流石にそろそろ自分のマンションに帰らないといけない。近頃、頻繁にそう思う様になってきた。
誰に何か言われた訳でもないし、雨生に迷惑がられている訳でもないけれど一人の大人として、そして社会人として、いつまでも人様の家に居候するのは憚られる。例えその居候先の家主が戸籍上「兄」にあたる人物であってもだ。
雨生のマンションでの生活が始まって半月以上が過ぎた。テレワークでも問題のない仕事ばかりを抱えていた事もあり不自由を感じなかったが、翌週からは出社しなければいけない日が出てきてしまう。そうなってくるとやはり、自分の借りている家からの方が会社は近いし、当然ながらあそこには仕事に必要な資料も揃っている。
「まただ。もういい加減に治まってよ…」
口から漏れたのは、今にも消え入りそうな弱弱しい声だった。
自分の家に帰らなきゃ。そう思えば思う程に、嫌がらせ行為に対する恐怖心がこみ上げてきて情けないまでに指先が震えてしまう。
この家に身を寄せてからというもの、精神面が随分と安定していたおかげで少しずつあの家に戻る自信もついてきたつもりだった。それなのに、いざ本当に帰る事を考えるとこの様で、正体も知らぬ相手にここまで怯えている自分に辟易する。
完全に怖気づいている自分に喝を入れるべく両頬を叩けば、乾いた音が静寂を割いた。
主演ドラマの撮影を目前に控えている雨生はこれから益々忙しくなるらしい。そうなると、彼は今以上に不規則な生活になるだろう。そんな彼にこれ以上の負担はかけたくない。彼には休息できる時にしっかりと身体を休めて欲しい。私がこの家に居座っていては、彼も自分の時間を取れないに決まっている。
「よし、今週末で帰ろう」
怖くて仕方がないはずなのに、雨生の為と考えれば案外あっさりと覚悟を決める事ができてしまった自分に内心吃驚した。
…否、もしかすると覚悟を決められた最大の要因は他にあるのかもしれない。
「夢ちゃんもいずれ分かるよ、あいつの…大蛇雨生という人間の恐さを」あの日の晴の言葉が今日もまた私の心に影を落とす。あの日からずっとその一言が頭にこびり付いて離れてくれない。
どういう意図で晴はあんな言葉を吐いたのだろうか。あの言葉の真意は何だったのだろうか。事実なのだとしたら、晴は一体雨生の何処を見て恐ろしいと感じたのだろうか。
他の人間の言葉だったらここまで尾を引いていなかっただろう。信頼のある弟の晴が放ったからこそ、簡単に否定し切れないのだ。
「私の知らない雨生の一面がある?」
そんな独り言が零れたと同時に、私は首を傾げていた。大蛇家で晴と会って帰って来てからも、私の目に映るのは優しくて甘くて麗しい雨生だけだ。それは昔から変わらない私がよく知っている彼の姿だった。
ただ、どうしても晴の言葉が気になってしまう自分がいる。このまま雨生と一緒に生活をしていると、彼の恐ろしい部分とやらを私はわざわざ無理やりにでも探し出そうとしてしまうのではないか。そんな懸念を覚えてしまう。
だからこそ、雨生とは距離を取った方が良いと感じるのだ。そして私は一度冷静になって頭を整理するべきなのだ。その為にも私はあの家に戻る必要が十分にある。雨生の為だと思えば覚悟を決められたなんて、都合の良い様に思考しそうになっていたが、あの家に戻ると腹を括れた真の理由は恐らく後者の方だ。
「雨生に何て言おうかな」
どんな説明をしたとしても私がここでの生活に終止符を打つ事を彼は快く思わないだろう。実際、何度か帰る事を仄めかした事もあるけれど、漏れなくあっさりと却下されてしまった。
今回こそは本当に帰る決意が固まっただけに、不満を露わにして拗ねる彼の顔が容易く頭に浮かぶ。
思い返せばこれまでの人生、高校選びの時も大学進学の時も、そして社会人になって一人暮らしを始める時も、雨生を納得させるのが兎に角鬼門だった。
中学三年生の頃は、義理の娘として少しでも誇りに思って貰いたくて高校は進学校として名高い女子校へ行こうとしていたが、「絶対に一緒の高校に進学したい」と雨生に説得され結局共学の進学校に入学したし、大学に進学を決めた時には既に芸能活動が軌道に乗り始めていた雨生に「芸能活動が忙しくて一緒の大学には行けないから夢も行かないで」と駄々をこねられて酷く困った。
何とか進学した大学の四年間を無事に終え、いざ就職するとなった時なんて、「俺が一生養うから働かなくて良いでしょう?」というとんでもない発言を投下された。そして、一人暮らしを始めると伝えた際は「置いていくの?俺を独りぼっちにするの?ずっと傍に居てよ、夢の意地悪…」瞳を潤ませながらそう放ち、それはもうこれまでにない程に落ち込んでいた。そんな彼を前にした私は、悪い事をした訳でもないのに良心の呵責に苦しんだ位だった。
こんな風に、節目を迎える度に雨生の説得には苦労してきた訳だけど、いつだって彼の発言には「夢と一緒にいたい」という一貫した感情が含まれていた。それを知っていた私は満更でもなかったし、雨生に求められているという事実は常に私の心に安寧を与えてくれた。
私がいないと生きていけないかの様な台詞を彼は度々吐いているけれど、実際のところは私の方が彼がいないと生きていけないのかもしれない。それでも、いつまでもずっと一緒に居る事は叶わないだろうし、非現実的な話だろう。
欠落した私とは違い彼は「好き」も「愛してる」も知っている温かい人間だ。いずれ彼にも一生を懸けて守りたいと思う存在ができ、私に向けられていた彼の情けすらも彼の寵愛を受ける人に注がれる未来が待っているのだろう。その日がいつ訪れるかはまだ分からないが、いつ訪れても良い様にやはり彼とは適切な距離を置いた方が良いのかもしれない。
熟考すればする程に、自分の家に戻る決意が強くなる。今夜にでも雨生にここを出る事を伝えなければ…そう思っていると、机の上に放置されていた自分の携帯の画面が光って着信を知らせていた。
『
第14話 終