ノアとレオナルド。二人の出会いは、国境にある小さな村であった。
前線かられていたが敵国には違いないので、ノアは新しく赴任する指揮官の護衛として選ばれた。
護衛と言っても求められたのは戦闘力ではなく、転移魔術の腕だ。魔法に長けた王宮魔術師といえど、複数人を難なく転移させることができるのはノアくらいのものである。
婚約者の異母兄。
名乗られる前にその姿を見た瞬間、エレオノーラの血縁だとすぐにわかった。
髪色もだが、なによりその目がそっくりだ。
瞳の色だけでなく、切れ長で涼しげな目元が瓜二つであった。
自分の代わりに赴任する指揮官に対し、レオナルドは朗らかに挨拶した。
友好的な態度だが、ことの経緯を知っているノアは面くらった。
今回の辞令はレオナルドの功績を奪うものだ。
表面は取り繕っていても、理不尽な命令に、腹の底では怒りや悔しさが渦巻いているに違いないというのが、ノアを含めた周囲の認識だった。
現にレオナルドの後ろに控える、彼の部下達は刺々しい雰囲気をまとっている。
歓迎オーラをまき散らしているのはレオナルドのみ。ノアたちが足を踏み入れた村の住民は不安そうな顔をし、この地に残留となる兵士達は、理不尽な人事異動に憤りを滲ませていた。
レオナルドは後任の指揮官に引き継ぎを行うと、拍子抜けするくらいあっさりと退室した。
部屋に残された部下たちが、慌てて隊長だった男を追いかけた。
「……ルキウス殿は、風魔法にも優れていると聞いたが、試しにこの場で披露してもらえないだろうか」
言外に盗聴しろという命令だ。
『隊長! オレは悔しいです!』
『手柄横取りして、危険地帯に飛ばすなんてそんな真似がまかり通っていいんですか!』
『抗議しましょう!』
案の定、憤った男たちの声が風に乗って届いた。
『――私はまったく気にしていない。だから、お前たちも余計なことはするなよ。危険地帯というが、これはチャンスだ。前線に飛ばしてくれるなら、もっと大きな手柄を立てられる。それこそ横取りできないようなドデカいのをな』
『隊長。本気で言ってるんですか?』
『ああ。よく聞け。私は武功を立てたくて、出世したくて兵士になったんだ。これくらいで満足するつもりはないし、一回きりの功績で終わるつもりもない。どこに飛ばされようと戦果をあげてみせるし、何度だって手柄を立ててやる。大量の武勲を立てるんだ。ちょっとばかりかすめ取られた程度で、いちいち腹を立てたりはしないさ』
悠々とした声音からは、これが虚勢ではなく、レオナルドが本気で言っているのだと伝わってくる。
レオナルドの言葉に、興奮していた部下たちも落ち着きを取り戻した。
『最期の命令だ。お前達は後任の指揮官を支えて生き残れ。できれば今まで通りに村民との関係を維持したいところだが、もし新しい上司が
『……』
レオナルドの言葉に、彼の部下だけではなく、盗み聞きしていた指揮官も息を呑んだ。
「……どうされるのですか?」
「上手くいっているのだ。ことを荒立たせる必要はあるまい」
彼らの会話を聞いてどんな決断を下すのか。つい気になったノアが質問すると、眉間に皺を寄せながらも新任指揮官はレオナルドの立てた方針を維持すると告げた。
*
国境の村では、ノアはレオナルドと軽く挨拶をしただけで終わった。
異母妹の婚約者という存在が気になるのか、レオナルドからは始終もの言いたげな目で見られた。
ふと目が合ったとき、見られているなと気づいた時、ノアは居心地の悪さよりも妙な緊張感を覚えた。
公爵家に生まれ、こと魔法に関しては抜きん出た才能を持っていたノアは幼い頃から人目を集めることが多かった。
人の視線には慣れているはずだったのに、なぜだかレオナルドに見つめられると意識してしまうのが不思議だった。
