どうやってテラスを後にして残っていた仕事を片付けたのか正直よく覚えていない。それなのにちゃんと会社を辞して電車に揺られ、住んでいる賃貸マンションに辿りつけるのだから身体に染み付いている日常の習慣って凄い…なんて、浅い感想を心で呟く。
「はぁ…」
また深い溜め息が口から落ちる。久しぶりに今日はとても疲れた。その原因は明白で、水野先輩から交際を申し込まれそれを断るのに殆どのエネルギーを消費したからだ。
「痛っ」
突然、頭を突き刺す様な鋭い痛みに襲われ、思わず立ち止まった。痛みを弱める効果なんてないと分かっているにも関わらず、いつも手で頭を押さえてしまう。ズキズキともガンガンとも捉えられる独特な痛みに無意識に顔が歪む。足の力も抜けていき、壁に手をついてやっとの思いで身体を支える。
どうせもう少し経てば嘘の様に痛みが引いていくから、もうちょっとの我慢だ。そう思ったところで、自分がすっかりこの激しい頭痛に慣れてしまっている事実に気が付いた。
それもそうだろう、何せこの謎の頭痛とは幼少期からの付き合いになる。両親が心配してくれて何度か病院に診て貰った事もあったけれど原因は不明のままだ。以前は一ヶ月に一度起こる程度だった頭痛に変化が現れたのは、大学を出て就職し、独り暮らしを始めた頃からだ。ここ二年は予兆なく頻繁に訪れるこの痛みに苦しんでいる。病院に行かなきゃなと思いはするが、色々と多忙で実際には行けていない。
「…ふぅ」
頭痛が出現してからどれくらいが経ったのだろうか。蝕んでいたはずの痛みは跡形もなく急激に引いていき、途端に頭が軽くなる。毎回この感覚には吃驚する。まるで何事もなかったみたいに身体は動き、歩行だってすんなり再開できる。それでも、次はいつ起こるのだろうかという一抹の不安は常に頭の片隅にあり、私は頭を悩ませている。
悩みの種がそれだけだったらまだマシだったのかもしれない。この頃、正確には三ヶ月程前から私にはもう一つの悩みが追加された。
「疲れた…明日は大人しく在宅にしよう」
最後の最後に起きた頭痛が私の疲労感が限界を迎える決定打となったらしい。すぐにでも着替えてソファで寛ぎたい衝動に駆られながらエントランスを潜り、機械に部屋の鍵を翳せば借りている部屋の番号が記載されている郵便受けが反応して開く。中を覗いてすぐに飛び込んできた光景に反射的に顔を顰めた。
「まただ」
『死ね』丁寧に血糊の様な物でそう書かれた紙と私が写っている写真が二枚。その両方が盗撮されたと思しきそれで、私の両目に針が刺されている。恐怖で震える指先を誤魔化す様にぐしゃぐしゃに紙を丸めて鞄に押し込んだ。さっき述べていた私のもう一つの悩みの種。それは…―。
「写真は初めてだ…いつ誰が撮ったの…」
何者かからの陰湿で悪質な嫌がらせ行為を受けている事だ。
最初は紙屑の山が郵便受けに入れられている位の小さな嫌がらせだったのに、日を追うごとに着実に過激さが増している。本来ならば警察に相談するべきなのかもしれないけれど、彼や家族に迷惑を掛けてしまうかもしれないと思うとどうしても躊躇してしまうのだ。
恐怖で上手く酸素が吸えない。一体私が何をしたというのだろうか、何か誰かの癪に障る様な事をしただろうか。思い返してみても全く心当たりがないのが余計にこちらの恐怖心を煽り立てる。
盗撮されていたのは会社のお昼休憩で外に出た私の姿だった。つまり嫌がらせ行為をしている人間は私の住まい以外にも職場まで把握しているという事になる。震える唇を抑える為に歯で噛んだその瞬間、鞄に入っていた携帯が通知音を響かせメッセージの受信を知らせた。
『会いたいから来て』
画面に表示されたメッセージを確認した私は、途轍もない疲労感を覚えていたはずなのに無意識のうちに外へ飛び出して、拾ったタクシーに乗り込んでいた。
