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第12話 変身

 萌香は、玄関先でパンプスを脱ぐ事も忘れ、脱衣所から出て来た孝宏の面差しを二度見した。孝宏は、濡れた髪をバスタオルで拭きながらリビングを横切って行く。ポタポタと水滴が落ち、28,0センチメートルの足跡が、リビングの床に点々と着いた。普段の萌香ならば『濡れるからやめてよ!』と声を張り上げるところだが、開いた口が塞がらないとはこの事だ。


「ど、どうしたの、それ」


 孝宏は、萌香の驚きにも動じず、冷蔵庫の扉を開けてビールのプルタブを開けた。


プシュ!


 孝宏の喉仏が上下し、冷えた麦汁がほてった身体に注ぎ込まれた。萌香は、その様子を茫然と眺めていたが、孝宏が、ビールの缶を握り潰した音で我に帰った。


(アッ、そうだ!これ、どこかに隠さなきゃ!)


 萌香の手にぶら下がったディオールのショップバッグには、芹屋隼人との一夜を連想させるパフュームが入っていた。これは、明らかにメンズフレグランスで、ご丁寧にリボンまで結えてある。孝宏に見つかれば、『これは誰へのプレゼントなんだ』と、口論になる事は明らかだった。


(そうだ!し、寝室!)


 萌香は、濃紺のショップバッグを胸に抱えるように持ち、忍足で寝室へと向かった。そして、孝宏が使わないクローゼットの奥へと、ショップバッグを押し込んだ。


プシュ!


 2缶目のプルタブが開いたところで、萌香はリビングへと大慌てで駆け込んだ。思わずカーペットの端に足先を取られ、転びそうになったが、ソファーにしがみ付き事なきを得た。孝宏が呆れた面持ちで、首筋の汗を拭っている。


「なに、なんなん、おまえ落ち着けよ」

「落ち着けって!それはなに!?」

「それってどれだよ」

「それよ!」


 孝宏の、野生味溢れるその面差から、自慢の顎髭が消えていた。萌香は、同棲を始めた3年前から口を酸っぱくして、『銀行員らしく、その髭!剃りなさいよ!』と言い続けて来たが、孝宏は『これは俺のチャームポイントだ!』と、頑なに拒んで来た。


「どうしたの、なにがあったの?」

「気分転換だよ」

「あんなに嫌がっていたのに、どういう事!?」

「良いじゃん、カッコいいだろ」


 確かに、孝宏の顎のラインは想像とは違い、随分とシャープだった。


「カッコいいけど」


 萌香は、まじまじと、肉厚の唇を見た。


「なんでまた、急に」


 そこで萌香は、最悪の事態を想定した。もしかしたら、浮気相手が、『ねぇ、その髭、剃って。きっとカッコいいから』と、耳元で囁いたのかもしれない。孝宏は、本命の萌香ではなく、その女性のアドバイスに従ったのかもしれなかった。


「・・・っ」


 萌香の眉間にシワが寄った。そして、堪えきれなくなった感情に、嗚咽を漏らし始めた。これにはさすがの孝宏も仰天し、ビール缶をダイニングテーブルに置くと、萌香を抱き締めた。


「ごめんって」

「ゔっ、ゔゔ」

「悪かった」

「ゔゔ、ゔゔっつ」

「もう、浮気はしないから」


(そんなの嘘だ)


 孝宏は萌香の眼鏡を外すと、ゆっくりと唇を重ねた。


(苦い)


 その口付けは、ほろ苦いビールの味がした。テレビからは、お笑い番組の戯けた笑い声がドッと上がっている。孝宏の指先が、萌香のワンピースをたくし上げた。ビールの缶を握っていた指先は冷たく、触れた部分がヒリヒリと痛かった。唇が深く重ねられ、孝宏の舌が萌香を探し回っている。


