愛佳とわかれて家に帰ると、お母さんが迎えてくれた。
「おかえり、柚月。愛しの真くんはまだ来てないわよ」
「い、愛しとかじゃないし!」
意地の悪い笑みを浮かべるお母さんの真横を通り過ぎ、私はそそくさと自室に引っ込んだ。
でも、良かった。まだセギ兄が来ていないなら、もう少し心の準備ができる。
私はエアコンをつけると、制服から私服に着替えて念入りに汗を拭いた。夏の暑さのせいか、はたまたセギ兄のことを考えていたせいか、異様に火照っていた身体や頭を冷やしていく。
一応、下校中に頭をフル回転させてこの後の行動については考えてきた。
私たちの通う高校では、もうすぐ夏休み前の期末試験に向けたテスト週間が始まる。テスト範囲が終わった授業は自習が多くなり、放課後の部活は一律で禁止され、学校全体が試験に向けての勉強モードに入るのだ。そしてその後には三日間の試験日があり、その後の数日で採点された解答用紙が返却されて夏休みに入る。つまり、本来ならこの期末試験期間は夏休み前最後にそびえ立つ壁なのだ。
けれど私は、この壁を利用してなんとかセギ兄に先日のショッピングモールでのことを聞き出したいと考えていた。
一番良いのは、タイミングを見つけて家庭教師の時間帯に訊けることだ。しかし私は、今日の愛佳みたく真っ向勝負なんてできる度胸も自信もない。むしろ緊張やら恐怖やらで日和ってしまう可能性のほうが高い。それなら、試験範囲でわからないところを尋ねる口実でメッセージを送って、それとなく訊いてみるという方法も確保できるこの期末試験期間を利用するのがベストなのだ。なんてことを別れ際に愛佳に話したら「動機が不純すぎる! この不良娘め!」などとツッコまれたが、まあ知ったことじゃない。
それに、ちゃんと試験勉強もするつもりでいる。あまりにも赤点ばかりだとせっかくの夏休みが補習でつぶれてしまうし、セギ兄にアプローチする機会も減ってしまう。自分の中にくすぶっているのが初恋の残滓ではなく初恋そのものなのだと気づいたんだから、なんとかして今年の夏休みは家庭教師以外にセギ兄と遊びに行けたら、なんて思っている。
「……まあでも。セギ兄と遊ぶにしても、とにかく期末を頑張らないとだよね……」
壁にかけたカレンダーを見つめながら、私はひとつ息を吐いた。
前回の中間は八個も赤点があったが、今回はなんとか半分以下にはしたい。最近はいろいろあったけどそれでも勉強はしていたし、なんとか……いやでも、集中できてない時もあったしな……大丈夫かな。うーん……なんだか自信なくなってきたぞ……。
「ユヅちゃん?」
「ほわあっ!」
思考の沼に沈みかけているところでいきなり名前を呼ばれ、私は跳び上がった。足元がおぼつかず、よろけるようにして振り返ると、半開きに開いたドアの隙間から同じように驚いた顔のセギ兄がこちらを見ていた。
「いや、ごめん。ノックしたんだけど、返事がなかったから」
「あ、そ、そうなんだ。ごめんごめん、ボーっとしてた」
心臓がうるさいくらいに高鳴っている。全身の血液が沸騰しそうだ。煮立った血流の濁流に呑まれたかのように頭もくらくらしてくる。
「と、とりあえず入って座ってて。お茶持ってくるし」
準備なんてまるで完了していない心を落ち着けるべく、セギ兄に座るよう促してから私は部屋を飛び出した。リビングを通ってキッチンに行くと、またもお母さんにニヤニヤと底意地の悪い笑みを向けられたが無視した。私は小さく深呼吸を繰り返して無理やり気持ちを落ち着け、麦茶を二つ持ってリビングを出る。
ほんとにもう、タイミング悪すぎじゃない?
階段を昇りながら内心で頭を抱える。まだ幸いなのは、部屋での独り言は聞かれてなさそうな感じだったことか。
いやでも、聞かれたら聞かれたで誘う手間が省けたし、開き直れば遊ぶ約束ができたかもしれない。……あーでも、そんな約束を期末試験前にしてしまったら心が浮ついて勉強どころじゃないか。んーあれ、いやむしろやる気が出ていい点に繋がったかも? ……って、こういうところがダメなんだってば、もう。
キッチンで整えたはずの胸の内を、私はもう一度深く息を吸い、吐いて落ち着ける。
うん、大丈夫だ。愛佳も玉手箱を開けちゃったけど、自分の気持ちに正直に行動して、関係に区切りをつけたんだ。私だって、できることを頑張っていこう。
「お待たせ~セギ兄。いい子にしてた?」
「まさかユヅちゃんからそんなふうに訊かれるとは思ってなかったけど、いい子にしてたよ」
「それはなにより」
いい子にするのはむしろ私のほうじゃないだろうかと思いもしたが、すぐさまそんな思考は彼方へ放り投げた。いつも並んで勉強をしているローテーブルに麦茶を置き、互いにひと口ずつ飲んでから勉強を始める。
「それじゃあ、そろそろ期末試験に向けた勉強を始めていこうか。もうそろそろだよね?」
「えっと、来週の後半からかな。少しずつ勉強はしてるけど、やっぱりわからないとこ多くて」
「よし、じゃあ試験範囲を軽く見てから、早速中身に入っていこうか」
「はーい」
この時間だけはセギ兄を独り占めできる。
そんな幸せと、やっぱり好きだなあと思ってしまう心の温度を感じながら、私はノートに向き合った。