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第3話「再会」

 放課後。

 完全に失念していた日直の仕事を終わらせるべく、私は職員室に向かっていた。

 両手で抱えているのは、先ほど印刷したばかりのプリントの束。現実にはか弱い女子に声をかけてくれる男子なんているはずもなく、私はよたよたとふらつきながらも廊下を抜けて職員室に入り、どうにか目的地である古田先生の机まで辿り着いた。


「はあ、重かった……」


 印刷室からここまで一直線とはいえ、さすがにA4のプリントを四十枚以上抱えて移動するのはしんどかった。なんでも急用ができたらしいが、正直女子にやらせる仕事じゃないと思う。

 私は小さく肩で息をしながら、積まれたプリントの山に目をやった。その一番上には、進路希望調査票と書かれている。明日のロングホームルームで使うらしい。

 内心でため息をついた。ほんと、つくづく嫌になる。

 私の通っているこの高校は県内でもそれなりの偏差値を誇る、一応の進学校だ。だから、この進路希望調査票の第一希望から第三希望までの欄に書くのは、自分が進学したいどこぞの大学名ということになる。

 それ自体はべつにいい。私は高校を卒業してすぐに就職したいわけではないし、みんなと同じく大学に進学してキャンパスライフを楽しみたいという気持ちもあるから。

 私が嫌なのは……考えたくなくて、見たくないのは、その進学先候補に真っ先に挙がる、県内でも有数の国立大学の名前だ。


「はあ、帰ろ」


 放課後独特の喧騒やコーヒーの濃い匂いが漂う職員室を軽く見回し、古田先生がいないのを確認してから私は踵を返した。頼まれ事は済ませたし、日誌も机の上に置いてあるから後はもう大丈夫だろう。

 今しがた持ってきた進路希望調査票から、目を背けるようにして足早に出入り口に向かう。なんだか逃げているみたいで癪だと思ったけれど、これ以上視界に入れているとまた良くない記憶が気配をちらつかせそうだったので仕方がなかった。

 さっさと帰って、宿題でもしよ。

 そう自分に言い訳をして、私は随分と年季の入った引き戸に手をかけた。


「わっ」


 咄嗟に、私は驚きの声をあげた。

 無理もない。だって、力を全く入れていないのにひとりでにドアが開いたのだから。古びた木製建具に自動ドアの機能が付いているはずもなく、それが意味するところはひとつだ。


「おっと、すまん……って、天野か」

「あ、古田先生」


 たまたま職員室を出るタイミングと入るタイミングが被った。

 そしてその相手が、偶然にも担任の古田先生だった。

 それだけなら、まだ予想の範疇だった。


「あれ。天野ってもしかして、ユヅちゃん?」


 古田先生の後ろには、黒のテラードジャケットに身を包み、首から入校許可証をぶら下げた、大学生くらいの青年が立っていた。アップバンクの爽やかな黒髪と、目鼻立ちの整った顔つきが嫌でも目に入る。

 私は思わず目を見張った。

 その顔にも、その声にも、私には覚えがあった。


「え、なんで、セギにいがいるの?」

「あははっ。セギ兄って呼び方、懐かしいな」


 私の視線の先には、幼馴染兼「近所のお兄ちゃん」的存在である瀬木真が、数年前と変わらない柔らかな笑顔を浮かべていた。



 どうしてこうなったのか。

 私は何度も自分の心に問いかけていた。

 いつもの通学路。いつものコンビニ。いつもの住宅街。

 今朝、額に汗をにじませながら歩いてきた歩道を、朝とは比べ物にならないほどの暑さを感じながら、私は歩いていた。


「うわあ、ほんと懐かしいな、この道。こうしてのんびり歩いたのは、二年ぶりくらいかも。今じゃ移動はほとんど車だから、なんか新鮮だな」


 もっとも、原因は明白だった。

 私の隣を歩く四歳年上の大学生が、眩しそうに目を細めてつぶやく。心の底から楽しんでいる。そんな彼の気持ちが素直に伝わってくるような、朗らかなつぶやきだった。

 自然と、また私の心は跳ねる。こっちの原因はわからない。一緒に並んで下校しているこの状況そのものが理由なのか。はたまたついぞ叶わなかった昔の願いが思いがけず叶ったことへの喜びが理由なのか。あるいは、それ以外なのか。

 ……いや、どれも違う。

 これはいわば、思い出し笑いのようなもの。

 昔のことを思い出して、つい心が反応してしまった無意識の結果だ。

 だから、そこに今の私の気持ちは一ミリもない、はずだ。


「そうなんだ。じゃあ、卒業以来ってことだね」


 私はそんな忙しない心の内を気取られないよう、努めて平静を装って答える。話すのが久しぶり過ぎてなかなか調子は出ないが、真横を歩く「近所のお兄ちゃん」はまるで気にしたふうはなかった。

 瀬木真。

 私だけの通称は、セギ兄。

 同じ町内に住む、幼稚園の頃から一緒に遊んでいた幼馴染で、今は県内の有名国立大学に通う三年生。

 そして……かつて好きだった、私の初恋の人だ。

 そんな優しくて、柔らかな雰囲気を醸し出すセギ兄は、昔を思い出すように周囲を見渡す。


「ああ。だから高校もめっちゃ懐かしかった。たまたま近くに用事があって、ついでに挨拶ができればなって古田先生に電話してみたんだよ。そしたらまさか、今はユヅちゃんの担任してるんだもんな。ほんと驚いた」