閑静な住宅街を抜けて暫くすると、車窓から流れる景色は大都会のそれへと変わっていく。赤信号に掛かり緩やかに停車したタクシーの中から、ぼんやりと高層ビルの群れを眺めていると「お姉さんも、
「え?」
「
「…そうなんですね」
全く意識していなかったせいで気づかなかったけれど、運転手の言葉を聞いて改めて視線を伸ばせば、ひと際目を惹く大きな広告が出ている。そこに写っているのが実在するのか怪しいまでに見目麗しい俳優、大蛇 雨生だった。ドラマや映画に主演として引っ張りだこなだけでなく、181cmの高身長と美しい小さな顔、そして長い手足という恵まれたスタイルを活かしてモデル業までもをこなしているまさに今を時めく俳優だ。
広告のサイズが余りにも大きいせいで、妖艶な微笑を湛えて写っている彼とまるで目が合った様な錯覚に陥る。抱かれたい男ランキングに三年連続で一位に輝いただけあって、麗しさと色っぽさが共存している。つくづく、美しい男だ。
「確かに人気ですもんね」
「あれ、もしかしてそんなに好きじゃなかった?」
「いえ、好きです」
ただ、運転手のおじさんやファンの子達の「好き」と私の「好き」が大きく違うだけだ。
「彼、人間離れしている美しさだからどんな性格なのかとか、普段どんな食事をしているのかとか全然イメージできないんだよね。ていうか、本当に実在するのかなって思っちゃうよ」
「そうですね、案外甘えん坊でチョコレートばっかり食べてたりするのかも」
信号が青に変わり、ゆっくりと車が動き出す。頬杖を突いた私の視界の端を大蛇雨生の広告が流れて行きすぐに見えなくなった。夕暮れが間近に迫っている世界は薄暗い橙色に染まっていて、満開を迎えている桜の花弁が風に揺られてひらりはらりと舞っていて幻想的に映る。
「まるで雨生君の友達みたいに話すね、雑誌のインタビュー記事の内容?」
「そんな感じです」
「お姉さん、結構熱狂的な雨生君のファンなんだね」
熱狂的なファン…か。確かに傍から見ればそう思われるのだろう。
「雨生君のファンの子と話せて楽しかったよ、ありがとうね」
「いえ、こちらこそありがとうございました」
本来の目的地から僅かに離れたコンビニの駐車場で支払いを済ませタクシーから降りた。コンビニでチョコレートを購入してから急ぎ足で目的地へと向かう。三分もしない内に到着したのは私のお給料ではとても住めそうにない見た目をしているマンションだった。最初こそは中に入るのにも緊張して挙動不審になっていたけれど、もうすっかりコンシェルジュの人とも顔見知りの仲だ。
鞄から取り出したカードキーで厳重なセキュリティを突破し、あっさりと用のある部屋の前に辿り着いた。もう数え切れない程ここを訪れているけれど、ここの住人と擦れ違う度に自分の身の丈に合っていない空間だと思い知らされる。私と擦れ違っている相手も「何でこんな人間がここにいるんだ」と思っているかもしれない。
あんなにずっと一緒だったのに。誰よりも一緒にいて、全てを共有して生きてきたのに。いつの間にかこんなにも遠い世界の人になってしまった。それが少しだけ…否、とても寂しい。
こうして変わらず頻繁に会えているのに。彼も変わる事なく私を求めてくれているのに。それでも寂しいと感じてしまう我儘で利己的な自分に辟易する。
一応の礼儀だと思って玄関前のインターフォンを鳴らした私が手にしているカードキーで開錠するよりも先に、目前の扉が開いて中から伸びて来た手に身体を抱き寄せられた。
「待ち
「うん、道が混んでて予定より遅くなった。ごめんね」
相手の指に顎を持ち上げられ、息を吸う間もなく唇が塞がれる。
「会えたから良い。お帰り、俺の可愛い夢」
口付けを終わらせゆるりと口角を持ち上げた彼は、人目を惹く大都会の広告の中よりも遥かに美しく艶やかだった。
「ただいま、雨生」
第2話 終