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第14話 外泊

 萌香は、銀行に出勤して来た孝宏に事情を聞こうと、ロッカールームの前で待つ事にした。萌香の前を、ネクタイを締めたスーツ姿の同僚が何人も通り過ぎ、その姿を一瞥して行く。


「おはよう、長谷川さん」

「おはようございます」

「どうしたの」

「ちょっと」

「あぁ、孝宏?まだ来ていないよ」


 然し乍ら、孝宏が出勤して来る気配はなく、始業のチャイムが鳴り朝礼が始まってしまった。萌香は、芹屋隼人の訓示中にも関わらず気もそぞろで、係長から注意を受けてしまった。


(孝宏、どうしちゃったんだろう)


 午前9時。銀行の窓口対応をしている間も萌香はソワソワと落ち着かず、集中力も散漫で、冷静さに欠けていた。しまいには、客の要望を聞き逃し、数々の失敗を繰り返した。


「あなた!この両替のお札、お祝い事に使うから新札でってお願いしましたよね?!」

「あっ、申し訳ありません!すぐにお取り替え致します!」

「まったく!」


 萌香は、隣の同僚にも『大丈夫?まだ体調悪いの?』と心配された。


(仕事中に孝宏の事は考えない!ダメダメ!考えない!考えない!)


 そう思えばそう思うほど、脳裏を過ぎるのは、孝宏の申し訳なさそうな面持ちだった。


(あの時、許していれば、こんな事にはならなかったの?)


 孝宏の、『もう浮気はしないから』という薄っぺらい謝罪の言葉を受け入れ、あのまま抱かれていれば、孝宏がマンションを出て行く事はなかったかもしれない。


(でも、それって嘘だよね)


 そんなものは、いっときの誤魔化しでしかない。その程度で浮気をなかった事にしようとした浅はかな孝宏を、萌香は許す事が出来なかった。


(だからって!出て行く事なんてないでしょ!)


 ただ、萌香は孝宏と光希のLIMEセッセージに、安易に割り込んだ事を後悔した。余計な細波さざなみを立てなければ、孝宏と光希の関係は自然消滅したかもしれなかった。


(なんで、あんな事しちゃったんだろ)


 萌香が光希に宣戦布告をした事で、光希が孝宏を奪おうとしているのかもしれない。萌香は、迂闊な自身を責めた。







「あんた、まだかいね!」


 その時、萌香はトレーに乗せていた小銭を床にばら撒いてしまった。年支給日の窓口は混み合い、順番待ちの電光掲示板は忙しなく点灯を繰り返していた。


「あっ!申し訳ありません!」


 萌香が、床にしゃがみ込んで10円、50円と硬貨を拾い集めたが、5円玉がどうしても見つからなかった。カウンターでは高齢の女性が、まだかまだかといている。萌香の額には汗が滲み、焦りで顔は赤らんだ。その時、黒い革靴が、萌香の視界に入った。


「はい、これだね」

「・・・あ、ありがとうございます!」

「気を付けなさい」

「は、はい!」


 ひざまづいた萌香の目の前に5円玉が差し出された。そこには厳しい面持ちの芹屋隼人がいた。萌香はそれを恐る恐る受け取ると、トレーに戻し、高齢の女性に手渡した。高齢の女性は大層ご立腹で、芹屋隼人が玄関先まで見送った。


「ひと段落ついたら、ちょっと来なさい」

「申し訳ありません」


 課長の顔をした芹屋隼人に声を掛けられた萌香は、その冷静沈着な声色に身が引き締まる思いがした。






 昼休憩の事だった。行員の姿が疎になったフロアで、芹屋隼人が萌香に手招きをした。その面差しは柔らかく、萌香は少しばかり安堵した。


「長谷川さん、今日はミスが多いですね」

「申し訳ありません」

「気を付けて下さい」

「はい」


 芹屋隼人はテーブルに両肘を突くと、顎を乗せて微笑んだ。


「なにか悩み事でもあるのですか?」

「心配な事があって」

「心配事ですか」


 萌香は机の前に立ち、眉間にシワを寄せた。


「吉岡孝宏が出勤しない訳が知りたいんです」

「心配事とはその事ですか?」

「はい」


 芹屋隼人は椅子から立ち上がると総務課に行き、男性行員と一言二言、言葉を交わしバインダーを確認していた。なにか説明を受けている。萌香の心臓は緊張で跳ねた。きっと不安げな顔をしていたのだろう、芹屋隼人は問題ないといった表情で、手を振った。