「・・・・・」


 孝宏の手がストッキングをゆっくりと下げると、ヒヤリとした感触がインナーの中へと滑り込んだ。



ピチョン



 萌香はその時、なんとも表現し難い不快感が身体の芯から湧き起こり、目を見開いた。そこには、孝宏の紅潮した瞼があった。嫌悪しかなかった。この唇で浮気相手に口付けをし、肢体に指を這わせていたかと思うと、それだけで怖気を感じた。


「い、嫌っ!」


 萌香は思わず孝宏を突き飛ばし、その逞しい胸の中から離れていた。孝宏の身体はダイニングテーブルにぶつかり、ビール缶が倒れて転がった。孝宏は驚きの表情で萌香を凝視した。


「ど、どうしたんだよ」

「ごめん。今日は疲れているから」


 萌香は、乱れたワンピースの裾を整えた。


「あぁ、そうだったな。悪ぃ、風呂沸いてるから」

「ありがとう。じゃあ、入るね」


 萌香は、孝宏との久方ぶりの甘い時間を自ら手放した。その事に、後悔はなかった。昨日の今日で、誠意ある謝罪の言葉もなく、浮気行為を曖昧にしようとする孝宏を許せる筈がなかった。そして、もうひとつの理由、芹屋隼人の存在があった。



ピチョン



 浴槽に浸かった萌香は、芹屋隼人とのひとときに思いを馳せた。深紅のワインで乾杯し、現実世界から切り離されたホテルの一室で、身も心も蕩けた夜。芹屋隼人はもう2度と出会う事のない、一夜の相手だと割り切っていた。


(それが、また会っちゃうとか信じられない、しかも職場で!)


 芹屋隼人は見目麗しく、上背があり、所作や言動が丁寧、実に魅惑的な存在だった。一見しただけだが、職場でも、芹屋隼人は女性行員の視線を一身に集めていた。


(それはそうよね、あのルックスじゃ)


 萌香も例に漏れず、芹屋隼人との思わぬ再会に驚き、つい不自然な行動を取ってしまったが、その容姿に胸が高鳴った。


(雰囲気が、全然違うんだよね)


 仕立ての良い濃灰のスーツ、シワひとつない白いワイシャツ、シルクのグレーのネクタイ。艶のある黒髪を後ろに撫で付け、銀縁眼鏡を掛けた面差しは、冷静沈着を体現していた。




ピチョン




 営業課課長としてデスクに座る芹屋隼人は、明け方のベッドで見せた顔とは、また違う魅力があった。


(これから一緒に働くんだ・・大丈夫かなぁ)


 萌香は、孝宏の浮気を咎めつつ、こうして芹屋隼人に思い及ぶ自身を諌めた。


(ダメダメ!なに考えてんの!?)


 その時、脱衣所からLIMEトークの着信音が響いた。


(・・・LIME?)


 萌香がバスルームのドアを開けて見ると、ランドリーバスケットに放り込まれた、孝宏のスラックスのポケットから着信音が聞こえて来た。孝宏は、この1年間、携帯電話を肌身離さず持ち歩いていた。今夜は髭を剃る事に集中し、忘れてしまったのだろう。


(これって、浮気相手?)


 孝宏はリビングのソファで横になり、お笑い番組に見入っていた。


「・・・・・」


 萌香は、息を殺して携帯電話を手に取った。暗証番号は、孝宏の誕生日の4月29日(0429)で間違いない。震える指で暗証番号を打ち込むと、画面がぱっと開いた。


(これは、みつ、光希みつき?)


 LIMEトークには、光希という女性の名前とメッセージが表示された。萌香は、光希のメッセージに返信した。




今度海に行きたいな


海 (既読)


うん 海 どうしたの 元気ない?


誰と行くの (既読)


え 孝宏だよ


孝宏ならお風呂に入っていますが (既読)




 光希からのメッセージはそこで途絶えた。萌香は、携帯電話をそっとスラックスのポケットに戻した。孝宏の浮気相手の名前は光希と言った。


「はぁ、光希ね」


 リアルに浮気相手の存在を感じ取った萌香は、湯船の中で大きな溜め息を吐いた。

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