二度目の邂逅は、それから数年経ってからのことだった。
長引く戦争に、ついに魔術師たちも戦地で後方支援を行うことが決定した。
ノアが配属されたのは前線に近い砦であり、そこにはレオナルドが既にいた。
あの日の宣言通りレオナルドは行く先々で活躍し、軍部のみならず王都の宮廷人ですら彼の名を知らない者はいなかった。
「ルキウス公子、杯が空ではありませんか」
水源に恵まれない地域では、飲料水の代わりに度数の低い酒を飲む。
ジュースのようなものだからと、幼い子供ですら飲み干せる程度のものだが、生まれつき酒を受け付けない体質のノアは、一口だけでも身体がカッと暑くなり、次いで体温が急激に下がる。無理して飲み干せば、頭が痛くなり、長時間吐き気に苛まれる。
戦地で食糧は貴重なものであり、飲むふりをして後でこっそり捨てるのが憚られたノアは、酒を注ぐふりをして水魔法で杯を満たしていた。
魔法で生み出した水は、飲料水とは全然味が違う。
純粋な水がこんなに不味いとは思わなかったが、スープの水分だけでは脱水症状を起こしてしまう。背に腹は代えられないと、我慢して過ごす日々だった。
砦の食堂は階級や役職関係なく人が集う。
公爵家の人間とお近づきになれるチャンスは滅多にない。
家に残らない三男とはいえ、ノアとの繋がりに価値を見いだす人間はそれなりにいる。
唐突に声を掛けてきた兵士も、そのうちの一人だった。
本人としては気をきかせたつもりなのだろうが、余計なお世話だ。
ノアと付き合いのある人間や、それなりに社交界の事情に通じている者はノアが下戸であることを知っている。
なにも知らない男は笑顔で、卓に置かれた樽から酒を注いだ。
たかが一杯、されど一杯。
本人の返事を待たずに勝手なことをするのは無礼な振る舞いだが、一杯程度なら仕方がないと大抵の人間は飲み干すところだが、ノアにはそれができない。
どうしたものかと迷っていると、スッと腕が伸びてきた。
「悪いがその酒をもらえるか」
「レ、レオナルド隊長!?」
「食器を返却した後で、もう一杯飲みたくなってしまってな」
「えっと……」
「まだ口をつけていないんだろう」
それっぽい理由をつけているが、レオナルドの不自然な介入に男は目を白黒させた。
時の人として名高いレオナルドが自分が注いだ酒を欲しがっていることについて、どう解釈したらいいのか判断がつかないのだろう。
「君の杯を奪ってしまうことになるが、構わないだろうか。ノア」
目を合わせて名前を呼ばれた瞬間、まだ酒を口にしていないにも関わらず体温が急激に上昇した。
「あっ、ああ……ええと、エレオノーラが君のことをノアと呼ぶものだから、つられてしまった。馴れ馴れしかったよな」
「い、いいえ。光栄です」
なんてことのない会話なのに、ノアはしどろもどろになった。
もっと気の利いた返事はできないのかと、内向的な自分の性格が恨めしくなる。
「ありがとう。それと君、人が飲める酒の量は個人差がある。兵糧が限られている戦場では、平時のような気働きが褒められるとは限らないぞ」
「もっ、申し訳ございません!」
遠回しに貴重な食糧を無駄にするな、と注意されて男はかしこまって謝罪した。
「目端が利くのはいいことだ。今後は卓の状況ではなく、仲間の怪我を気に掛けてくれ」
「は、はい!」
レオナルドは、異母妹からノアが下戸であることを聞いていたのだろう。
個人の体質を勝手に明かすことは憚られたのか、ノアが飲めないことを伏せたまま、レオナルドは未来の義弟を庇った。
我に返ったノアが礼を言う前に、用は済んだとばかりにレオナルドは立ち去ってしまった。
遠ざかる背中を見送りながら、ノアは飲めない酒を無理に飲んだ時とも緊張とも異なる胸の高鳴りを感じていた。