「吉岡さんは有給を取られたそうです」

「有給、ですか?」

「はい、来週の水曜日までだそうです」


 安堵の息が漏れた。


「私は、長谷川さんと吉岡さんのプライベートな問題には踏み込みません」

「はぁ」


 萌香は芹屋隼人に、根掘り葉掘り、事細かに訊ねられるのではないかと身構えていた。その心配はなさそうだった。


(今日の芹屋さんは、課長バージョンだ)


 ところが、芹屋隼人は腕を組んで目を閉じ、一考すると萌香を見上げてささやいた。それは、フロアの騒めきや電話の音で掻き消される程の微少な声だった。


「萌香さん」

(芹沢隼人バージョンだったー!)

「同じ部屋に住んでいる、その相手の行方が分からない」

「・・・・うっ」

「出て行っちゃったんですね」

「・・・・うっ」

「ご愁傷様です」

「・・・・うっ」


 その椅子に座るのは、課長ではなく芹屋隼人だった。嫌らしくにやけているのが癪に障るが、事実なので致し方がない。するとそこで、真っ当なアドバイスが返って来た。


「男は弱い生き物です」

「強そうに見えますが」

「なにか、考えたい事でもあったのでしょう」

「逃げたようにしか見えませんが」


 萌香は大きな溜め息を吐いた。孝宏が、2人の将来を前向きに考えているのであれば、両者で話し合えば良い事だ。然し乍ら、その確率は天文学的にゼロに等しいと思われた。


「しばらく成り行きに任せてはいかがですか?」

「放置プレイと言う事ですか?」

「心配しなくても、帰って来ますよ」

「帰って来るでしょうか?」

「分かりません」

「やっぱり、分からないんですね」

「・・・・・」


 萌香と芹屋隼人の間に、白々しい雰囲気が漂った。


「不安も解消、業務に戻りなさい」

「はい、ありがとうございました」

「頑張って下さい」

「はい」


 萌香は、孝宏が出勤時に事故に遭ったのではないかと心配していた。その不安は解消されたが、今度は、有給休暇を取得した孝宏がどこに行ったのか、その不安が沸き起こった。考えられる答えはひとつ。


(光希のところだ)


 マンションは、孝宏の名義で借りている。家財道具はそのままだ。浮気が発覚して居心地が悪くなった孝宏が、一時的に光希の部屋に転がり込んでいると考えるのが一般的だろう。


(もし、昼間に保険証書とか取りに戻ってたらアウトだけどね)


 家路についた萌香は、バスの車窓に映る自身の顔を見た。幸せだった自分は、どこに消えてしまったのだろう。バスはスクランブル交差点の赤信号で停まった。横断歩道には、手を繋いで歩く高校生のカップルや、ベビーカーを押す若い夫婦の姿があった。


(幸せになるって、本当は難しいんだな)


 マンションの郵便ポストには、カタログや電気料金のハガキが投函されていた。萌香は、その葉書を裏返して宛名を見た。電気使用契約者は、吉岡孝宏。


(家主がいないのに、電気料金を払う必要ってある?)


 ペタペタと力無く階段を上るパンプスの音が、静かなマンションの廊下に響いた。萌香は、205号室の前でゴクリと唾を飲んだ。


(もし、もし大事な書類がなくなっていたら!)


 シリンダーキーを鍵穴に挿し込み、静かに右に回した。ゆっくりと扉を開けてみたが、室内に人の気配はなかった。廊下を進むストッキングの足裏は汗ばみ、息遣いが荒くなった。目をギュッと瞑り、ローチェストの引き出しを開けた。孝宏の年金手帳やマイナンバーカード、保険証書の類は残されていた。


(帰って来る気はある、んだ)


 ただこの先、光希を連れて帰り、『あ、おまえ実家帰れよ、さよなら』と言われる可能性もある。けれど、とりあえず首の皮一枚で孝宏との縁は繋がっている事が確認できた。


「はっぁああああああああああ」


 萌香は、リビングで大の字になって深呼吸をした。

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