セギ兄が私の家庭教師をすることになった日の翌日。
四限目終了のチャイムが鳴ってからも、私はノートを広げたままぼんやりと窓の外を眺めていた。
高校二年生の教室は四階建て校舎の三階にあり、私のクラスの窓からはちょうどグラウンドを囲うようにして植えられている桜並木が見えた。もっとも、今の季節は夏なのでどれも新緑の葉をつけている。初夏の汗ばむ陽気の中、吹き流れていく風に枝を揺らしていた。
そんな枝葉に視線を留めていると、どうしてもセギ兄とのことが頭の中を過ぎる。
昨日、ひととおり数学の基礎について復習をした後、帰ってきたお母さんを交えて家庭教師のスケジュールなんかについて話をした。家庭教師は、セギ兄の講義やバイト、サークルなんかの予定も考慮して、週二の不定期で行うこととなった。SNSの連絡先も交換し、お互いの都合がつく日時を伝えて調整するのだ。そのほか、課題や勉強をしていてわからないことはメッセージでその都度聞く、ということになった。
つい、笑みがこぼれそうになる。
私がスマホを持ったのは中学生の途中からなので、既に疎遠になっていたセギ兄の連絡先は知らなかった。それが、思わぬ展開から連絡先を手に入れただけでなく、メッセージを送る口実もできた。
ポカポカと心が温かくなる。
私って、意外と単純なのかもしれない。すっかり諦めたはずの初恋の人の連絡先を知れただけで、こんなにも嬉しくなるのだから。
もっとも、嬉しいことばかりでもない。セギ兄のSNSのヘッダー画像はサークルか何かの集合写真になっていて、そこにはとても私なんかとは釣り合わないくらいの美人で可愛い女子大学生の人たちがたくさん映っていた。わかっていたこととはいえ、実際に写真で見せられると心がどうしてももやついてしまう。
あんまり気にしすぎないようにしよう。
昨日の夜、寝る前に決めたことを再度心の中で唱える。セギ兄は今日の午後も空いているらしく、昨日に引き続いて今日も家庭教師をやってもらうことになっていた。たった一日であれこれと思い悩んでいては、心がいくつあっても足りない。
私は小さく首を横に振ってから、ふうとひとつ息をついた。
「ゆーづき。なーにたそがれてるの~?」
そこで、私の視界を遮るように愛佳が顔をのぞきこんできた。その右手には、お弁当の入った袋が提げられている。
「んーん、なんでもないよ」
もうお昼か、なんて思いながら、私は白紙上の罫線ばかりが目立つノートを閉じた。愛佳はきっとあんまり授業を聞いてないだろうから、後で他の友達に板書を見せてもらわないといけないな。
「もしかして、恋に悩んでるとか?」
「まさか。愛佳じゃあるまいし」
「えーでもその表情は絶対なんかあるよ。ほら、さっきの古典で解説してた、物思いに耽るってやつ!」
前言撤回。どうやら珍しく愛佳は授業を聞いていたらしい。あとでノートを見せてもらわないと。
そんな自分勝手な考えに内心苦笑しつつも、私は彼女が気にしている「物思い」についてどう答えようかと思案し、口を開く。
「まあ、考え事をしてたのはそうだけどね。恋とかじゃなくて、朝のホームルームで配られた進路希望調査どうしようかなって」
「あーそれね! それはあたしもめっちゃ悩んでる。陸斗と付き合ってた時は関西に行こうと思ってたけど、もうどうでもいいからね。それよりも今は
「へえーそう、なんだ……?」
またいつものごとく「陸斗」の名前が出てきて半分聞き流そうとした矢先、聞き慣れない名前が続けて出てきて、私は思わず愛佳の方を見やった。
愛佳の顔は、これでもかとにやけていた。
すぐに察した。あ、これは、また面倒な話を聞かされるやつだと。
「んふふふふっ! 聞いて聞いて! 実はねー! あたし、カレシができたの!」
予想通り、愛佳は興奮気味に想定していた通りの言葉を投げてきた。私は机の横にかけていたビニール袋からコンビニで買ってきていたパンを取り出し、ひと口かじってから尋ねる。
「それはおめでとうだけど、もうできたの?」
「そう! もうできたの! 四組の
「あの、サッカー部で副キャプテンしてる?」
