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第19話 逃げ場がない

 約束した映画の日の空は、どんよりしていた。ときどき雨が降る予報で、傘が手放せない日になりそうだ。


 外はあまり歩かないかもしれないが、水が跳ねて足もとが汚れたら不快になる。舞美は汚れても目立たない黒の膝丈スカートを穿き、冷房対策としてカットソーに薄手のカーディガンを羽織った。


 水玉の傘を持って、約束した時間の五分前にエントランスに降りる。四分待つと、葵人の車が到着した。

 葵人は小雨が降る中、降りてきて助手席のドアを開ける。


「舞美さん、お待たせしました」

「いいえ、時間ピッタリですよ」


 舞美が乗り込むと、葵人は運転席に戻った。舞美はバッグからハンカチを出して、葵人に向けた。

「わざわざ外に出てくれたから、濡れましたよね? どうぞ、使ってください」

「大丈夫。きれいなハンカチが汚れてしまうよ」


 葵人はそう言いながら、ズボンのポケットから自分のハンカチを取り出して濡れた手と顔をサッと拭く。

 それから、車を発進させた。舞美はフロントガラスに落ちてくる雨を眺める。


「あいにくのお天気ですね」

「雨でも、俺の心は晴れているよ」


 舞美はクスッと笑う。


「葵人さん、くさいセリフをさらっと言いますよね-」

「くさい、かな?」


 自覚がないようで首を捻る葵人を、舞美はさらに笑う。


「普通の人が言わないことを言いますよね? お花をくれるときに花言葉にちなんだことを言うとか……あまりお花をもらったことはないけれど、あんなふうに言うのは葵人さんだけじゃないでしょうか。葵人さんにとっては、当たり前のことですか?」

「当たり前? んー、お客さまに花言葉を聞かれることはあるけど。記念日に花言葉を添えたいと言われる方もいるから。でもプライベートでは、舞美さんが初めて」

「そうですか」


 本当に初めてなのかと疑いそうになったが、婚約者がいたから今までは誰とも付き合っていなかったのかもしれない。

 だから、特定の女性に花を贈る機会がなかったのかも。

 でも、実咲は高校生のときに付き合った人がいたと言っていた。

 もしかして、この人も?


