瞼を持ち上げて開けた視界はピントがズレた写真の様にぼやけていて、瞬きを重ねるうちに段々と映る景色が鮮明になってきた。
やがて自分の視線の先にある物が、久しく見ていなかったもののよく知っている天井と照明である事に気が付いた。それと同時に、たった今自分が眠りから覚めたのだという事も悟った。
どうして私は、かつての私の部屋にいるのだろう。
このベッドの寝心地も身に覚えがあるし、視界の端に捉えている遮光カーテンの柄も、その隙間から零れている陽の光の具合も酷く懐かしい。
ただ、どういう経緯で自分がここにいるのかさっぱり分からない。というより、昨日の記憶がまるで鋏で裁たれた様にプツンと途切れている。
「痛っ…」
加えて、顔を動かしただけで頭が割れそうなまでの痛みに襲われ、堪らず顔を顰めた。
「夢ちゃん起きた?」
静かに頭痛に耐えていると、突然横から声がして反射的に自らの視線が滑った。
「おはよう、頭痛い?」
切り替わった私の視界を独占したのは、晴の端正な顔だった。今の今まで気づかなかったが、どうやら晴は私の隣で眠っていたらしい。それも、甘える様に私の腕に抱き着き頬を寄せている。
…可愛い。年齢を重ねるに連れ、彼が露骨に甘えてくれる機会がめっきり減ったせいで、不意を突かれた心がキュッと締め付けられる。
「夢ちゃんお酒弱いのに昨日いっぱい呑んじゃったからね」
「え?お酒?」
「昨日食事と出した飲み物アルコールが入ってたの気づかずに出しちゃってた。だから夢ちゃんが頭痛いの俺のせいなんだ…ごめんね」
うん、やっぱり可愛い。眉を八の字にして罰の悪い表情を浮かべる相手に対してこんな事を思うのは失礼なのかもしれないが、正直な感想なのだから仕方がない。
「大丈夫だよ、気にしないで。晴が部屋(ここ)まで運んでくれたの?」
「うん、俺も結構呑んでたからそのまま寝ちゃってたみたい」
「そっか…ふふっ」
「何笑ってるの?」
「昔に戻ったみたいで嬉しくって。前は晴がよく私の部屋に来て一緒に眠ろうって言ってくれたなぁって」
「そんな事が嬉しいの?」
「勿論。だって晴は可愛い弟だもん」
「…弟か」
小さく声を零しながら複雑そうに苦笑を滲ませた彼が気になったけれど、次の瞬間にはいつも通りの彼に戻っていて「お水と頭痛薬取って来るから待ってて」と一方的に言葉を残してあっという間に隣からいなくなってしまった。
一晩中ずっとそこに体温があったせいか、彼の存在が消えた途端にベッドの上が冷たく感じる。そのおかげで体内に残っている酔いが微かに醒めて、少しずつ昨日の記憶が蘇って来た。
そうだ…私は昨日、晴から誘いを受けて数ヶ月ぶりに育ったこの家を訪れ、晴と一緒にケーキを食べ、晴が作ってくれた手料理をご馳走になり、他愛無い会話をしたんだった。それから…―。
「はい、夢ちゃん。頭痛薬」
巡らせていた思考を遮断した声に、私の肩が小さく揺れる。反射的に声の主を探すべく伸びた視線の先には寝癖のせいで髪の毛が自由に跳ねている晴が立っていて、水の入ったグラスと白い錠剤をこちらに差し出していた。
「ありがとう」
「効くまで休んでて。俺は朝食の準備してくるから…ていうか、最早昼食か」
微かに口角を持ち上げた相手の発言を受けて初めて時間を確認すれば、長針と短針が「12」のところでぴったりと重なっていた。
「ほら、夢ちゃんはちゃんと寝てて」
素直に薬を飲んだ私の手から空になったグラスを奪った相手が、私の身体にそっと毛布を掛けて踵を返す。
「あ、ちょっと待って」
毛布の隙間から咄嗟に伸ばした手が晴の手首を捕まえていて、ゆっくりと振り返った彼はコテンと首を横に折った。
「どうかした?」
「え…えっと…」
「ん?」
「…晴も折角のお休みなのに、ご飯ばっかり作って貰うのは申し訳ないなって」
中途半端な間を置いてやっと紡ぎ出した言葉は、本当に言いたい事とは全く違う内容だった。
「そんな事気にしないでよ。俺が好きで夢ちゃんに作りたいって思ってるだけだから」
そうとも知らずに優しい返事をくれる相手は、私の頭をそっと撫でて「できたら呼ぶね」と柔らかく囁いてその場を辞した。
晴の手首を捕らえていた自らの手が、掴む対象を失って力なく皺の酔ったシーツの上に着地する。
彼は「頭痛がなくなるまで休んで」と言ってくれたけれど、生憎昨夜の記憶を取り戻し始めた私にはそんな余裕がない。
「あれって、どういう意味だったんだろう」
本来ならばさっき部屋を出て行こうとする彼を引き留めた際に投げるはずだった疑問が、誰もいなくなった空間に消えていく。
「夢ちゃんもいずれ分かるよ、あいつの…大蛇雨生という人間の恐さを」昨夜、晴が私に告げたその一言は、私の中にしこりを残すには十分過ぎた。
長年、どうして晴が兄である雨生を嫌悪しているのかが分からなくて、理由を知りたくても中々訊けなくて、昨日は漸く勇気を振り絞ってずっと胸の内にあった疑問を投げられたというのに…。
結局、知りたかった
雨生という人間の恐さって一体何?少なくとも私はこれまで雨生を恐いと感じた事なんて一度もない。だからこそ、余計に晴が雨生を「恐い」と表現した事が引っ掛かる。
嘘を吐いている様子でもなかったし、晴の表情は真剣そのものだったから冗談なんて事はもっとなさそうだった。
「雨生が恐いなんて…ある訳ないよ」
両膝を抱える様に腕を回して絞り出した声が震えていたのは、そんな事あり得ないと思う一方で、いつか「恐い」と表現された核心に触れる日が来るのかもしれないという思考が過っていたからだろう。
「きっと、ある訳ない」
自らに言い聞かせるみたいに同じ言葉を繰り返す自分が、まるで雨生を信じていない人間みたいに感じられて、その己の滑稽さに思わず自嘲的な笑みが零れた。
第12話 終