萌香は、玄関先でパンプスを脱ぐ事も忘れ、脱衣所から出て来た孝宏の面差しを二度見した。孝宏は、濡れた髪をバスタオルで拭きながらリビングを横切って行く。ポタポタと水滴が落ち、28,0センチメートルの足跡が、リビングの床に点々と着いた。普段の萌香ならば『濡れるからやめてよ!』と声を張り上げるところだが、開いた口が塞がらないとはこの事だ。
「ど、どうしたの、それ」
孝宏は、萌香の驚きにも動じず、冷蔵庫の扉を開けてビールのプルタブを開けた。
プシュ!
孝宏の喉仏が上下し、冷えた麦汁が
(アッ、そうだ!これ、どこかに隠さなきゃ!)
萌香の手にぶら下がったディオールのショップバッグには、芹屋隼人との一夜を連想させるパフュームが入っていた。これは、明らかにメンズフレグランスで、ご丁寧にリボンまで結えてある。孝宏に見つかれば、『これは誰へのプレゼントなんだ』と、口論になる事は明らかだった。
(そうだ!し、寝室!)
萌香は、濃紺のショップバッグを胸に抱えるように持ち、忍足で寝室へと向かった。そして、孝宏が使わないクローゼットの奥へと、ショップバッグを押し込んだ。
プシュ!
2缶目のプルタブが開いたところで、萌香はリビングへと大慌てで駆け込んだ。思わずカーペットの端に足先を取られ、転びそうになったが、ソファーにしがみ付き事なきを得た。孝宏が呆れた面持ちで、首筋の汗を拭っている。
「なに、なんなん、おまえ落ち着けよ」
「落ち着けって!それはなに!?」
「それってどれだよ」
「それよ!」
孝宏の、野生味溢れるその面差から、自慢の顎髭が消えていた。萌香は、同棲を始めた3年前から口を酸っぱくして、『銀行員らしく、その髭!剃りなさいよ!』と言い続けて来たが、孝宏は『これは俺のチャームポイントだ!』と、頑なに拒んで来た。
「どうしたの、なにがあったの?」
「気分転換だよ」
「あんなに嫌がっていたのに、どういう事!?」
「良いじゃん、カッコいいだろ」
確かに、孝宏の顎のラインは想像とは違い、随分とシャープだった。
「カッコいいけど」
萌香は、まじまじと、肉厚の唇を見た。
「なんでまた、急に」
そこで萌香は、最悪の事態を想定した。もしかしたら、浮気相手が、『ねぇ、その髭、剃って。きっとカッコいいから』と、耳元で囁いたのかもしれない。孝宏は、本命の萌香ではなく、その女性のアドバイスに従ったのかもしれなかった。
「・・・っ」
萌香の眉間にシワが寄った。そして、堪えきれなくなった感情に、嗚咽を漏らし始めた。これにはさすがの孝宏も仰天し、ビール缶をダイニングテーブルに置くと、萌香を抱き締めた。
「ごめんって」
「ゔっ、ゔゔ」
「悪かった」
「ゔゔ、ゔゔっつ」
「もう、浮気はしないから」
(そんなの嘘だ)
孝宏は萌香の眼鏡を外すと、ゆっくりと唇を重ねた。
(苦い)
その口付けは、ほろ苦いビールの味がした。テレビからは、お笑い番組の戯けた笑い声がドッと上がっている。孝宏の指先が、萌香のワンピースをたくし上げた。ビールの缶を握っていた指先は冷たく、触れた部分がヒリヒリと痛かった。唇が深く重ねられ、孝宏の舌が萌香を探し回っている。
「・・・・・」
孝宏の手がストッキングをゆっくりと下げると、ヒヤリとした感触がインナーの中へと滑り込んだ。
ピチョン
萌香はその時、なんとも表現し難い不快感が身体の芯から湧き起こり、目を見開いた。そこには、孝宏の紅潮した瞼があった。嫌悪しかなかった。この唇で浮気相手に口付けをし、肢体に指を這わせていたかと思うと、それだけで怖気を感じた。
「い、嫌っ!」
萌香は思わず孝宏を突き飛ばし、その逞しい胸の中から離れていた。孝宏の身体はダイニングテーブルにぶつかり、ビール缶が倒れて転がった。孝宏は驚きの表情で萌香を凝視した。
「ど、どうしたんだよ」
「ごめん。今日は疲れているから」
萌香は、乱れたワンピースの裾を整えた。
「あぁ、そうだったな。悪ぃ、風呂沸いてるから」
「ありがとう。じゃあ、入るね」
萌香は、孝宏との久方ぶりの甘い時間を自ら手放した。その事に、後悔はなかった。昨日の今日で、誠意ある謝罪の言葉もなく、浮気行為を曖昧にしようとする孝宏を許せる筈がなかった。そして、もうひとつの理由、芹屋隼人の存在があった。
ピチョン
浴槽に浸かった萌香は、芹屋隼人とのひとときに思いを馳せた。深紅のワインで乾杯し、現実世界から切り離されたホテルの一室で、身も心も蕩けた夜。芹屋隼人はもう2度と出会う事のない、一夜の相手だと割り切っていた。
(それが、また会っちゃうとか信じられない、しかも職場で!)
芹屋隼人は見目麗しく、上背があり、所作や言動が丁寧、実に魅惑的な存在だった。一見しただけだが、職場でも、芹屋隼人は女性行員の視線を一身に集めていた。
(それはそうよね、あのルックスじゃ)
萌香も例に漏れず、芹屋隼人との思わぬ再会に驚き、つい不自然な行動を取ってしまったが、その容姿に胸が高鳴った。
(雰囲気が、全然違うんだよね)
仕立ての良い濃灰のスーツ、シワひとつない白いワイシャツ、シルクのグレーのネクタイ。艶のある黒髪を後ろに撫で付け、銀縁眼鏡を掛けた面差しは、冷静沈着を体現していた。
ピチョン
営業課課長としてデスクに座る芹屋隼人は、明け方のベッドで見せた顔とは、また違う魅力があった。
(これから一緒に働くんだ・・大丈夫かなぁ)
萌香は、孝宏の浮気を咎めつつ、こうして芹屋隼人に思い及ぶ自身を諌めた。
(ダメダメ!なに考えてんの!?)
その時、脱衣所からLIMEトークの着信音が響いた。
(・・・LIME?)
萌香がバスルームのドアを開けて見ると、ランドリーバスケットに放り込まれた、孝宏のスラックスのポケットから着信音が聞こえて来た。孝宏は、この1年間、携帯電話を肌身離さず持ち歩いていた。今夜は髭を剃る事に集中し、忘れてしまったのだろう。
(これって、浮気相手?)
孝宏はリビングのソファで横になり、お笑い番組に見入っていた。
「・・・・・」
萌香は、息を殺して携帯電話を手に取った。暗証番号は、孝宏の誕生日の4月29日(0429)で間違いない。震える指で暗証番号を打ち込むと、画面がぱっと開いた。
(これは、みつ、
LIMEトークには、光希という女性の名前とメッセージが表示された。萌香は、光希のメッセージに返信した。
今度海に行きたいな
海 (既読)
うん 海 どうしたの 元気ない?
誰と行くの (既読)
え 孝宏だよ
孝宏ならお風呂に入っていますが (既読)
光希からのメッセージはそこで途絶えた。萌香は、携帯電話をそっとスラックスのポケットに戻した。孝宏の浮気相手の名前は光希と言った。
「はぁ、光希ね」
リアルに浮気相手の存在を感じ取った萌香は、湯船の中で大きな溜め息を吐いた。