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第5話「終わったはずの初恋」

 どうしてこうなったのか。

 私は、本日二回目となる自問自答をひとり胸中で繰り広げていた。

 場所はリビングから切り替わり、私の自室。たまたま昨日、軽く掃除をしていたおかげで埃や塵は落ちていないのがせめてもの救いだ。

 そしてローテーブルを挟んで目の前に座っているのは、先ほどまで主にお母さんと話していたセギ兄。柔らかな雰囲気の面影は残りつつも真剣な表情で数枚の紙切れを順番に凝視している。

 若干気まずい沈黙が漂う。物音はない。お母さんは夕ご飯の買い物に行くとかで、なぜかご機嫌な様子で足取り軽く鼻歌を歌いながら出かけて行った。それはすなわち、この家の中には私とセギ兄の二人だけしかいないことを意味している。少女漫画や映画なんかではドキドキ必至の状況にもかかわらず、私は全く別の意味で緊張を強いられていた。


「なるほどね」


 トン、とセギ兄は紙切れの束をテーブルの端で整えた。私はごくりと生唾を飲み込む。


「これは確かに、ちょっと頑張らないとかな」

「うっ」


 面と向かって言われ、私は言葉に詰まる。目を背けていた現実を他でもないセギ兄に突き付けられ、恥ずかしさも相まって彼の顔が見られなくなる。

 セギ兄が見ていたのは、高校二年生になって最初にあった高校一年生の振り返りテストと、先々週にあった中間試験の問題用紙と私の解答用紙だ。


「あんまりユヅちゃんと勉強の話はしたことなかったけど、勉強苦手だったんだね」

「う、うん……」


 テーブルの上に置かれた用紙の束の一番上には、中間試験の得点表がある。

 現代文・古典、10点。

 日本史B、22点。

 地理B、12点。

 数学IA、8点。

 数学ⅡB、6点。

 生物基礎・地学基礎、18点。

 英語RW、20点。

 英語L、15点。

 情報、70点

 総合点、181点。

 学年順位、377番/398人中。


「ひどいよね、私の点数」

「まあ、良くはないかな」


 セギ兄は困ったように眉を下げた。直接的な言葉を使わない優しさがにじみ出ている反面、セギ兄にそんな気の遣われ方をするとかえって心にくるものがあった。


「じゃあとりあえず、次のテストの赤点回避を目標に頑張っていこうか」

「よ、よろしくお願いします……」


 どうしてこうなったのかなんて、考えるまでもない。私の中間試験の酷さを、私が悶々とセギ兄との関係に悩んでいる時にお母さんがバラしたからだ。特に、勉強のできたセギ兄には知られたくなかったのに。

 きっと内心では引いているだろう。幻滅しているかもしれない。最悪だ。

 ただでさえ陰鬱としていた気持ちが、さらに落ち込む。私はセギ兄に言われるがままにとりあえず数学の教科書を開くも、まるで身が入らなかった。


「数学はね、他の科目と違って明確な答えが決まっている科目なんだ。だから、まずは簡単な公式から理解していこう」


 セギ兄は教科書に書かれた例題を元に、中学の範囲である公式から説明を始めた。高校受験の時に死に物狂いで頭に叩き込んだが、すっかり忘れて抜け落ちてしまっていた公式。そんな公式のおおもとになっているらしい考え方を、セギ兄は丁寧に解説してくれる。

 さすがだった。

 セギ兄の説明は、とてもわかりやすかった。とにかく時間をかけて詰め込み、仕組みなんてすっ飛ばして勉強してきた私でも理解できるほどに、セギ兄は私の理解度に応じた説明をしてくれた。


「方程式の文章問題は、簡単にでも一度グラフにしてみるといい」


 ちんぷんかんぷんで白紙だった問題も、セギ兄が解き方を誘導してくれるおかげで少しずつ途中式なるものがノートにできあがっていく。まるで一寸先も見えない暗闇の中で、答えという光に向かって手を引かれているみたいな、そんな感覚。

 セギ兄と、こんなふうに勉強したかったな。

 不意に思った。ポタリと落ちてきた一滴の雫のように、いつの日だったかに思った叶えることのできない願いを、私は思い出していた。

 セギ兄の亡霊を追いかけるようにして進学した今の高校。

 少しでもセギ兄に近づきたくて、勉強嫌いな私には到底受かるはずもなかったのに、なんの奇跡かギリギリで引っかかった進学校。

 そんなセギ兄の母校でもある高校で、私はセギ兄と勉強してみたかった。

 もし同じ学年だったら、もし同じクラスだったら。

 そんなあるはずのない「もし」を、私は何度も夢想していた。それはあくまでも妄想のひとつで、すっかり疎遠になってしまった今となっては叶えられるわけもないはずだった。

 けれど、そうした空想のひとつが今、思いがけない形で叶っている。


「そうそう、そうやって解くんだ。やっぱり、ユヅちゃんはやればできるな」


 手を引かれて辿り着いた数字を、何行にも並んだ式の最後に書き記す。

 セギ兄の朗らかな笑みが、すぐ近くにあった。

 制服姿ではなくとも、少し大人びた顔つきであっても、私は確かにセギ兄と一緒に勉強していた。


「ふふっ、でしょ!」


 トクトクと心地良い鼓動を感じながら、私も笑ってみせた。

 こうして、セギ兄と私の、切れたはずの縁が再び繋がり始めたのだ。

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