「葵人さん、変なことを聞いてもいいですか?」

「どうぞ、どんなことでも聞いて。舞美さんが俺に興味を持ってくれるのは嬉しいから、なんでも答えるよ」

「今までお付き合いした方は、いますか?」

「えっ?」


 予想もしていない質問だったようだ。葵人は明らかに戸惑っていた。


「え、あー、婚約者がいた身では不謹慎ではあるけど、ひとり……お付き合いした人はいる」


 葵人は気まずそうな顔をチラッと舞美に向ける。

 舞美は「あ!」と慌てた。


「別に責めていないですよ。過去のことだと、わかっていますから。ちょっと気になっただけです。そのお相手の方には……葵人さんが告白したのですか?」


 ちょっと気になったと言いながらも、詳しく聞いてしまう。

 なぜか気になってしまうのだ。


「いや、向こうから。婚約者がいるからと断ろうとしたけど、男女交際に興味を抱く年頃だったから、つい……ね」


 葵人はバツの悪そうな顔をする。

 不謹慎な行動だと言われたら、そうだろう。

 でも、葵人と実咲はお互いに恋愛感情がなかった。異性に興味を持つのは当たり前のことだ。舞美も好きな人がいたし、恋人もいたことがある。

 恋人がいたときに、他の人に心を奪われることはなかったが。


「実咲とは、名ばかりの婚約者だったんですよね?」

「うん、そう」

「だったら、不謹慎ではないと思います」


 人によっては、不謹慎だと判断するだろう。だが、舞美は実咲のことも知っているから安易に不謹慎だとは感じなかった。


 実咲からは好きな人がいたし、付き合った人もいたと聞いている。

 葵人も同じように好きになった人がいたかもしれない。


「葵人さん、今まで好きな人は……」


 触れてはいけないことに、触れてしまったような……舞美は途中まで言って、口を手で覆った。

 そのとき、車は駐車場に入っていく。


「ごめんなさい。変なことを聞いてしまって」


 駐車させた葵人が、笑みを浮かべた。


「大丈夫。気になることは、なんでも聞いて。初恋は、ピアノ教室の先生だったよ」

「葵人さん、ピアノを弾けるんですか!」


 食いつくところは、そこではない……とは思うが、葵人にピアノが似合うと思ってしまった。

 ピアノ教室の先生が初恋だというのも、かわいくて微笑ましいエピソードだ。


 葵人の意外な過去を知り、舞美の心はほんわか温かくなった。

 葵人はシートベルトを外して、顔を舞美に向ける。


「ピアノは一応弾けるけど、七歳までしか習ってないからうまくはないよ。向いていないなと、やめたんだ」

「私も二年くらい習って、やめました。やっぱり向いていなくて」

「仲間だ」

「そうですね」


 舞美は葵人と笑い合ったあと、それてしまった話を元に戻した。


「先生が初恋だったのですね」

「子どもにありがちだよね。舞美さんの初恋も聞いていい?」

「私は、小学生のときに隣の席だった子です」

「それもありがちかな?」

「そうかも。あ、そろそろ行かないと時間になりますよね」


 いつまでも車の中で話をしていると、上映時間に遅れてしまう。


「このままずっと話しているのも楽しいけど、目的は果たさないといけないよね」

「そうです、映画館に行きましょう」


 舞美はいまだにしていたシートベルトをやっと外した。


 傘を差す葵人は舞美の歩幅に合わせて、映画館に向かった。

 何気ない気遣いには、安心感を覚える。舞美は以前よりも緊張が薄れているのを感じた。


 チケットは葵人がネット購入してくれたので、スムーズに進めた。

 舞美の希望通りの普通のシートだが、隣だと手が触れてしまう距離だ。

近い……舞美は肘掛けを使わず、膝の上に手を置いた。


 葵人が舞美の顔を覗き込む。

 突然のことに舞美はビックリして、体を後ろに反らそうとした。

 しかし、背もたれにピッタリとくっついていたせいで、動けなかった。。

 ここは、逃げ場がない……逃げたいわけではないけれど。


「ここ、使って。らくな姿勢でいてね」


 葵人がここと示したのは、二人の間にある肘掛けだった。


「ありがとうございます。でも私、使わなくても大丈夫なので、葵人さんが使ってください」

「そう? じゃあ、遠慮なく」


 葵人は軽く頷いて、右手を肘掛けに置いた。

 さらに近くなったような……舞美は体を右に寄せようとするが、隣にも人がいて動けなくなる。

 やはり、逃げ場がない……。


 身を縮みこませているうちに、映画が始まった。集中して観ていると、距離の近さが気にならなくなる。


 会社に忘れ物をした主人公が、突然聞こえたドンドンと響く物音の正体を 探ろうと静かな社内を歩いていく……誰もいないはずの備品室からの音だと発見し、中を覗き込む……

 そのとき、背後から肩を叩かれた。


 なにがあるのだろうかという緊張感が伝わってきて、舞美の手に力が入った。主人公が振り向いてハッと口を開けたときに舞美の口も開いた。

 スクリーンは暗闇に包まれた。主人公は何者かに襲われて、気を失ったようだ。舞美は息をのみ、ドキドキしながら目を凝らした。誰かが動いている……うわあ……。


 驚く舞美の手の先がビクッと動いた。舞美はパッと自分の手に視線を向ける。

 舞美の左手は、肘掛けにのって……いなく、葵人の右手にのっていて、それを掴んでいた。自分の無意識な行動に気付いて、舞美は慌てて手を元の位置に戻し、葵人の様子をそっと窺った。


 薄暗い中で、二人の視線が交わる。

 葵人がフッと頬を緩めて、顔を舞美の耳もとに近付けた。


「怖かったよね? 掴んだままでいいのに」


 葵人は囁きながら、舞美の左手を持ち上げた。上げられた舞美の左手に葵人の右手が重なり、肘掛けに移動する。


 その状態で葵人はふたたびスクリーンに目を向けた。

 舞美の鼓動がドキドキと速くなる。映画を観ながらのドキドキとは違う動きだ。左手が気になってしまう。


 だが、それよりも気になるのが映画の展開だった。重なる手をどうにかしようと考えず、見入った。


 エンドロールが流れて、ホッとひと息をつく。ハラハラするおもしろいストーリーだった。

 館内の照明がつき、観客が動き出した。


「行こうか」

「はい」


 腰を浮かせた葵人に促されて、舞美も立った。

 舞美は繋がれた手を放そうとする。


「あの、手……」

「ああ、このままでいたいけど、ダメかな?」

「ダメです」


 葵人は手を繋いでいたかったようだが、舞美は拒否する。映画を観ているときは許してしまったが、今はいけないと思った。

 葵人は無理やり繋ごうとせず、すんなりと手を放す。


 舞美は前を歩く葵人の背中を見ながら、さきほどまでのぬくもりが消えた左手を胸もとに寄せた。


 なんだかちょっと寂しいような……って、なにを思った?

 舞美は一瞬抱いた感情を打ち消そうと、頭をブンブンと振る。


「舞美さん?」


 舞美は不思議そうに自分を見る葵人から視線を逸らした。

 気持ちを整理しないと……。


「お手洗い、行ってきます」

「あそこで待っているね」

「はい」


 葵人が指差した赤い椅子を確認して、舞美はトイレへと急いだ。

 やっと逃げ場ができた。


 舞美が葵人のもとに行くと、葵人は読んでいたパンフレットを閉じた。


「お待たせしました。パンフレット、買われたんですね?」

「おもしろかったから、今日の記念にね」

「私も読んでみたいから買ってこようかな」

「あ、舞美さんの分もあるよ」


 葵人は二つのビニール袋を持っていた。渡された袋の中には、同じパンフレットが入っている。

 自分の分まで買ってくれていたとは……舞美は目を丸くした。


「ありがとうございます。あの、お金……」


 舞美はバッグから財布を取り出そうとするが、葵人に止められる。


「いらないよ。俺が勝手に買ってきたのだから」

「でも、映画のチケット代も出してもらいましたし」

「んー、じゃあ、このあとは俺の行きたいところに付き合ってくれる?」

「いいですけど」


 駐車場に戻り、車は舞美の家と逆方向に走りだした。

 どこに向かっているのだろうか……舞美は不安な気持ちになった。

 車の中では、逃げ場がない……。

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