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第4話「終わった初恋」

「いや~ほんとに久しぶりね~! 元気にしてた~?」


 午後の日差しが淡く差し込むリビングに、お母さんの興奮した声が響く。テーブルについたお母さんの真向かいにはセギ兄が座っており、彼は恐縮した面持ちで頷いている。


「ええ、まあ。おばさんも元気そうで良かったです」

「そりゃ当然よ! 私は元気がトレードマークみたいなものだからね!」


 あとお節介もかな、と私は紅茶のティーバッグを棚から取り出しながらひとり思った。私のお母さんは昔から思いつきと勢いで突っ走っていく、いわゆる猪突猛進タイプだ。そんな性格に加えて、有り余る元気とお喋りなものだから、こんな時でさえ油断できない。


「そういえば、聞いたわよ。真くん、金大かなだいに行ってるんだって? すごいわね~!」

「ありがとうございます。なんとかギリギリで受かりまして」

「またまたそんなこと言って~! 真くんは昔から頭が良かったんだから、結構自信あったんじゃないの~? はあーほんとに、うちの柚月も真くんくらい勉強ができてくれたら私も安心できるんだけどねえ~」

「お母さんうるさい」


 ほんとに余計なことを言わないでほしい。セギ兄と二人テーブルで向かい合って座るのが気まずくて、ついお茶とお菓子の用意を買ってでてしまったけど失敗だったかな。


「まあでも、ユヅちゃんもこれからだと思いますよ。僕だって成績が本格的に上がり始めたのは受験勉強を始めてしばらくしてからでしたし。ユヅちゃんは今高校二年生で、受験まであと一年以上あるんですから」

「そうだといいんだけどねえ~チラッチラッ」

「お母さんうっとおしい」


 わざとらしく効果音をつけてこちらを見てくるお母さんの視線を無視し、私は湯切りしたティーバッグをシンクの三角コーナーに投げ入れた。


「まあ、あんな子だから。私も早いうちから勉強しときなさいって言ってるんだけど、てんでやる気ないみたいで」

「勉強しろって言われるほうがやる気なくなるんだけど」

「じゃあ勉強しろって言わなかったらやる気出るの?」

「そうは言ってない」

「ほら~」


 ケタケタとお母さんが笑う。私はどうにか苛立つ気持ちを抑えつつ、トレーに紅茶の入ったティーカップとお菓子を乗せてテーブルまで運んだ。それからやや迷いながらも、セギ兄の隣にあるイスに腰を下ろす。


「ありがとう、ユヅちゃん」

「え? あ、うん」

「なに柚月。照れてるの?」

「照れてないし!」


 ほんとにお母さん、少し黙っててくれないかな。

 私は内心で不満をこぼし、今しがた運んできたばかりの紅茶を一気に半分ほど飲んだ。

 それからは、話題は主にセギ兄が通っている大学の話になった。

 どうやらセギ兄は、大学で経済学を専攻しているらしい。大学二年生の秋から所属している研究室で、マクロ経済だったかマグロ経済だったかの突き詰めた研究や活動をしており、ゆくゆくは卒業論文のテーマを決めていくのだそうだ。なんだか話を聞くだけで難しそうだし、とてもじゃないが数年後の私にそんな専門分野の研究や論文作成ができるとは思えなかった。


「そういえば、真くんはテニス部だったわよね? 大学でもテニスを続けてるの?」

「ええ、一応。でも高校の時のように部活ではなく、ゆるく遊ぶサークルに入ってます」


 あとはそう、大学にはサークル活動というものがあり、セギ兄は大学にいくつかあるテニスサークルのうち、「スカイバレー」という名前のサークルに所属しているらしい。テニスなのにバレー? どういうこと? なんて疑問が浮かぶ矢先、男女比が半々くらいだなんて話が出て、私は純粋に驚いた。まさか、大学のテニスサークルは高校の部活みたいに男女で分かれているわけじゃないなんて。


「ええ~ってことは、もしかしてもしかしなくても真くん、恋人できた?」


 となると、お喋り好きなお母さんの口から飛び出る話題はもちろん恋バナ。「恋人」というワードが出てきて、否が応でも私の心は緊張してしまう。

 セギ兄はわりと大人しいが、見た目は決して悪くない。優しくて柔らかな雰囲気の爽やか系で、短い黒髪や細身でスラっとした体型に映えるキレイ目のジャケットコーデは大人っぽい。その気になれば、恋人なんてすぐにでもできると思う。