「そうそう! その琉生にね、陸斗の愚痴聞いてもらってたの。ほら、同じサッカー部だから。琉生ってばほんと聞き上手で優しくて、あたしの愚痴を嫌な顔ひとつせずに聞いてくれてたのね。昨日もたまたま帰りが一緒になってさー。駅前のカフェで話し込んでたんだけど、その帰りにね、告白されちゃった!」
「へえー」
私はもそりもそりとメロンパンを食べつつ、頭の中で同学年の生徒の顔を検索していた。
宮坂琉生。背が高くて、吊り目がちのクールな男子生徒だ。愛佳の元カレである秋林陸斗先輩の後輩で同じサッカー部に所属している、ということしか知らない。一応、去年同じクラスになったものの、ほとんど話したこともなく二年に上がったので顔のイメージもかなり曖昧だ。
そしてどうやら、愛佳はその宮坂くんに元カレの愚痴を聞いてもらっていたらしい。マシンガンのようにあれやこれやと話す愛佳の愚痴をずっと聞いてくれるというエピソードだけでも、かなり気の長い人なんだろうと予想できた。
「それでねそれでね! 今日の放課後に今話題のドーナツ売ってるお店に行こうって話してるの!」
昨日までの悲しさをはらませた笑顔とは異なる、純粋な笑顔を愛佳は浮かべる。心の底から幸せそうで楽し気な表情に、なんだかこっちまで嬉しくなってくる。
「そっか。良かったね、愛佳」
つられて、私も小さく笑った。
やっぱり、愛佳は素直に笑っているのが一番似合っていると思う。いつまでも過去の恋愛を引きずって嘆く姿は、愛佳には似合わない。
「あれ、そういえば」
ドーナツ屋さんに行く話から、次の休日にデートに行く話に移り、さらにそこからいったいどこに行けばいいだろうという話題に入ったところで、私はふと思い至った。
「ねえ、愛佳。もしかして、玉手箱を開けたの?」
愛佳はずっと、過去の恋愛の縁を切って、未来の恋愛の良縁を結ぶ『縁切り結びの玉手箱』にご執心だった。昨日の昨日まで、「玉手箱を探そう」と私を誘ってきていたくらいだ。あれだけ熱心に縁切り結びの玉手箱を求めていたのなら、もしかすると私以外の誰かと一緒に玉手箱を探して見つけ、開けたんじゃないだろうか。
あまりにも昨日までと状況が違っているので、そう思って訊いたが、当の本人である愛佳はふるふると首を横に振った。
「まさかまさか。あたし、陸斗のことまだいろいろ覚えてるよ。それに、玉手箱は探そうとしたけど全然ダメだった。昨日だっていろいろ訊いて回ってたけど時間ばっかり過ぎてさー、ほんともったいないことしたって思う。まあ、そのおかげで部活終わりの琉生と鉢合わせたんだけどねーーんふふふ」
「そ、そっか」
どうやら、この急展開は本当の本当に偶然が重なってできた良縁らしい。普通にすごい。
玉手箱を探していたら思いがけず宮坂くんと出くわして、そのまま付き合うことになったとかいうエピソードは普通に良い話だし、きっとこんな話が派生して『縁切り結びの玉手箱』みたいな摩訶不思議物語ができるんだろうなと、なんとなく思った。
「でさでさ! 話は戻るんだけど、次の休日のデートって、どこ行ったらいいかな? 水族館とか動物園もいいけど、ショッピングもしたいんだよね。ただ初デートだから最初は映画とかもっと間が持つ無難な方がいいのかな。あれ、っていうか、何着て行ったらいいんだろ。やばい、まだあたし夏服買ってないじゃん!」
「まあ、愛佳ならなんでも似合うし、大丈夫だと思うよ」
またいつものようにあれやこれやと話しまくる愛佳に肩をすくめる。
玉手箱に頼らず、クラスの違う同じ学年の男子とこうして良縁を結べた愛佳なら、どんな服を着ても、どんな場所に行っても、どんなデートでも上手くいくと思う。そもそも、放課後に失恋した愚痴なんかも交えてカフェで話し込むほどに親しくなれたのなら、間が持つとかそんなことを気にしなくてもいいんじゃないだろうか。それに同い年なんだから、共通の話題くらいいくらでもあるだろうし。
「ねえ、柚月。今日の放課後って時間ある?」
「いや、今日はちょっと」
「じゃあ夜にいくつか服の写真送るから、どれがいいか相談に乗ってよー」
「はいはい」
微かな羨ましさを感じながら、私は適当に頷いておいた。