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第15話 カフェテラス

 孝宏は、有給休暇明けで普段通りに出勤して来た。ただ、萌香とは目も合わさずに、外回りの営業に出て行ってしまった。萌香自身も、なんとなく気不味く、話し掛けるタイミングを逃していた。


(孝宏!元気!?・・・いや、違うな)


 萌香は、女性ロッカールームの中で右往左往していた。なんと声を掛ければ良いのか、思考回路は爆発寸前だった。無闇矢鱈に事を荒立てる事も避けたい。けれど、浮気をされたのは萌香の方だ。孝宏の顔色を窺い、下手に出るのも馬鹿馬鹿しかった。


ピコン


 萌香が考えあぐねていると、携帯電話にポップアップメッセージが表示された。慎介からのLIMEメッセージだった。こんな時に面倒臭いと思いつつ、LIME画面を開いた萌香は、添付されていた画像に釘付けになった。そこに写っていたのは孝宏だった。




おつー 萌香 飯くわねぇ?


そんな気分じゃない (既読)


これ


これ どこで撮ったの! (既読)


やっぱり孝宏かよ

ヒゲないから分からんかったわ


孝宏よ! (既読)


そっかー


そっかじゃない!あんた今どこにいるの! (既読)




 慎介の勤務する生命保険会社は金沢市中心部にあった。周囲には、百貨店や高級シティホテルが立ち並び、人通りも多い。


(あれ?あいつ)


 その雑踏の中に、孝宏はいた。慎介は、髭を剃り落とした孝宏を二度見し、その背後をついて歩いていたのだと言った。のんびりした受け答えの慎介に業を煮やした萌香は、LIME通話のボタンを押した。呼び出し音が2回、3回、と響くが一向に出る気配がない。


(なにやってんのよ!)


 萌香は、苛つきながら制服を脱ぐと退勤の準備をし、白い開襟シャツと黒いパンツに着替えた。ショルダーバッグを肩に掛けてドアノブを押すと、上背のある人影にぶつかりそうになった。


「あっ、すみません!」

「ああ、驚いた」

「ごめんなさい!」

「いえ、私もうっかりしていました」


 見上げると、それは、銀縁眼鏡を外した、芹屋隼人だった。芹屋隼人は、萌香のパンツ姿を繁々と見ると、満足げに頷いた。


「な、なんでしょうか?」

「萌香さん、パンツルックも似合いますね。やはり脚のラインが美しい」

「ちょっ!か、課長!」


 萌香は芹屋隼人の腕を掴むと、近くの給湯室へと連れ込んだ。2人は冷蔵庫の裏に隠れると、密やかな声で言葉を交わした。


「萌香さんは、大胆ですね」

「なにがですか!」

「こんな薄暗い場所に私を連れ込んで、どうするつもりですか?」

「どうも、こうも、ありません!」


 萌香は芹屋隼人のネクタイを掴み上げると、眉間にシワを寄せた。


「あれは、あの時だけです!」

「あの時だけ」

とぼけないで下さい!」

「こんなに近くにいるのに、残念です」

「課長は課長です!もう2度と近付かないで下さい!」


 萌香に押し退けられた芹屋隼人は、よろけて壁にぶつかった。足元の赤い消化器がコロコロと転がり、慌てた萌香はそれを元の場所に戻した。


「萌香さんは、乱暴者なのですね」

「長谷川です!」


 その時、ショルダーバッグの中で、慎介のLIME通話の着信音が鳴った。萌香は芹屋隼人に会釈すると、ギャンギャンと声を荒げながらエレベーターホールへと向かった。芹屋隼人は腕組みをすると、困惑の表情で、萌香の背中を見送った。


「やれやれ、吉岡孝宏の次は、慎介ですか。萌香さんの周りは男性が多いですね」


 芹屋隼人は襟足を掻きながら、男性ロッカールームのドアを開けた。




 萌香は、慎介が指定した場所へと小走りで向かっていた。アメリカ楓の並木道は日暮れを迎え、空には一番星が瞬いていた。


「あっ!すみません!」


 萌香は、すれ違う人の波にぶつかり、何度も何度もお辞儀をした。坂の途中、歩行者信号の赤色がもどかしく、足踏みをした。街を駆け抜けるパンプスは所々で脱げそうになり、慌てて履き直した。


(こ、ここ!?)