「いやー恥ずかしながら、なかなかそっちは上手くいってません」


 けれど、意外にもセギ兄の口からは想像していた言葉は出てこなかった。ほとんど無意識に、私はホッと胸を撫で下ろした。


「だってさ、柚月。良かったねー」

「なにが」


 にやにやと意味深な笑みを浮かべてくるお母さんに、私はぶっきらぼうに答える。その後に盗み見たセギ兄と目が合ってしまい、私はすぐに視線を逸らした。口数の少ない私はひとりで紅茶を二杯おかわりしており、先ほど淹れた三杯目を喉に滑らせる。

 お母さんとセギ兄が話している間、私はどうしても気分が落ち込んだ。

 セギ兄は私なんかと違って頭が良くて、一歩や二歩どころじゃない遥か先でなんだかよくわからない難しい勉強をしている。

 セギ兄はテニスサークルに入り、今は恋人がいないとはいえ、それすらも時間の問題のような環境で大学生活を謳歌している。

 はあ……。

 私はこっそり、ため息をついた。

 セギ兄が小学校を卒業してから、ずっと嫌だった。

 私とセギ兄は、四歳も年が離れている。中学はもちろん、高校も一緒になることはできず、大学ですら同じ時期に通うことはできない。身の回りの環境はすこぶる異なり、ずっとセギ兄に憧れ、淡い想いを抱えていた私はいつも陰鬱とした気持ちと闘っていた。

 それでも、私が小学生の間は、中学生や高校生のセギ兄と一緒にいることもしばしばあった。部活帰りのセギ兄と出くわして一緒に帰ったりだとか、休日にはたまにどちらかの家で遊んだりだとか、それなりに仲良くやっていた。

 私が中学に上がってからだ。セギ兄と一緒にいるのが次第に辛くなってきて、なんとなく避けるようになって、その後自然と交流がなくなっていったのは。

 見たくなかった。セギ兄がどんどんと大人っぽく、男らしく、カッコよくなっていくのが。

 聞きたくなかった。セギ兄が、私を見守るように優しく柔らかくかけてくれる声が。

 知りたくなかった。セギ兄が、どんなふうに中学や高校で過ごしているのかが。

 セギ兄と会わなくなってからは、辛いという気持ちは寂しいに変わっていった。自分から距離を置いておきながら、なんとも勝手だと思った。ただそれでも、セギ兄ともう一度仲良くしようとは思わなかった。辛い気持ちよりも、寂しい気持ちの方が耐えるのは楽だったから。

 それなのに。

 偶然にも大学生になったセギ兄と出くわして、今こうしてセギ兄の近況を隣で聞いてしまっている。

 そしてそれはやっぱり、辛かった。

 変わらないんだな、と思った。私とセギ兄はやっぱり四歳の年の差があって、環境の違いがあって、わからない部分や知らない部分がどんどんと多くなっていた。届くはずのない、清算が完了していない私の気持ちが、じくじくと痛みを伴って胸の辺りに広がっていた。

 そんな痛みを、想いを、一気に飲み込もうと思って、私はまた紅茶の入ったカップを手にとった。


「そういや柚月。あんた、先々週にあった中間試験はどうだったの?」

「え」


 カップを口につける寸前で、不意にお母さんはそんなことを訊いてきた。直近の話を聞いていなかった私は意味がわからず、ポカンと口を開ける。


「平均点、超えられたの?」

「あ、えと、それは」

「またダメだったの?」


 完全に意表を突かれ、私は口籠った。

 なんでこのタイミングで……。それに、セギ兄の前でそんなこと言わないでほしいのに……。

 私の沈黙をお母さんは肯定と受け取ったらしく、やれやれと肩をすくめた。


「まっ、つまりこんな感じなのよ、柚月は。だから、お願いできない?」

「ええ、まあ……僕はべつに、ユヅちゃんがいいなら構いませんけど」

「え?」


 本当に、いったい何の話だ。

 私が交互にお母さんとセギ兄の顔を見やっていると、お母さんはつと私に向き直って言った。


「ということで、柚月。あんたしばらく、真くんに家庭教師をしてもらいなさい」

「…………へ?」


 私はしばらく、その言葉の意味を理解できなかった。


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