は怪しい人としか思わなかったけど、真摯に向き合おうとする姿勢には好感が持てる。
惑わされるもんかと思うのに、真剣なまなざしを逸らせなかった。他の客の話し声がまったく聞こえなくなり、この世界に二人だけしかいない錯覚に陥る。
葵人の形のよい唇が動いた。
「舞美さん、私を知ってください。なんでも聞いてください。どんなことでもお答えします。なにか困ったことがあったら、いつでも呼んでくささい。飛んでいきますから」
「はあ……」
「友だちから……いや、友だちにはなりたくないので……んー、友だちではなくて知人? いや、それではもっと関係が薄くなるような……んー、願いは恋人なんですけど。さすがに厚かましいので、やはり、友だちかな……」
ブツブツと思案する葵人がおかしくて、舞美は笑った。葵人が不思議そうな顔で舞美を見る。
なぜ笑われているのか、わからないようだ。
「そんなに悩まなくても。今の私たちの関係は取引先の人、でしょうか。顔見知り程度な」
「顔見知りと言われると……かなり薄い関係ですよね。もっと親密になりたいです。今日の薔薇は、五本です」
「はい? あー、そうですね」
本数によって花言葉の意味が違うことは、この前に知った。
一本は一目惚れだったが、五本にはどんな意味があるのだろうか?
知りたいような、知りたくないような……複雑な気持ちになりながらも舞美は葵人の説明を待った。
「あなたに出会えて本当に嬉しいという意味があります。私は今まで誰かをちょっといいなと思うくらいしか好きになったことがなかったです。舞美さんに感じる気持ちとまったく違うので今思えば、好きだったかどうかも怪しいのですが。舞美さんに出会って、自分の感情がこんなにも激しく動くことを初めて知りました。舞美さんに出会わなかったら、一生味わうことのない感情です。舞美さんに出会えて、本当に幸せです。舞美さんを思い浮かべるだけで世界が輝くんです」
「はあ……」
この人、なにを言っているの?
世界が輝く?
葵人は熱く語っていたが、舞美の心は冷えていった。
そんな舞美に、葵人は「すみません」と真剣な顔で謝る。
今度は、なぜ謝っているの?
「お話がそれてしまったのですが、お互いを知ることで親密になれると思います。一緒に食事をするとか、どこかにお出掛けをするとかしませんか? お互いを知るために」
どうやら関係を深めたいという話に戻したかったようだ。
葵人は真面目だけど、とんでもない要求をする。予想もしていなかった要求に舞美は呆れた。
「私、高見澤さんのことを知りたいとは思っていないです」
「私にまったく興味がないですか?」
葵人は悲しげな表情をした。
気持ちを受け入れられないのなら、突き放すべきなのだが、しょんぼりされると心苦しくなる。
だったら、どうするのがいいのか……。
舞美は困ってしまい、ふたたび拒否できなくなった。
「少し、考える時間をください」
「わかりました。考えてください。すぐに結論を出さなくてもいいです」
「ありがとうございます。では、考えます」
「で……、考えるのにどのくらいの時間が必要でしょうか?」
「えっ?」
舞美は固まった。
結論を急がなくてもいいと言ったのに、時間を決めたい?
「明日までにとか急ぐつもりはないのですが、一年後に答えを出すと言われるとちょっと、困りますので」
「あー、そういうことですか。さすがに一年も待ってくださいとは言いません。でも、いつと聞かれると、そうですね……今日は金曜日ですから、来週の月曜日には答えを出したいと思います」
長々と悩むのは、時間の無駄になる。できるだけ早くにどうするか決めて、前に進みたい。
でも、自分も相手のことを知りたいという答えを出したら、その後はどう進む?
舞美は今言ったことを撤回しようと思った。やはり今、ハッキリと興味がないと言わないといけない。期待させてはダメだ。
しかし、撤回するには遅かった。
葵人は身を乗り出し、舞美の手を掴んだ。目を輝かせて……。
「月曜日、お待ちしています! またお会いできるのを楽しみにしています!」
「あ、はい……あの、手を放してください」
葵人は咄嗟に取ってしまった行動に自分でも驚いていて「すみません!」と慌てて手を放したが、恥ずかしそうに頬を赤らめていた。
「ついまた会えると思ったら、嬉しくなってしまいました」
舞美はそんな葵人を、ただ真面目なだけではなく、意外に楽しそうな人だと思った。