 肩で息をした萌香は、慎介の姿を探した。ところが、その姿が見当たらない、じっと目を凝らすと、灯台躑躅どうだんつつじの茂みの中に、紺色のスーツの背中があった。。


「慎介!」

「お、早ぇじゃん」

「必死よ!必死!なに、孝宏がどうしたって!?」

「ちょい、こっちこっち」


 手招きされた萌香は、慎介と並んでホテルのエントランスの植え込みに身を潜めた。ホテルのドアボーイや客待ちタクシーのドライバーが怪訝な顔をしたが、そんな事はどうでも良かった。


「なに?」

「孝宏なんだけどさ」

「うん」

「この店に、出たり入ったりしてるんだよ」


 ブティックが並ぶその奥に、石畳のカフェテラスがあった。葡萄棚には葉が生い茂り、黒曜石の様なスチューベンがたわわに実っている。ボルドーのガーデンパラソルの下ではイタリアン料理に舌鼓を打ち、白ワインでほろ酔い気分になった客が賑やかしい。


「こんな小洒落た店に孝宏が?いつから?」

「午後の2時頃から、かな」

「あんたも頑張ったわね」

「10,000円が俺を待っている」

「あ、そうだった」

「忘れんなよ」


 孝宏の営業成績は、それほど悪くはない。むしろ上位に入っている。先月の営業成績も良かった。けれどそれに胡座あぐらをかいて、勤務時間中にこのような店に出入りしているとなると、話は別だ。


(なにやってんのよ、もう!)

「おまえ、顔、怖ぇぞ」


 萌香は、曲がった事が嫌いだ。孝宏が怠けて休んでいたと思うと無性に腹が立った。


「それで?出たり入ったりって、1人で?」

「そんな訳ないだろ、2人だよ」


 慎介は携帯電話を取り出し、暗証番号を入力し始めた。もし孝宏と光希が映っていたとしたら、そう思うと萌香の鼓動は自然と激しくなった。


「おまえ、顔、怖ぇぞ」


 萌香は、慎介の手から携帯電話をもぎ取ると、画像フォルダを指で忙しなくタップした。ライブラリを上から下へとスライドすると、孝宏の笑顔が映し出された。それは、萌香が見た事のない溌剌としたもので、胸が締め付けられた。


(こんな風に笑う事もあるんだ、知らなかった)


 一緒に暮らした3年間が、一瞬にして覆ってしまった。萌香が茫然としていると、慎介が背中を叩いた。


「おい!孝宏だぞ」

「え!?」


 キャッシャーで支払いを終えた孝宏は、店員に軽く頭を下げると店を出て来た。その背後には、黒いカットソーにダンガリーの白いシャツを羽織り、ジーンズを履いたカジュアルな服装の青年がいた。孝宏に友人を紹介された事はあるが、その誰とも似ていない。


「あの男、見た事あるか?」

「ない」

「あんな感じで、男と店に入ったり出たりしてる」

「男の人と?」


 ライブラリの画像には、男性と連れ立って店に入る孝宏の姿が映っていた。


「これって、なに?」


 孝宏と、行動を共にする男性の年代や背景は、まちまちだった。ネクタイを締めたサラリーマンや、バンドマンと思しき風貌、また、大学生か高校生といった幼い面差しもあった。2人で入店し2人揃って出て来る事もあれば、1人の時もある。萌香には、なにがなんだか分からなかった。


「なんだと思う?」

「分かんない」

「俺も分からん」


 戸惑う2人。


「まさか、危ない薬の密売とかやってないよな?」

「やめてよ、怖い事言わないでよ!」


 孝宏はその男性と表通りまで行くと、手を振って別れた。


「なんなんだよ、これ」

「慎介」

「なに」

「その画像、私のLIMEに送って」

「お、おお。良いけど、おまえ、顔、怖ぇぞ」


 孝宏の不可思議な行動に、残念ながら光希の姿はなかった。



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