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第13話『染』


 晴と別れて私が大蛇家を後にしたのは午後四時を回った頃だった。


晴が作ってくれた昼食を一緒に食べて、お礼になるかは分からないけど食器を洗ったり片したりしていると『6時には帰るね』そんな内容のメッセージが雨生から届いた。


 それまでには帰らなきゃ。帰ってあのマンションで雨生を出迎えなきゃ。誰にも何も指示されていないし、そんな決まりなんてないというのに、勝手に脳味噌がそんな思考を巡らせていて、食器を片付ける私の手は自然と速まった。


 シューマン作、トロイメライの旋律を奏でている晴の演奏をもっとゆっくり聴きたい気持ちを押し殺して帰り支度を急ぐ私に、演奏の手を止めた彼は鍵盤から手を離して「夢ちゃんって、つくづくあいつに染まってるよね」と放った。


「全然そんな事ないよ」


 正直、思ってもみなかった言葉を突然貰ったせいで戸惑いが大きかった。そもそも私は自分の意思をちゃんと有しているし、染まっている自覚だって一度も持った事はない。


「そうだね、夢ちゃんはそう思うよね」

「え?」

「そういう所だよって思って」

「そういう所?」

「まるで自覚がないって事。現に今だって帰宅しようと急いでいるけど、それもどうせあいつの為でしょう?無意識にあいつを最優先にしてる夢ちゃんは、ちゃんとあいつに染まってるんだよ」

“本当にあいつは、忌々しい奴だよ”


 肩を竦めて唇で弧を描いた相手は、表情こそは笑みを湛えているというのにその双眸は一切笑っていなかった。臆病で馬鹿な私は、そんな彼に返す言葉を見つける事ができなかった。


それからすぐに晴に見送られて屋敷を後にした。四時を回っているというのに空はまだ明るくて、遅く起きたにも関わらず青空を見られて得した気分になる。


 つい先日までこの時間だとすっかり暗くなっていたはずなのに、季節があっという間に進んでいく。あんなに長くて陰鬱に感じていた冬も気づけばすっかり遠のいていて、ない物ねだりの我儘な私はもう既にあの寒さが少しだけ恋しくなっている。


「段々と日照時間も長くなってきたなぁ」


 桜の木が纏っている淡く色づいた花弁が、風に吹かれる度にヒラヒラと頭上を舞っている。枝の先から落ちる花弁達は皆、不安気に風の中で揺れている様に見えて、晴の言葉にまだ動揺し続けている私の心情の様だった。


やがて刹那的な空中の旅を終えた花弁は灰色のアスファルトに模様をつけていく。地面に着地したそれ等は人に踏み潰されたり黒く汚れていたりしていても尚、美しかった。


 雨生の住んでいるマンションがある最寄り駅で降りてスーパーに寄り、殆どすっからかんに近い冷蔵庫の中身を思い浮かべながら必要な食材を篭に入れて購入する。


「うーん、今日は雨生が好きなパスタにしようかな」


 夕食の献立も決定し材料も揃ったところで、すっかり重くなってしまった袋を肩に担ぎながら帰路を急いだ。


 帰宅した部屋は当然ながら誰もおらず、静寂だけが私を出迎えた。主が二日間家を空けているせいか、甘い匂いも若干薄くなっている。雨生がいないこの空間は私には広過ぎて、孤独感と寂寥感を覚えてしまう。


「取り敢えず、パスタのソースとサラダを作ろう」


 じわじわと胸に広がっていく寂しさを誤魔化す様に小さく呟いた私は、座る事のないままキッチンへと直行した。


***


「ただいま、夢」


 耳元で甘く溶ける艶やかな声に、料理をしている手が止まった。


 振り返るよりも先に背後から熱い体温に包まれ、私のお腹の部分で血管の浮いている腕が交差し、縛る様にきつく抱き締められた。


 嗚呼、雨生だ。雨生が帰って来てくれたんだ。


 顔を確認せずともこの声と体温の持ち主を私の身体はよく知っている。白くて透明感のある相手の腕にそっと自らの指を這わせて存在を確認しながら、ゆっくり開口した。


「お帰り、雨生」


 自分の唇の両端がぐっと上昇していくのが分かった。たかだか二日しか離れていないというのに…何ならもっと短い時間しか離れていないというのに、どうやら私は彼に会いたくて仕方なかったらしい。


 ここでの居候が始まる前は会わない日が続くなんて事は当たり前だったし、それで寂しく感じる事もなかったというのに、どうして今日はこんなにも寂しかったのだろうか。


 腰を掴まれ誘導される様に身体がくるりと反転する。切り替わった景色には、何度見ても息を呑む程に美しい顔が艶笑を浮かべている。


「可愛い」


 私の顎を持ち上げてふふっと短く声を漏らした後、当然の様に彼が私に口付けを落とし、私も当然の様にそれを受け入れた。


 唇に伝わる相手の熱い体温に、心にあった寂しさが埋まっていく。それと当時に、昨日もこんな風にキスをしたかの様な朧気な記憶が不意に脳裏を掠めた。


けれど、昨夜は晴と過ごしていたし、私は酷く酔っていたみたいだから単なる勘違いだろう。


 雨生の腕の中、相手の胸にそっと顔を寄せた私は視線だけを上に向けて相手の麗しい顔を捉えた。


「会いたかった」

「どうしたの?夢がそんな事言ってくれるなんて珍しいね」


 目を丸くして吃驚した表情を見せる雨生こそ珍しくて、それでいていじらしくて、私の顔が綻んでいく。



「どうもしないよ、ただ本当に雨生に会いたかっただけ」


 彼が驚くのも無理はない。「会いたかった」なんていう台詞を私が吐くなんて正直自分でも意外だったからだ。


 「会いたい」と言うのはいつだって彼の方で、もう数え切れない程に雨生から「会いたい」と言われてきた。おかげで、彼に会いたいと思うよりも先に彼に会える事が常だった。


「何それ、可愛過ぎて困るね」


 眉を下げて眼を細めた相手の表情が、いつになく幸福に満ちている。自分から「会いたい」と言っただけでこんなにも彼が嬉々としてくれるのならば、これからはもっと積極的に伝えていっても良いのかもしれない。


 だって、雨生が嬉しいと私も嬉しいから。雨生が幸福だと私も幸福だから…―。


 私の手を持ち上げて手の甲に自らの唇を触れさせる彼はまるで、幼少期に読んでいた童話の王子様みたいだ。


「夢」


 彼の好きなチョコレートなんかよりもずっとずっと甘い声が私だけに降り注ぐ。


 嗚呼、そうか。そういう事か。


たった今この瞬間、どうして私が彼に会いたいと思ったのか分かってしまった。彼に「会いたかった」と自分から初めて口にしてしまった理由が分かってしまった。


 私はきっと、不安だったんだ。そんな事なんてないと思いながらも晴が雨生を「恐い」と表現した事が堪らなく不安だったんだ。


 そして雨生に会ってこの目に彼を映し、直接彼の体温に触れた事で、漸く心の底から安堵したのだ。


 まだ口付けの余韻が残っている私の唇に、上書きする様に相手が深くキスを刻む。素直に彼の首へと腕を回した私の脳裏には、どうしてなのか…「夢ちゃんって、つくづくあいつに染まってるよね」今日、帰る前に晴から言われた言葉が過った。


刹那、日常茶飯事と化している鋭い頭痛に襲われ咄嗟に顔を顰めた。


「夢、愛してるよ」


 決まり文句の様に、呪文を掛ける様に、今日も雨生がそう言った。そして、やはり今日も私には「愛してる」が分からなかった。



第13話 終



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