萌香がシャワーを浴びていると、バスルームのすりガラスの向こうに、孝宏の影が映った。それは慌てた様子でランドリーバスケットの中を漁っている。スラックスのポケットから携帯電話を取り出した孝宏は、ゆっくりとした動作で物音を立てずに脱衣所を出て行った。
(きっと、びっくりするよね)
萌香が、自分の浮気相手とLIMEメッセージの遣り取りをしたと知ったら、孝宏はどんな顔をするだろう。
(光希も驚いたよね)
浴槽の排水栓を抜くと、ゴボゴボと音を立てて湯が渦を巻いた。萌香の負の感情も、この渦のように、なにもかもを巻き込んで、下水道に流れてしまえば、どんなにか楽だろう。
(でも、これから私は、どうしたいの?)
水位が低くなってゆく浴槽をぼんやりと眺めた。萌香は、孝宏に浮気をされた悲しみよりも、孝宏の浮気を見抜けなかった自身の愚かさを呪った。
(なにやってたんだろう。私、馬鹿みたい)
孝宏との生活を壊したくない一心で、浮気の疑念から目を逸らしていた。見て見ぬ振りをしたこの1年間に、自嘲の笑いと涙が溢れ出た。
(それで?光希を見つけて、どうしたいの?)
シャワーのカランを回し、激しく打ち付ける湯で涙を洗い流した。
(孝宏と光希に謝らせて、それで孝宏と別れるの?)
バスタオルで水滴を拭き取ると、洗面所の鏡に情けない顔が映った。歯ブラシにデンタルペーストを絞り出し歯を磨くと、思わず
(ううん。私は孝宏とやり直したい)
ピチョン
孝宏は、光希からLIMEメッセージが届いている事に気が付いた。そこには、既に既読になったメッセージが並んでいた。孝宏の息はひゅうと止まり、頭が両脇から締め付けられ、こめかみがドクドクと脈打った。咄嗟に孝宏は暗証番号を変更し、萌香がシャワーを浴びている事を確認すると光希へと、LIMEメッセージを送った。
光希 大丈夫か
びっくりした (既読)
ごめんうっかりしてた
彼女だよね (既読)
おまえのことがバレた
大丈夫だよ 分からないよ (既読)
そこでバスルームのドアが開く音が聞こえた。孝宏は慌てて寝室のベッドに潜り込んだ。
どうしたら良いんだ
落ち着いて (既読)
萌香がリビングに行くと、お笑い番組はニュース番組に切り替わっていた。淡々と抑揚のないアナウンサーが、交通事故の速報を報らせていた。ソファに寝転がっていた孝宏の姿はなく、寝室のドアの隙間から携帯電話の青白い明かりが漏れていた。
(孝宏、光希とLIMEしてるんだろうな)
ムカムカと腹が立ち、萌香は冷蔵庫の扉を開けると、思い切って力任せに扉を閉めた。ドリンクホルダーの中で栄養ドリンクがガシャンガシャンと音を立てた。
待ってるから
分かった (既読)
気を付けて
すると、寝室から漏れていた青白い明かりは瞬時に消えた。その様子があまりにも滑稽で、萌香は失笑してしまった。
(馬鹿みたい)
テレビの電源を切り、室内灯の電気を落とすと、暗がりの中で壁掛け時計の秒針が規則正しく時間を刻んでいた。それは、芹屋隼人の温かな鼓動によく似ていた。
(芹屋さん、温かかったな)
萌香は、芹屋隼人の温もりを思い出し、身体の芯から切なくなった。たった一夜の相手ですらこれほどまでに癒されるのに、萌香と孝宏は同じベッドで眠りながら、いつも2人は背中合わせだ。
(いつから、こうなっちゃったんだろう?)
ここ暫く、萌香と孝宏は手を握る事もなければ、ましてや抱き合う事など一度もなかった。孝宏の胸の鼓動を感じたのはいつの事だったか?萌香は、日々の思い出を手繰り寄せてみたが、とうとう思い出す事が出来なかった。
「おやすみ」
「・・・・」
孝宏は、返事をしなかった。萌香は、寝たふりの孝宏を起こさぬよう、静かに布団に潜り込んだ。背中に感じる緊張感、やはり孝宏は起きている。
(光希の事がバレたから、気不味いのね)
言葉を交わす事すら拒まれた萌香は、目頭を熱くした。
ピチョン
萌香は、玄関の鍵が閉まった音で目を覚ました。枕元の携帯電話は午前5時を過ぎたところだった。孝宏は朝寝坊で、午前7時にならないと起きられない。萌香が違和感を感じてベッドから起き上がると、隣のシーツが冷たくなっていた。
(?)
ポールハンガーに掛かっていた孝宏のスーツはなく、リビングに置いてあったのビジネスバッグも見当たらない。革靴が玄関から消えていた。
(・・・・・!?)
すっかり眠気が醒めた萌香は、洗濯物を干す部屋のドアを開けた。閉められたカーテンを思い切り開けると、信じられない光景が広がった。
(う、そ)
チェストの上にあった旅行カバンが見当たらなかった。慌てた萌香は、チェストの引き出しを開けて見た。クリーニングから帰って来たワイシャツや、新品の下着と靴下がない。もう一段の引き出しを開けて見ると、ジーンズと数枚のTシャツが持ち出されていた。
「ちょ、ちょっと!孝宏!?」
玄関のシューズボックスの引き戸を開けると、孝宏のスニーカーが消えていた。エンジンの音で気付かれる事を恐れたのか、車の鍵は残されたままだった。
「孝宏!」
萌香は、サンダルを突っかけると玄関扉のノブを引いた。ガチャと音がして扉は開かなかった。慌てて解錠し、部屋着のまま飛び出した萌香は、朝靄の肌寒さで全身の毛穴が引き締まるのを感じた。
(どういうことなの!?)
つんのめりながら階段を駆け降りると、新聞の朝刊を手にした配達員と目が合った。マンションのエントランスから飛び出し、右、左と見回してみたが、孝宏の姿は既になかった。大通りまで、息を切らせて走ったが、それは徒労に終わった。
(嘘、孝宏が出ていっちゃった!?)
萌香の前歯がカチカチと音を立てるのは、早朝の冷たい空気がそうさせるのか、孝宏がマンションを出て行ったという事実がそうさせるのか。萌香は茫然とその場に立ち尽くした。