 未だにぎこちない私と違って、セギ兄はあの頃と変わらない様子ではにかむ。だから私も、どうにかあの頃の調子を真似てみる。


「えー、驚いたのは私の方だよ。職員室から出ようとしたらセギ兄がいるんだもん。心臓が口から飛び出るかと思った」

「あははっ。確かに、そんな顔してたかもな」

「もうー」


 あけすけに笑うセギ兄に、私はむくれてみせた。うんうん、いい感じだ。少しずつ、あの頃の調子が戻ってきている。私が中学に上がった辺りから、なんとなく疎遠になってしまっていたけれど、こうして時間をおいて話してみれば案外なんてことはない。

 それから私は、セギ兄と一緒にいつもよりも随分とのんびりしたペースで家路を歩いていった。

 普段なら少しでも夏場の太陽に当たる時間を少なくしようとせかせか帰るのだが、今日ばかりはセギ兄がいることもあって絶対にしないような寄り道もした。


「おっ、この公園懐かしいな~」

「あーね。私が小一の時だっけ? ほら、セギ兄とかくれんぼしてたら寝ちゃって、気づいたら隣で探しに来たセギ兄も寝てたの」

「はははっ、あったあった。それで二人して眠りこけて、心配して探しにきた親父たちにめっちゃ怒られたんだよな」

「そうそう! あれからしばらくはかくれんぼ禁止になったんだよね」

「そうだそうだった。でも確か『じゃあ、隠れ鬼ならいいだろ』みたいな屁理屈こねて、結局遊んでたんだよな。いやーマジで懐かしい」


 道中にある公園を横目に、思い出話に花を咲かせた。話は盛り上がって、いつもならサッと通るだけなのに今日は中に入って少しばかりブランコを漕いでみたりした。高校生と大学生が二人してブランコを漕いでいる姿はなかなかにシュールで、私たちは漕ぎ終わってから二人して笑い合った。


「あれ、ここにあったコンビニ潰れちゃったんだな」

「あーそうなんだよね。店長やってたオーナーのおばあちゃんが入院しちゃったとかで、それで去年だったかになくなったの」

「去年かー。わかってたらもう一回くらい行っとくんだったなあ。ユヅちゃんが散々お菓子の棚の前で駄々をこねくり回したコンビニに」

「いつの頃の話をしてるの! というか恥ずかしいから忘れて今すぐに」


 コインランドリーになってしまったコンビニの跡地の前では、セギ兄をはたいてみせた。昔はよくセギ兄をどついたり、セギ兄に飛び乗ったりしていたこともあったからか、不思議と違和感はなかった。それはセギ兄も同じようで、特段怒ることも戸惑うこともなく笑っていた。

 そう、違和感はなかった。まるでパズルのピースみたいに、この上なくしっくりきていた。これがあるべくしてある関係で、ほかの関係なんて考えない方がいい。そんな実感が、セギ兄と疎遠になる前のようなやりとりを交わしていくうちに、じわじわと胸中に広がっていった。

 そうこうしているうちに、私の家の前まで来た。


「せっかくだから、おばさんにも挨拶してっていい?」


 予想していた提案が、予想していた通りの言葉でセギ兄の口から出る。

 あの頃なら、まだセギ兄と疎遠になる前の私なら、特に悩むこともなくすぐに承諾している提案だ。今だって、道中のやりとりを振り返ってみれば、私たちの間に流れる空気はすっかり元通り。疎遠になる前の、「仲良く遊んでいたユヅちゃんとセギ兄」なのだ。だからセギ兄も、断られることなんておそらく予想はしていない。


「……あー、でも、実はお母さん、今日は家にいなくて」


 数瞬の逡巡ののち、私はためらいがちに愛想笑いを浮かべて、そんな返答をした。

 やっぱり、無理だと思った。

 表面上はあの頃に戻れても、やっぱり心の中までは、戻り切れそうもなかった。

 すっかり色褪せて埃を被ってしまったはずの想いが、どうしても蘇ってくる。幻影みたいに頭の中をちらついて、実はまだ清算し切れていないことを突き付けてくる。

 今日はもう、これ以上セギ兄と一緒にいたくなかった。


「あー……そう、なんだ。それなら、仕方ないか」


 言葉通り受け取ってか、あるいは避けていた時の私を思い出してか、はたまた私の反応から何かを察したのかはわからないが、私の言葉にセギ兄は歯切れ悪く苦笑を返す。せっかく戻っていた雰囲気にまた、暗雲が立ち込め始める。


「うん、ごめんね。だからまた、お母さんがいる時にでもゆっくり話そ」


 これでいい。

 これで、私が改めて誘わない限り、セギ兄とこうしてゆっくり話すことはきっとない。

 でも、それでいい。それで――


「あら~! 君、もしかして真くんじゃない? 久しぶりね~!」


 そこへ、いやに甲高い声が上から降ってきた。

 ハッとして目を向ければ、二階の窓からお母さんが嬉しそうな笑顔で手を振っていた。


「え、お母さん?」

「あ、どうも」


 困惑する私の声と、思わずといった様子で挨拶をするセギ兄の声がハモった。

 なんて、タイミングの悪い。

 私は、内心でため息をついた。


「ごめん、お母さん帰ってたみたい。上がってく、よね?」


 ここまできたら、断るなんてできない。

 私がぎこちなく尋ねると、セギ兄もおもむろに頷いた。

 こうして、数年ぶりにセギ兄を家に招き入れた。


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